山茶花の咲く日々に

箱根

 暦も十月の末になると、日が落ちるのが早い。
 秋の長い昼下がりから、夕方へと刻限を移した校庭に、放課を告げるチャイムの音が響き渡った。ウエストミンスター寺院の典型的な響きを背に、校舎が急に活気付く。
 生徒用玄関からぞくぞくと流れ出す顔は皆、ようやく今日一日が終わった開放感で晴れ晴れとしていた。ドラムバックを背負い部室へと飛び出していく者や、携帯で彼女へのメールに余念のない者。
 ごくありふれた高校生たちの波のなか、わずかに遅れた人影はだが、豊かな表情を珍しく曇らせ、そっとため息を落とした。
 遠野杏子。言わずと知れた真神一のトラブルメーカーであり、本人としては遺憾なる評判と実績を持つ女生徒である。
 だが今日は珍しく、早目に帰宅するようだった。
 握られたプリントには、「第二回進路面談の要項」の文字──都内公立高にしては比較的のんびりとしたカリキュラムの真神学園も、文化祭が終われば三年生は進路問題で頭を悩ます時期である。
 いつもは楽天的な彼女も例外ではない。これから数ヶ月続く受験戦争とやらに、気ばかりが焦る。彼女のように将来の夢が定まっていても、そこにたどり着くまでの道筋があまりに長く感じて、途方に暮れてしまうというものだ。
(実際難しいもんなのよね〜…報道関係って。やっぱり大学に行っとくべきかしら)

 と、彼女と間を置かず、同じように玄関から現れる二人連れがあった。
「ふーん、じゃあ別に推薦じゃないんだ。でも先生、奨めてくれてるんだろ?もったいないよ」
「ええ、そうなんだけど……どうせならちゃんと、教育学についても学んでみたいの」
 どうやら真神が誇るマドンナは、しっかり自分の将来を見据えているらしい。美里と小蒔を振り向き、杏子はプリント製のマイクを突き出してみせた。
「ほほ〜う?では美里ちゃん、将来は母校に帰ってくるのかな?」
「あら、アン子ちゃん。ふふ、そうかも知れないわね」
「そういうアン子は、どうするの?やっぱり天野サンみたいなジャーナリストとか」
「う〜ん…あくまで希望はね」
 笑って返して、三人は歩き出す。何処かの剣道部部長と違い、成績内申ともにまともな彼女たちは、こんな会話が出来るだけ気楽なものだ。
 今この時期になって、進学でも就職でもなく「木刀一本で修行の旅!」と宣言し、下級生から羨望の眼差しを向けられた男は、とっくに行方をくらましている。マリアのため息が聞こえてくるようだ。
 他愛もないおしゃべりを続けながら、いざ校門をくぐろうとした時だ。
「あ、龍麻クンだ。お〜……
 小蒔の声は、唐突に途切れる。視線を追ってみると、確かに黙らずにはおれない光景があった。
 校門に沿って植えられた常緑樹の陰に、椿にも似た紅色の花を咲かせる木が生えている。細い枝が寄り集まったような立ち姿は、秋に似つかわしすぎるもの寂しさをたたえていた。
 その傍らで龍麻が、誰かを待つでもなく花を見つめている。
 物思いにふける横顔は、曰く言い難い、見る者の胸を引き絞るほどの切なさに染まっていた。
 何処かの映画にでも出てきそうな、まさに一幅の絵といえるような。
 誰もが急ぐ東京のただなかで、まるで時が止まっているような錯覚を感じるのは、ここが学校という世間から離れた場所だからであり、その中心に龍麻がいるからかも知れない。 

 声をかけるにもかけられず、そのまま見惚れるにまかせていると、小蒔がぽつりと呟いた。
「…龍麻クンさぁ、進路どうするんだろうね」
 あらためて考えると、彼が一度も自分の将来について語っていないことに気がついた。無口な人間だと承知してはいたが、問われてみると妙な違和感がある。
 進路、という漠然とした、でもどんな十代でも考えなければならないだろうこと。それがどうして龍麻を通すと、『当然』が通用しなくなるのだろう。
 一年後、自分たちは皆それぞれの目標を目指して違う場所にいる。では龍麻の目指す場所とは、いったい何処なのだろう。──視界の端で、美里がきゅっと拳を握るのが見える。
「龍麻くんのことだもの……きっと大丈夫よ」
 自らに言い聞かせるような言葉は、杏子には窺い知れない龍麻の何かを悟らせた。小蒔までもがしんみりと頷くのに、思わず胸がちりりと痛む。
 自分が知らない、彼らのつながり。それは未だ知らない世界への好奇心にも似て、杏子を焦らせる。
 その時だ。龍麻の頭上、大きくせり出した大樹の枝から、赤毛の猿が降ってきたのは。
「ひーちゃん、お待たせっ!帰ろうぜっ」
……ああ」
 杏子たちだけではない、龍麻を見守っていた周囲もろともがぎょっとするなか、あっさりと頷いた龍麻はそのまま京一と連れ立っていく。
 誰もの視線を釘付けにして、だが何もかも省みず去って行く後ろ姿。
あっという間に訪れるだろう別れの季節を暗示するようなそれに、杏子はたまらず叫んだ。
「ちょっと待ちなさいよ京一っ!あんた、マリア先生が探してたわよっ」
「ゲッ、冗談じゃねェよ。──行くぞ、ひーちゃんっっ」
「逃げる気!?ほら二人とも何ボケっとしてんの、追うわよっ」
「オッケー!きょーいち、ズルいぞっ!サボりなんて」
「…んもう、しょうがないわね」
 駆け出す背中を追いかけながら、杏子はふと思う。例え自分たちが何処へ向かい、どんなに離れてしまったとしても。
 こんなありふれた、だからこそ大切な思い出が消えることは、決してないのだということを。


 まるでその想いに応えるかのように、山茶花の花が黄昏色の空気のなか、いっそう色を深くさせていた。

<終>


・山茶花の花言葉…無垢。ちなみにサザンカの名前は江戸時代以降につけられました。元禄時代に、椿を差す山茶花(さんさか)から訛って、いつの間にかサザンカと呼ぶようになったそうで。どうして訛ったかというのは、言語学でも未だに解決されてないそうです。音韻として発音しやすかったから、とも。さらには江戸以前にどんな名前で呼ばれていたのかも謎。日本語ミステリィ。

2001/11/01 Release.