邪菌

鮎川いきる

 更衣室のマットに菌が繁殖していたのか芝プールで泳いだ日からどうも足の指が痒い。皮膚科に行ったらやはり水虫だと言われた。金輪際あそこに行くのはやめようと思う。黙っていれば級友たちに知らず知らず移ってしまうかもしれないが俺は黙っていた。菌仲間を増やそう、という意図ではなくあれは排尿障害と並び高校生が公言できない種類の疾患「オヤジ系」なのだから……もし告白したらそれまでひーちゃん、ひーちゃんと慕ってくれた者でさえ半径五メートル以下には近付かなくなる。もしも誰かが発病したら俺も名乗りを上げ、さも二番目の被害者であるかのように振る舞う事にしよう。
 しかし小蒔もルーズソックスを履いているのだからそれに包まれた足も相当蒸れているはずだ。雨の日などは弛んだ部分が水たまりにするびっているではないか。雨水は一番の大敵だと聞く、もしかしたら芝プールではなくどこか別の場所で小蒔から菌を貰ったのかもしれない。美里はタイツだがあれはどうなのか。俺はタイツを履いた経験がないのでよく分からない。小蒔の靴下ならば見ただけで中の湿度は想像がつくが、タイツは謎に包まれている。あるいは俺がタイツ収集家やタイツ評論家、または単なるタイツフェチであればその蒸れ具合を簡単に確かめられるだろうが生憎そんな高尚な趣味は持ち合わせていない。だいたいタイツとストッキングの違いについても判然としない、その程度なのだ。
 醍醐もいつも汗だくになって部室にこもりトレーニングに励んでいる。足にかく汗も尋常じゃなさそうだ。京一は裸足の剣道部だがこれも同じである。汗は洗い流されずそのまま風に吹かれて乾いてしまうのだから清潔とはいえないだろう。とどのつまり皆が怪しいということだ。

 風呂上がりに牛乳を飲むという習慣はもはや別のものに変わった。冷蔵庫に直行するのをやめ、俺は素っ裸のまま藤椅子に座り体をくの字に曲げる。その体勢で湯にふやけて柔らかくなった足の皮に処方された薬を塗りたくるのだ。こいつめ。こいつめ。死ね。死んじまえ。憎しみを込めながらやっているとそのうち手が滑って股間に二、三滴垂れる。ギャアーと叫んで椅子から転げ落ち、ヒィヒィ言いながら風呂場に戻り丹念に洗うともちろん足先の薬もすっかり落ちてしまい、また初めからやり直すことになる。そのため薬は医者から言われた日数の半分でほとんど無くなってしまった。

 真面目に病院に通っているにも関わらず菌はなかなか死滅しなかった。いつの間にか夏も過ぎ、都会の木々も次第に着色料で染められたような禍禍しい赤に変わっていく。この季節、誰かに菌が移っていたとしても最早それを確かめる術はない。怪しまれずに靴下を脱いでもらう事は不可能である。すっかり心の準備はできていたが、発病宣言をする奴も一人もいない。考えてみるといくら親友同士といえども「最近、足が痒くて」などと言い出すはずはないのだ。それどころか誰が移しやがったのかと疑心暗鬼になり、加害者に復習するため全力で証拠を掴もうとするはずだ……俺がそうであるように。
 どんなに強い絆であっても一度疑いの目で見てしまえばそれまでの関係など簡単に崩壊する。俺は京一を美里を小蒔を醍醐を恨んだ。恨みまくった。仲間、友達、親友、相棒、今ではどの言葉も当てはまらない。何も知らない振りをして笑いかけてくる奴らは俺にとって鬼道衆と何ら変わりはないのだ。

 そんな折、壬生紅葉という男に出会った。彼の頭頂部を見て俺は驚愕した。あれが生まれつきであるはずがない。彼が毎朝毎晩トントントントンやっているんだろうという事は容易に想像できる。いや、想像するまでもなかったのだ。次の瞬間彼は両腕を掲げ、いきなり頭皮マッサージを始めたのである。もはや癖になっているのだろう、こいつプロだ!と思わせるほどのリズミカルな動きは見る者全てを魅了し誰もぴくりとも動かなかった。
「君は僕を愚かだと思うかい。」
 頭皮を刺激する度に孤独感や猜疑心に悩まされ、自嘲してばかりいるのだろう。妙な笑みがすっかり顔にへばり付いてしまったらしい。この青年は二度と若々しい笑顔など取り戻せないのだ、もう二度と。
 17かそこらで悲運にもオヤジ病にかかってしまった俺たち。この溢れんばかりの仲間意識!ああ、壬生よ。なぜ俺がお前を嘲笑う?俺の分身である紅葉。…
…くれは。くれは。
 
 俺は裸足になり、泣きながら叫んだ。
「紅葉、これを見ろ!見てくれは!」