(主要人物:双樹 ジャンル:シリアス キーワード: - 作品No.9)
最終更新:2005/02/04(Fri) 00:09
寄稿者:大江
夜は静かにふけていく。時計の針は深夜0時をさし、すでに消灯時間も過ぎている。それでも彼女の気持ちは落ち着かないままだった。
双樹はひそかにある秘薬を手に入れていた。存在すら疑わしくて、葉佩に頼んで持ってきてもらったときでさえ、信じられなかったもの。それは媚薬。
一人の異性を振り向かれたい一心で、望み続けてきたものだ。頼みを聞いた葉佩が、自室から持ってきてくれるまでの十分間すら待ち遠しかった。手に入れたときには、心がおどるように嬉しかったことは今でもはっきりとおぼえている。
それなのに双樹の手元には、まだ媚薬の小瓶がある。
何故すぐに使ってしまわないのか。もし葉佩がいなければ、手に入れることすら不可能だったかもしれないものなのに、いざ使おうとするたびに、ためらってしまう。
思いをめぐらせながら、双樹はポケットから媚薬を取り出した。その包みに違和感を覚え、次に彼女の顔から血の気がひいた。
違う、これじゃない。その中身がベルガモットであることは、包みを開かずとも香りで解かった。
たまたまその日の昼休み、双樹は取手、椎名と一緒に昼食をとった。そこで疲れていた取手に精神安定のためにと香の包みをあげたのだった。中身はベルガモットのはず、それがここにあるということはつまり、包みを間違えてわたしてしまったのだ。
香りに関しては双樹は絶対の自信があった。自分が間違えるはずがないと、たかをくくっていたバチがあたったのだろうか。
今夜のうちに取手は包みを開けてしまったかもしれない。もしも包みをひらいて中身を見たのなら、彼も葉佩の友人だ、小瓶の正体に気づいてしまった可能性は十分にある。双樹が葉佩に頼んだことは容易に察しがつくだろう。
部屋の時計を見れば、時刻は0時を過ぎて1時になろうとしている。いまから男子寮に押しかけるのは目立ちすぎた。女子寮に呼んでも彼は来てくれるだろうが、それでは取手に迷惑をかけてしまう。
取手はおっとりしていて人がいい。彼が媚薬のことを知っても、双樹を問い詰めたりはしないだろう。それだけに、自分でも邪道と思っている媚薬を持っていることが、彼女にはひどく後ろめたく思えた。
明日の朝、学校で会って話をしよう、そう決めて双樹はベッドにもぐりこんだ。
次の日の朝。双樹が登校しようと自室から出ると、廊下で騒ぎが起こっていた。
水泳部の後輩に話を聞くと、入り口に男子生徒が待っているという。取手だろうか、双樹は着替えもそこそこに一階へと降りていった。
「葉佩?」
そこに立っていたのは《転校生》の葉佩九龍だった。身支度するのも惜しんで来たのだろうか、寝癖が残ったままだ。
「取手くんに頼まれてさ、これ」
さしだされた白い包みは端がやぶけていた。取手が中身の正体を察して、気を回してくれたのだろう。直接では気まずいことになっただろうから、取手の判断は間違いではない。間違いがあるとしたら自分だろう。
「いまから登校なら、いっしょにいかない?」
「……残念だけど、忘れ物があるの。先に行ってていいわ」
そう、とそっけない返事を返すと、葉佩はさっさと校舎へと歩いていく。彼女は質問をなげかけてくる女子生徒をてきとうにあしらいながら、自室へと引き返した。
自室にもどってドアを閉じる。机の上に置いてある小箱を開くと、そこにはいくつかの香がきちんと分けて収められていた。
小箱に媚薬を入れてふたをしながら考える。自分はこの薬をどうしたいのか。使ってしまいたいのか、持っていたいだけなのか。それとも、すててしまいたいのか。彼女自身、胸のうちを把握できていない。
壁に立てかけてある鏡を見る。他人には見せたことのない表情がそこにあった。
その異変に取手が気づいたのは、三限目の最中だった。
終わりの見えてこない世界史の授業。昨夜、スランプから抜け出した取手は、授業もそこそこに曲作りをすすめていた。
やがて、腕の疲れをおぼえて手を止める。いくら曲を書けるようになったとはいえ、まだ身体は追いついてくれない。眠らずに明け方まで作業をつづけてきたツケが、ここになって出てきたようだ。
顔をおこせば、授業をまじめに受けている者はなく、迫っている受験対策の内職に必死だった。当たり前のことだと思っているのか、歴史の教師もそれをとがめようとはしない。受ける者のない教室で、授業だけが淡々と進められている。
進学に興味がない、という生徒はこの学園では少ない。取手も一年前のこの時期は、三年生たちの横を通るたびにピリピリとした空気を感じていた。緊張した彼らの気持ちが、三年生になったいまなら理解できる。
みんなもそれぞれの進路に向かうのだろう、取手も予期していたことではあるが、やはり寂しい気持ちになった。
トトは留学を終えて故国エジプトに帰るのだろう。七瀬は進学だろうか、彼女が本を手放したところは想像できないから、多分そうなのだろう。そんなことを考えながら、取手は一人のクラスメートに目を向けた。
阿門帝等。生徒会長である彼には、とても同学年とは思えない威圧感があった。彼はじっと教師の話を聞いているようだったが、不意にある方向を見た。
(何を見てるんだろう?)
