拾七
ノ後

魔獣行・後編 (下)

「お前たち人間は、ボクの仲間をたくさん殺した。自分たちの都合だけで、ボクの仲間を、何万匹もッ!!」
 「人間」にしか見えない子供が、まるで自分は人間ではないというように、京一達を指差し、糾弾する。
どうやら、とうとう今回の事件の首謀者が動いてくれたらしい。
 狂ったように笑いながら走っていく子供の後を追いながら、思惑が当たった事に満足した京一だったが、妙な不安に囚われている己にも気付いた。
どうしたというのか。
確かに今の少年を追えば、罠が待っているかも知れない。だが、そんなものは池袋に来る前から覚悟していたことだ。変生させた「兵隊」どもの準備が完全に整っていたにせよ、それを恐れる自分では無い筈である。
 余計な事に気を取られているうちに、少年の姿を見失ってしまった。
どうやらここに入ったらしいと当たりを付け、雑司ヶ谷霊園に足を踏み入れる。すると今度は美里に応じて、龍麻までもが「何か居る」と言い出した。醍醐はもう取り繕いもせず、おどおどと怯えている。
 油断無く辺りを見回していると、全く人の気配を示さないサラリーマン風の男が、突然声をかけてきた。
「君たち…死にたいとおもったことあるかい? 俺はあるよォ…。いつもいつもいつもだ。」
焦点の定まらない目と、口の端から零れ続ける涎が、正気でない事を示す。
現実への不満と、復讐を呟く男は、先程の少年と同様の呪詛を吐き出した。
「やっぱり、食べちゃえばいいのかなァ。」
別の方向から現れたOL風の女も、やはり同じだった。
「うふふふふ。可愛いわね、ボーヤたち。柔らかくて、美味しそう…。」
 人が人を喰らうなど、通常では考えられないが、彼らはどうやら、自分を人間ではないと思い込んでいるようだ。
これが「憑依」なのだろうか。
そして、これが「憑依師」の仕業なのだろうか。
「まさかこれが…、憑依された人たちなのッ!?」
小蒔の叫びにも、僅かに怯えの色が走る。
「わからねェ…けど、」
そう、解らないが、もしそうなら、彼らを手にかけてしまってもいいのだろうか。
見た目には明らかに普通の「人間」であり、恐らく肉体は本当にただの弱い人間のままなのだ。
何らかの方法で、彼らを呪縛から解き放つことが出来るならいいが、出来ない場合はこのまま殺すしかないのだろうか。それとも、何とか手加減して闘うしかないのだろうか。
「どうする───!?」
 ひーちゃん、どうすればいいんだ!?
焦りながら振り向くと、龍麻は軽く構えつつも、じりじりと後退している。
どうすりゃいい? 何で「命令」してくれねェんだ? お前にも解んねェのか? そんな筈ねェよな? さっきのは違う、たまたま上手くいかなかっただけで、こんなのは予測済みだろ? なァ、何とか言ってくれよ───!!

「みんな───!! 早く、こっちへ!!」

 京一をパニックから救ったのは、龍麻ではなく、絵莉の声だった。
「私が安全な場所まで案内するから、早くッ!!」
「あ、あァ。…そうだな。」
 慌てて頷くと、龍麻も応えるように頷いた。
「一般人を傷つけるワケにはいかねェし、ここは逃げるぜッ!!」
京一の言葉に、全員で走り出す。
憑依された人々も追っては来たが、憑かれている状態で動くのは難しいのか、元々よく鍛えられた身体は無かったのか、程なく姿が見えなくなった。

 しかし…と、考えずには居られない。
もしあの時、絵莉が助けに来てくれなかったら、龍麻はどうするつもりだったのだろう。
仲間の無事を最優先するためなら、肉体が一般人でも容赦なく斃したのかも知れない。絵莉と同様、一旦退却させたかも知れない。「手加減しろ!」と命じたかも知れない。
だが、これは龍麻の予想した出来事では無い、としか思えない。あまりにもリスクが高過ぎる。
そこまで考えて、京一は走りながら大きく息を吐き出した。
 考え過ぎだ。ひーちゃんは俺と違う、いつも冷静に、先のことを考えて行動してるさ。もし予測が外れたにしたって、こうして助かったんだから、いいじゃねェか。
 右を走る龍麻を見やり、恐れも不安もなく黙々と走る横顔に、やっと少しホッとする。

