図書館にて。

箱根

 古い本独特の香りが、ふと鼻をついた。
 右を見ても本、左を見ても本。ずらりと並んだ背表紙の、日に灼けた分類番号と、それ以上に擦り切れてろくに読めない題名が、彼らがここに来てからの年月を伝えている。
 ここ───真神学園高校図書館、時諏佐文庫。
 現理事長・時諏佐槙絵をして「いつからあるかわからない」と言わしめる膨大な量の書籍を抱える図書館は、都立高校のそれというより、大学か研究機関のそれに近い規模を持っていた。校舎に紛れて、幾教室分かのスペースにぎっしりと詰め込まれた本たちは、「易経」から「神曲」、「雑学入門」から「スヌー○ー」まで、漢籍洋書新書ペーパーバックと取り混ぜて、だが厳密に分類されている。出す所に出せば、と思わせる和綴じ本は、さすがに書庫で眠っているが。
 いつものように、美里葵は図書館の扉をくぐった。
 顔見知りの司書さんと会釈をし合い、本棚の森を通って目的の場所へ行く。
 総記、年鑑、辞典。哲学、思想、心理学、宗教。歴史、伝記、地理。社会科学、政治、法律、教育関係、民俗学、風俗史、民間信仰、伝説、軍事……
 行き過ぎた。
 分類番号に沿って歩いていくと、ついつい題名の物珍しさにつられて、目的を忘れてしまう。入学してから二年半を数えるというのに、いつの間にか新しい本が並べられていく図書館は、いつ来ても飽きることがない。
 彼女の親友ならば、「葵がトクベツなんだよッ」と頬を膨らませるところだろうが。
 037、教育関係。「現代の教育現場の実状」「子供のこころ教育」「思春期の子供たち」…高校生が読むより、教師陣のためにあるようなその本をだが、美里は次々と取り出し、開き、また戻すことを繰り返す。
 聖女のような、と評される美貌を曇らせて考えているのは、高校三年の二学期というこの時期にふさわしい、受験やその後に続く将来のことではなかった。
 一つに、先日「妹」になったマリィのこと。福祉学校の名を借りた人体実験場で、健やかに育つべき日々を捻じ曲げられた少女は、新しい環境のなかで少しずつ子供らしい表情を取り戻している。だが美里は、生来の生真面目さゆえか、様々な事情を持つ現代の子供と、彼らを取り巻く社会の有り様を思い、少しずつ勉強しているのであった。
 だがともすればそれ以上に、彼女の心を占めるものがある。
 038、民俗学の棚に並べられた本に、美里は目を走らせた。
「日本に根づく神と鬼」「闇のフォークロア」「江戸の霊威」「魔」「龍眼ー異能力者たち」−指でたどるのは、ただ一つのキーワード。
「鬼」。
 この夏終わりを告げた───告げたはずの、数々の事件。
 その裏に潜む−異形の怪物。その伝説は数多く、子供でも「桃太郎の悪役は」と問われれば、すぐさま「鬼」と答えるほど、その名は広く知られている。だが角を生やし、虎皮をまとう姿は、おとぎ話で作られた後世のものだ。
 日本史や古典を学ぶ美里の年齢になると、その言葉に隠されたものが見えてくる。
 日本の歴史の陰にひそむ者たち───ヤマトタケルに滅ぼされた蝦夷、源頼光と四天王に滅ぼされた土蜘蛛、大江山の酒呑童子、菅原道真公の怨みで現れた雷電、朝廷に反旗を翻した鈴鹿御前。歌舞伎の黒塚の鬼女、戸隠の人喰い鬼。あるいは昔話の、足立が原の鬼婆。
 もはや物語となってしまっている彼らの姿は、人が鬼とならねば生きられなかった時代を伝える。
 彼女が出会った鬼たちー鬼道衆はみな、徳川幕府への怨恨によって鬼となった者たちだった。時の権力者に、鬼になる道へと追いやられた彼ら───追い詰めた、自分と同じ<菩薩眼の女>。
 遠い先祖のことのはずが、美里の胸はきりきりと痛む。
 日本の一時代を築いた「江戸幕府」こそが、彼らを鬼へと変えたのだとーこれまで信じてきた「正義」とやらが、だまし絵のようにひっくり返ったことを思い知らされた、あの夜の言葉…その主。
 九角天童。
 <宿星>に縛られた人。憎しみに喰われ、鬼となった人。彼の瞳の奥に見える、昏く澄んだ輝き。
 それと似た瞳を持つ人物を思い浮かべ、美里は軽くうつむいた。
 長い黒髪に縁取られた表情は、ほとんど動くことはない。数えるほどしか見たことのない瞳だけが、彼の心をわずかに映してくれる。
 マリィをして、「オ兄チャンハ、優シイ人ダヨ」と言わしめる───静かに、自分たちを見守っている彼の心にも、やはり「鬼」はいるのだろうか。
 美里のなかで、確かに息づく、「恐れ」や「悲しみ」といった、「鬼」たちが。


 物思いにふけっている美里は知るよしもなかったが、彼女から数メートル離れて、今まさに「恐れ」の鬼に食われようとしている人物がいた。
 言わずと知れた、緋勇龍麻である。
 帰宅部の彼は、部活の最後の引継ぎに忙しい仲間たちをここ図書館で待つつもりだったのだが、そこでとんでもないものを見てしまったのだ。
 そう…「日本の大魔術・陰陽道」だの「呪術:実践編」だのがゴロゴロ並んでいる棚の前で、美里が熱心に読書している姿を。
 なぜ彼がそんなことに詳しいかといえば、その隣の教育関係の棚で、一時期「児童心理学:どもり」だの「失語症について」だのを読んだ過去があったためである。
 その時ふと目に入った本があまりにオカルトチックなものばかりだったため、つい裏密を連想してしまい、この一角からは足が遠のいていたのだが(噂をすれば陰、という言葉もあることだし)。
 それはともかく、今は衝撃の新事実に打ちのめされている彼の心境を見てみよう。
(美里は、美里だけは“違う”と思ってたのに!!)
 コレである。
 そしてタイミングの悪いことに、美里がそんな龍麻に気付いてしまった。


