月光の犬 −犬神編

ベミ

 外は深い闇に包まれていた。
 見上げる空には星もなく、月すらもその輝きを厚い雲に阻まれて、墨を落としたような漆黒に覆われていた。
 しかし、俺の中に眠る魔性の血が、今宵が満月であることを告げる。いつもより五感が鋭くなり、無性に肉が喰いたくなるのだ。
 肉といっても、普通のパックに詰められた味気のない肉じゃない。温かい命の雫を滴らせる生肉。生きている者の息吹を感じる肉だ。
 かといって、昔のように夜道で人間を狩る訳にもいかず、仕方なく旧校舎に足を向けることにした。あそこの獣の肉も決して上等とは言えないが、パック詰よりはいくらかましだった。
 俺は意識を集中して、本来の獣の姿になると家をあとにした。

 昔は、俺たち闇の生き物と人間の数はほとんど変わらなかった。
 俺たちは夜に活動し、夜道を行く人間たちを襲っては日々の糧を得ていた。
 しかし、いつ頃からか、人間たちは俺たちから身を守る為に集団を形成するようになり、そしてその集団が力を持つと、今度は俺たち闇の者どもを狩り始めたのだ。
 俺たちは基本的に群れを作らない。
 集団対個人の戦いの結果は、日を見るよりも明らかだった。例え力や生命力では勝っていても、その数に対抗できるものではない。
 やがて、俺たちは次第にその数を減らし、奥地へと追いやられた。
 食う物のない奥地へと追いやられた俺たちは、大半が餓死して更にその数を減らした。しかし、それでも飽き足らない人間たちは、更に追い討ちをかけるように俺たち闇に生きる者たちを専門に狩るハンターを雇い、徹底的にこの世からの抹殺を謀ったのだ。
 生き残る為には、もはや己の闇の者たるプライドさえも捨てさるしかなかった。
 そしてその時より、俺たちは人間の姿で人間と同じ生活を営むようになったのだった。
 今までは人間を欺き、捕食する為の手段であったそれが、今では自分の身を守る為の手段になったというわけだ。
―ああ、暗い…。せっかくの満月だってのに、光を浴びられねぇから思考がこうまで暗くなるのか?それとも、俺ももう年かな…。
 俺は思考の暗さにゲンナリなりながらも、旧校舎の出入り口を潜り抜けて中へと進入した。
 そういえば、このところこの旧校舎に出入りする馬鹿な奴らがいるらしい。
 教師という職業の手前、一応注意や忠告をそれなりにしてきたつもりだが、馬鹿はやっぱり馬鹿だ。今年になって、もうかなりの生徒が中に入って出て来ていない。
 俺はだいたい人間が好きでも嫌いでもない。ましてや、ボランティアなんかするつもりは更々ない。中に入っていく奴を見掛けても、俺は止めない。中の獣たちだって霞を食って生きている訳ではないのだし、それを捕食する俺としては、獣が飢え死にしないということはむしろ歓迎するべきことなのだ。ま、キレイ事だけじゃ生きていけないってことだな。

 だが、その日ばかりはそうも言ってられなかった。
 旧校舎に入り、階下に降りようとした時だった。微かな物音と生き物の臭いに振り返ると、そこに緋勇龍麻が立っていたのだ。
 どこか虚ろな目をした緋勇は、ふらふらとこちらに近づいてくる。どうやら、俺の姿は闇にまぎれていて気が付いていない様だった。
―しかし、なんだってこんな時間こんな所に、しかも一人でやって来たんだ?
 俺は疑問に感じながらも、これ以上緋勇の行動を見過ごすことは出来なかった。
 何故なら、俺はこの地と緋勇を見守らなければならないからだ。それが、あの女の最後の言葉であり願いだったから。この俺が、最初で最後愛した女の…。
 俺は踵を返すと、地を蹴って緋勇に飛び掛った。いつもの緋勇なら難なく避けられていただろうが、今日はいつもより反応が鈍く、俺に押し倒されるがまま後ろにもんどりうって倒れた。
 すかさず、暴れられないように四肢の自由を封じ込める。しかし、緋勇は抵抗はおろか、まるで好きにしてくれと言わんばかりにゆっくりと目を閉じた。
―何があった?こいつにここまで打撃を与えること…。蓬莱寺か?
 そういえば、ここの所あの馬鹿の姿を見ていない。
 遅刻は日常茶飯事。エスケープはお手のもの。出席にいたっては、卒業が危ぶまれるほどのどうしようもない男が、このところは妙に真面目に学校に毎日顔を出すようになって俺も驚いていた。だが、この2、3日ふつりと顔を見なくなっていたのだ。
 俺はまたいつものサボりが始まったのかと思っていたのだが、こいつのこの様子からすると、何かに巻き込まれて消息を絶ったまま行方不明になっているのかもしれない。
 とその時、静かな淡い月の光が廊下に差し込み、俺と緋勇を映し出した。どうやら、月を覆っていた厚い雲は風によって吹き払われたらしい。闇一色だった景色は、落ち着いたモノトーンの世界へと姿を変えていた。
 しばらくして、身動きひとつしなかった緋勇の手がすっと上がり、俺の首筋にそっと触れてきた。
 その目元からは、止めど無く命の泉が溢れ出しては床に染み込んでいく。
―綺麗だ。
 俺はまるで吸い寄せられるように、緋勇の顔に口を近付けると頬を伝う雫を舐めとっていた。塩辛くて、どこか甘い涙の味が口の中に広がる。
 しばし、その味に陶然と酔い痴れていると、突然緋勇が俺の首に齧り付いて声を出して泣き出してしまった。
―オイオイ…勘弁してくれ…。
 俺はどうしてよいやら途方に暮れて、馬鹿のようにその場にただ座っていることしか出来なかった。
 やがて、一通り泣き終えて気が済んだのか、緋勇が立ち上がった。つられて俺も顔を上げる。立ち上がった緋勇は、旧校舎の地下へと降りる階段の方を見遣っていた。まだ地下へ行こうとしているのかと思った俺は、低く唸ってそれ以上踏み込ませないように威嚇する。
「わかっている、もう帰るさ。」
 そんな俺の態度に微かな笑みを返した緋勇は、旧校舎の出口へと足を向けた。その足取りは、入って来た時のようなどこか覚束ない危げなものではなく、緋勇本来の堂々と自信に満ちた足取りに戻っていた。
 その後姿に、俺は柄にもなくホッとして、緋勇の後ろについて旧校舎から一旦外に出た。

 外に出ると、真ん丸い満月が俺たちを出迎えてくれた。
 真昼の太陽のように、全てを焼き尽くすような凄絶な光ではないが、傷ついた者を優しく包み込むような淡い光が俺は凄く好きだった。だが、今の俺は別のモノに心を奪われていた。
 月に照らされた緋勇の横顔。普段から整った綺麗な顔立ちだったが、月の光の下で見上げると、清楚な中にも何かしら妖しげな色香を感じる。
「いつの間に月がでたんだろう。綺麗な満月だ…。」
 緋勇が月を見上げながらそう呟いた。
―ああ、綺麗だ…。
 その横顔を見詰めて、俺は喉が異様に渇くのを感じた。
 自然に、喉元に視線が釘付けになる。闇の本能が目覚めようとしている。
 コクリと喉を鳴らせた俺は、だが次には理性を取り戻して頭を軽く振った。
―俺ともあろう者が、月光にあてられたか。これ以上おかしな気分になる前に、早くこの場を退散した方が無難だな。
 俺は今宵の狩りがいつもより長くかかりそうなそんな予感を胸に、旧校舎の中へとひとり戻って行った。

‐終‐