取手は視線を追った。
その先には双樹の姿があった。
双樹のようすはいつもと違った。覇気がない。悩み事でもあるのだろうか、何か物思いにふけりながら、ぼんやりと授業を眺めている。
もしかして、自分が媚薬の存在を知ったことを気に病んでいるのだろうか。そう考えると取手は申しわけない気分になった。
しかし、今朝に教室で顔をあわせたときには、おたがいに普段と変わらずあいさつをしている。それに包みのことを謝ったときにも、気にしたようすは見せなかった。自分が理由ではないとするなら、一体何が彼女を悩ませているのだろう。
自分では力になれないことなのかもしれない。それでもスランプから脱するきっかけを作ってくれたのは双樹だ。なんとかしてあげたいな、そう取手は思った。
気だるい午後の授業、そしてHRが終了した教室で、ひとり双樹は物思いにふけっていた。
本当の愛がほしい。それは女性なら誰もが望むことだろう。それは双樹にとっても例外ではなかった。
愛してくれと、思い人に強いることはできない。人間の心はどうしようもない。自分の心ですら自由にならないのに、他人の心をどうして自由にできるだろう。それだけならまだよかった。
彼が自分以外の誰かを愛するかもしれない。理屈ではわかっても、彼女の感情はそれを受け入れることができなかった。
阿門に預け、葉佩によって封をとかれた弱さ。まだ、自分は弱さに囚われ続けているのかもしれない。
物思いにふけっていると、目の前を影がよこぎった。うつむいていた顔を起こす、そこにはトト・ジェフティメスが心配そうな表情で立っていた。
トトもクラスメートだが、椎名などにくらべると接点はあまり多くない。特に留学生として距離を置かれていた時期などは、彼が何をしていたのか双樹は知らない。ただ葉佩とつきあうようになってからは、いくぶん社交的になり、女子生徒からの占いも引き受けているようだった。
「双樹サン、占イシテミマセンカ?」
「えっ?」
唐突な申し出、双樹も返答に困ってしまう。そんな彼女のようすに頓着せず、トトはさらに続けた。
「悩ミ、一人キリデ抱エテイルノハ、トテモ苦シクテ良クナイコトデス。デモ、僕ガアナタニデキルコトハ、占イグライシカナイ……」
トトはあまりしゃべりが上手ではない。学生としてなら立派なものだが、まだ意味の通らない言葉遣いなどもすることがある。トトは懸命に言葉をえらびながら、なんとか自分の思い双樹にを伝えようとしていた。彼女は、この申し出を断る気にはなれなかった。
「いいわ、占って」
彼はポケットから取り出すと、真剣な顔つきでカードをシャッフルする。意識を集中させているのか、目をつぶったままで乱れた札を整え、数枚のカードを抜き出した。次に選んだカードを表にし、じっとそれぞれを見比べる。
カードを指ししめしながら、トトは占いの結果を順をおって説明した。
「今、双樹サンヲ苦シメテイルモノハ、遠イ過去ニ由来シテイマス。ソシテ、コレガ未来……《棍棒ノ3》努力ノ実リヲ表シマス」
努力したと思う。でも、あの人の目に自分は映っていない。どれだけ思ってみても、応えてはくれないのだから。私は一人きりになる。こころが重くなり、自然と彼女はうつむいた。
占いの結果は悪くなかった、なのに双樹は沈みこんでいる。自分は力になるどころか、彼女を傷つけたのだろうか、トトは不安にかられた。言うなとは言われていたが、決意して彼は口を開いた。
「双樹サンハ一人デハナイデス」
思ったより声が大きくなった。双樹が驚いたように顔を上げる。トトは彼女の眼を見つめながら昼休みにあった出来事を話した。
今日の昼休み、トトは屋上で葉佩たちと弁当を食べた。そこへ何か思いつめた表情の取手とリカがやってきたのだ。
ふたりとも双樹のようすがおかしく、何かあったのではと心配していた。しかし、彼女が話せないほど、プライベートなものではどうしようもない。そこで葉佩が一計を案じて、トトがさりげなく占いをもちかけることになったのだという。
色白コンビが心配しているようすを思い浮かべ、双樹は罪悪感にかられた。彼に話を持ちかけるほど、真剣に悩んだのだろう。それがうれしくもあった。
「ありがとう、話してくれて……。あの二人にも、御礼を言うわ」
「ソウデスカ……。アナタノ悩ミガ解決スルコトヲ、僕モ祈テマス」
そう言ってトトは教室を去っていった。あの人は見た目よりずっと一生懸命な人だ。彼女の努力が大きな果実となることを、彼は心から願った。
その夜、彼女は香の小箱からあの包みを取り出した。
つつみを開いて小瓶を手にとって見つめる。これを使ってしまうのは怖い、彼を裏切ってしまうから。これを失ってしまうのも恐ろしい、あの人が自分以外の女性を愛するのを見なくてはならないから。
捨ててしまおうか?
媚薬をにぎりしめる。小瓶は力をこめれば割れてしまいそうなものだ。窓から投げ捨てれば、砕けて効果を失うことだろう。
双樹は一度、きつくふたを閉めなおしてから香の小箱に媚薬を戻した。これは自分の弱さだと彼女は思う。
自分の弱さを打ち明けよう。本当の愛を信じたくても、信じることができない私の臆病さを。こんな自分をうけいれてくれるのなら、すべてを告げて、それでも愛してくれるのなら、それは本当に愛されるということなのだろう。