「あら…緋勇くん、どうしたの?」
 何処かいつもより顔色の悪い龍麻は、無言のまま美里から目をそらす。まるでここで会ったことを戸惑うかのような仕草は、彼女にふとした直感を与えてしまった。
(まさかいつも…こうやって隠れて調べものを?)
 龍麻は、様々なことに造詣が深い。普通の高校生なら首を傾げるようなこと───それは謎めいた裏密の呟きだったり、犬神の皮肉めいた問いかけだったり、あるいは如月や龍山の靄がかった言葉に、彼は答えを躊躇わない。
 東西問わず多岐に渡る知識を、彼がこうして蓄えているのだとすれば、それはやはり。
(まだ何も、終わっていない……そういうことなの?)
 何もかも隠して、私たちを守り通そうとしているのか。
 これから先、いったい何が待っているのか。
 問い詰めればすべて彼が答えてくれるかのような、錯覚。
 いっそもう問い詰めてしまいたい、衝動。
 ずっと以前から考え続けていた───彼を見ると、胸に湧き出る───もどかしいこの想いを。
 今なら打ち明けることができるような。
 自分の内で吠える何かを抑え切れずに、美里は目の前で立ち尽くす龍麻を見つめた。この場の雰囲気にいたたまれないかのように、彼が握り締めた拳はわずかに震えている。
 我知らず泣き声を上げそうになった美里の唇はだが、その一瞬しっかと閉じられた。
 自分よりも、大切にしなければならないもの―彼の拳に、自分の手を添える。ぴくり、と揺れた龍麻の手は、初めて美里が触れた、父親以外の『男の人』の手だった。
 だがそれは、あまりにも戦いに慣れた手。堅く握られた拳には、自分には窺い知れない彼の過去と、戦いの痕が見て取れる。
 これまで龍麻に守られてばかりの自分。龍麻を問い詰めよう―追い詰めようとしていた自分。そんな自分に言えるのは、良くも悪くも月並みな言葉。

「…私には、あなたのように拳を振るって戦うことはできないから…その分、自分が出来そうなことは、何でもしたいの」

 だから、頼って。どんな小さなことでも良いから。
 そんな気持ちを込めて、まっすぐ彼の瞳を見つめる。前髪の向こうで、それは光を放っていた。彼とは―九角とは確かに違う―何かを訴えるような、何者をも諦めないと言いたげな、きららかに澄んだ輝き。
 吸い込まれそうだ、と思った瞬間、龍麻が初めて口を開いた。美里の手に、自らの空いた手を添え、ゆっくりと言葉がこぼれる。
「…そのままで、いい。」
 美里は思わず息を呑んだ。やわらかく首を振られて、今度こそ泣いてしまいそうになる。
 ───この人は、なんて大きな人なんだろう。
 何もかもをそっくり受け入れて、あるがままでいいと言ってくれる。こんな大きな人が、他にいるだろうか。
 目尻から流れた涙を慌てて拭いて、美里は微笑んだ。彼に答えたい。もっと強くなりたい。そんな想いが、胸にあふれる。
「…ありがとう、緋勇くん」
………いや………


 美里は知らない。龍麻がただひたすらに、
(頼むからできるのはヒーリングだけで充分だから黒ヤギとかカラスとか嵯峨野とか呼び出すのは…アレ?そうか美里がああいうのにナンパされたりさらわれたりしがちなのは、『そういうこと』か!?)
などとカンチガイな想像をかましていたのを。
 脳裏ではすでに、黒マントホウキetc.でコスプレした「魔法使い」サ○ーならぬ美里が、マリィとメフィストをお供に空を飛んでいたのを。


 そして二人は知らない。図書館で延々三十分に渡って見つめ合っていたその光景に、「全校憧れの(元)生徒会長」と「隠れファン急増中の謎の転校生」が密会、というとんでもない噂が、加速度的に校内を出回り始めていたのを。
 時は修学旅行を一週間後に控えた、平和な初秋の午後のことであった。

2001/06/26 奪


 今回のお題、「ツーショット」と「拳と魔法」を無理矢理どっちも取り入れようとして、こんな感じのブツと相成りました。
 ともあれ殿様、お誕生日あらためましておめでとうございます。そして二周年、50万ヒットと立て続けなお祝い事、箱めは草葉の陰より(おい)△まきびしを放ちまくりでございます。
 夏風邪はしつこいですから、ゆっくりお休み下さいませね。今度秘伝の薬草を箱めが作っておきますゆえに。
 未熟者の貢ぎ物ではありますが、どうぞお受け取り下さいませ。
 秘技、△十個同時投げ!!とうっ!!(>.<)//△△△△△△△△△△>(@0@)//

 ちなみにタイトル、いまいち良いのが思いつきませんでした…(不覚っ!!)
(箱根)


…箱…流石だ…見事なまでの勘違い!
やっぱ上手いよなー。今度ワタシの代わりに本編書い(バキッ)
しかし、正にこんな感じよね、緋勇と美里。
こんなのカップルになって幸せになれるとはとても…(笑)
ま、元々恋愛なんて、互いの勘違いの上に在るものよネ…(オトナ? オトナ? てへーっ)
(サーノ)