ベミ
気分が悪い。なんだか頭もぼーっとして、喉もひりひりと痛い。
「…麻ッ、緋勇龍麻。おいっ、いないのか?」
あ?誰か呼んでる?
俺はぼーっとした頭を叱咤して、なんとか現実世界に戻ってきた。
今日はマリア先生は研修でお休みだ。代わりに副担任が朝のHRを取り仕切るのが普通なのだが、どういう訳か今目の前にいるのは犬神先生だった。
あ、さっき呼んだの犬神先生だったのか。そうか、出席を確認してるんだったな。
俺はぼーっとした頭のまま、返事をしようと口を開けたが声が出ない。
あ、あれ?なんで声出ないの???
再度試みたが、やっぱり結果は同じだった。どーしたの俺。あんまり喋らないから声の出し方忘れちゃったのかな。(んなわけないって)しょうがないので、片手を上げて存在をアピールする。
「なんだ。いるならちゃんと返事をしろ」
あう…だ、だって声が出ないんだもん。
俺がそんないい訳めいた事を考えていると、教壇から犬神先生が急に下りて来た。
ご、ごめん。先生、今のなし。
俺は犬神先生に心の声がばれたのかと思って、思いっきり焦ってしまった。だが、先生は俺の前まで来ると、すっと手を出して俺の額にあてた。
冷たくて気持ちいい…。
「なんだ、お前熱があるじゃないか」
え、そうなの?どーりで気分悪いと思った。
「今日はもういいから、早く帰って寝ろ」
はい、先生。しかし…せっかくの貴重な高校生活を、風邪の為に一日無駄にしてしまっ
た。とほほ…。
「大丈夫?緋勇くん。」
隣の美里が心配して声を掛けてくれた。
ううっ、ありがとう美里。うん、大丈夫。これ以上学校休んで貴重な日を無駄にしたくないから、明日には元気に復帰して見せるよ。
俺は美里を安心させるように小さく頷くと、手早く荷物をまとめて教室を後にしたのだった。
ところが家に帰りつく前に、俺は今日どうしても寄らなければならない所があったことを思い出した。図書館で借りていた本の返却期限が今日までだったのだ。
さきほどから熱が上がってきているのか、なんとなく平衡感覚も怪しくなってきていたのだが、気力を振り絞って俺は図書館へと進路を変えた。
やっとの思いで辿り着いた俺は、しかしもう既に階段を上る気力さえない。今や、立っているのさえようようという有様だった。
うー…。やっぱり一日ぐらい遅れても良かったかな。ここから家まではそう遠くはないけど、俺、辿り着く自信ない。
そんな時だった。
「大丈夫かい?」
と、突然後から誰かが声を掛けてきた。
振り返ると、そこには俺とほぼ同じくらいの体格をした何処かの男子学生が立っていた。
見たことない制服だ。この辺の奴じゃないのかな?
その学生の制服にはボタンというモノがなかった。色も地味な濃紺で全体的に暗く沈んだ印象を人に与える。だが、それを着ている学生は地味なタイプには見えなかった。
切れ上がった鋭い目つきの色白の二枚目。一見すると冷淡な美少年タイプにみえるけど、その中身は穏やかな優しい性質に思えた。
「どこか具合が悪いんじゃないかい?」
再度、学生が尋ねてきた。
うん、無茶苦茶悪い。でも俺、いま声出ないンだ。ごめんな、心配してくれてるのに…。
「ちょっとこっちへ…」
俺が申し訳なさそうな表情を浮かべると、その学生は俺の手を引いて一階のロビーの椅子に座らせた。
「熱がかなり高いな…。ちょっと待ってて。」
そう言うと、学生は何処かへ駆けて行ってしまった。そして、3分ほどすると、コップに水を入れて戻ってきた。
「これを飲んで。」
差し出されたカプセルを口に放り込んで水で流し込む。冷たい水の感触が喉に心地良い。そこにきて初めて、俺は凄く喉が渇いていることに気が付いた。
「家は近いのかい?」
俺は黙ったまま小さく頷いた。
「じゃあ送って行ってあげるよ。そのままだと何処かで倒れそうだからね」
え、いいのか?悪いなー見ず知らずの人にそこまでしてもらうなんて…。都会の人間は冷たい…なんて誰かが言ってたけど、あれは嘘だな。こんなに親切な人がいるんだもんな。
「ところで君。何かここに用事があったんじゃないのかい?」
そうだった。この学生の人間性にカンドーするあまり、ここまで無理して来たそもそもの目的を忘れるところだった。
俺は借りていた本を数冊鞄の中から取り出した。
「返却するんだね。僕が代わりに行って来るから、君はそこに座ってて」
学生は俺の手から本を受け取ると、コップと本を持ってまた駆けて行ってしまった。
ああ、いい人に巡り合えてよかった。
少し待っていると、学生が駆け戻って来た。そして、ふらつく俺の身体を支えながら、二人して図書館を後にした。
時折俺に道順を尋ねながら、学生は黙々と歩き続けた。そして、やっと一人暮しのワンルームマンションに辿り着いた時、
「鍵、あるかい?」
と尋ねられて驚いた。
俺がひとりきりなのを心配した彼は、なんと部屋まで運んでくれるつもりらしい。だけど、そこまで甘えてしまっていいのだろうか。俺は疑問に感じながらも、次の瞬間には鍵を手渡していた。
だってほら、病気の時ってなんとなく気弱になったりするじゃないか。特に一人っきりだとさ…って誰に言い訳してんだ?俺。
鍵を開けて中に入ってすぐ、俺はベッドに腰掛けさせてもらってパジャマに着替えた。
学生はそれを確認すると、台所に行って何やらゴトゴトと作業を始めた。そして10分後、なんとその手に雑炊を乗せた盆を持って部屋に入って来た。
「有り合わせの材料で作ってみたんだけど、食べられるかい?」
俺は起き上がって重ね重ねの礼を述べようとしたが、出てきたのは咳だけだった。
「無理しなくていいよ」
学生は咳き込む俺の背中を優しく撫でながらそう言った。そして、俺の咳が治まるのを待って膝の上に盆を乗せると、また台所に行って今度は氷枕を作ってくれた。
「じゃあ、僕はこれで帰るけど、ちゃんと寝ているんだよ。」
え、帰っちゃうの?
すっかり甘えきっていた俺は、なんとなくがっかりした。せめてもう少し、俺が眠ってしまうまで傍にいてくれないだろうか。なんてずうずうしいことを考えてしまった。
その俺の目に見えてがっかりした様子に気がついたのか、学生は少し困ったような顔をしたが、黙ってベッドの横の床に座り込んだ。
「そんな目で見られると、なんだかほっとけないな。君が眠るまで傍にいてあげるよ。」
ごめん。俺迷惑いっぱいかけてるな。
俺はすまなそうな視線で学生を見詰めた。そんな俺を見て、学生は微かに笑うと俺の頭を優しくクシャッと撫でて、
「さあ、温かい内に食べてくれ。」
そう言って俺に匙を握らせた。
俺は有り難くその雑炊を頬張り、すべて平らげると、眠気に誘われるまま床についた。
どこかでチャイムの鳴る音がする。
その音に揺り動かされるように、俺は目を覚ました。
部屋の中は暗く、そこには誰の姿もなかった。
そうか、帰っちゃったんだな。
俺はなんだか少し寂しかったが、ふと台の上を見ると置手紙がしてあった。
『君が眠ってしまったようなので帰るよ。起きたらこの上に置いている薬を飲むこと。それと、まだ少し雑炊が残っているから、夜までに起きたらそれも食べておくように。では、また…。』
俺はその手紙を読んで、心の中が温まる感じがした。
では、また…。ってことは、また何処かで会えるのかな?会えるとイイな…。
俺がそんな事を考えていると、またぞろチャイムが鳴った。どうやら来客らしい。
俺はさっきよりも幾分気分が良くなっていたので、起き出して玄関のドアを開けた。そこに真神のみんなが立っていたのは言うまでもない。
後日談になるが、俺は肝心な事を忘れていたことに気が付いた。例の学生の名前を聞いてなかったのだ。ほんと、俺ってどこか抜けてるよな〜っと後悔しても後の祭だ。
しかし、何故だか彼とはもう一度会いそうな気がする。いつになるかは分からないけれど…。
‐終‐