───だが、龍麻とて万能ではないのだ───

 ふいによぎった言葉にギクリとした。
龍麻が万能ではない、という事に驚いたのではない。
「龍麻は万能だから大丈夫」と、思い込んでいた自分に驚いたのだ。
いつの間に、これほど頼り切っていたのだろうか。
 共に在りたい、と。
龍麻が自分を支えてくれるように、自分も龍麻の支えになりたい、と。
そう考えてきた筈だったのに、そのために闘ってきたのに…いや、ひーちゃんのために闘っていたワケじゃ…いや、それでいいのか? 待てよ、どうして俺は…
(…チックショウッ。こんな、走りながらじゃ、まとまるもんもまとまらねェッ。)
 先程の連中の姿は、もう全く見えない。周囲にも怪しい気配は感じ取れないが、絵莉はずっと走り続けている。
どこまで走る気なんだよ、まさかこのまま新宿まで直行、なんて言わねェだろうな?
等と思い始めた時、やっと絵莉は足を止めたのだった。

「もう大丈夫よ。」
 その台詞に、ガクリと身体が折れる。両膝に手を付き、座り込みそうになるのを抑えて、息を大きく吐き出した。
小蒔も諸羽も、醍醐でさえ息を乱している。美里に至っては、公園灯に寄りかかり、今にも倒れそうだ。
龍麻だけは一見平気な様子で、絵莉の質問にも軽く「大丈夫」と答えていたが、軽く前髪を掻き上げ汗を拭う所作の間に、呼吸を整えようとしているのが見て取れた。
ルポライターとして日頃鍛えているからと言う絵莉だが、自分や龍麻を超える強靱な足と心肺能力を持っているだろうか?
 絵莉の言動がいつもと違っている事を訝しみつつも、京一は絵莉に質問を投げかけてみた。
事情は解らないが、あの場に居てここに自分達を連れてきたからには、あの奇妙な連中の事を知っている筈だ、と思ったのだ。
そしてそれは、的を射た問いだったらしい。
「生きるために…ただその純粋で崇高な目的のために、殺しあい、奪いあい、そして───喰らいあう。それこそが、人間の本能であり、本性───。この世紀末にこそ、人類はあるべき素へとかえるべきなのよ。」
「エリちゃん…。一体、どうしちまったんだッ。」
 先程の連中とは違い、特に奇妙なところも、狂った動作もない。
だが今、絵莉が浮かべている冷酷な笑みは、京一の知っている彼女とは全く違う、異質とも思える表情だ。
(どういうことだ? エリちゃんは憑依されてるんじゃねェのか? まさか本気でこんなこと言ってるんじゃ…)
背にぞっとするものを感じつつ、その肩を掴もうとしたが、絵莉はスッと交わし、ゆっくりと後退した。
「真実が知りたければ、ついてらっしゃい…。ふふふふ…、こっちよ───。」
 誘われるままについて行くと、絵莉は廃屋の並ぶ荒れ果てた一画へと足を進めた。そのうちの工事場跡のような建屋に入っていくのを、止めることさえ出来ない。
 絵莉が憑依されているにせよ、騙されているにせよ、放っておく訳にはいかないだろう。
京一は迷わず、後に続いた。

 案の定、中で待っていたのは、憑依されていると覚しき人々の群れだった。その顔は霊園に居た連中と同様に、餌に食らいつこうとする獣のようだ。
罠を仕掛けたのは絵莉なのか、それとも…
「一体、どういうことなんだ? エリちゃん。」
 袱紗に手をかけつつ尋ねると、絵莉は笑い出した。
「フフフ…。ウヒヒヒヒヒッ!!」
その声が、理知的な含み笑いから、聞いたこともない男の嘲笑へと変わる。
やはり彼女は、憑依されていたのだ。恐らく、「憑依師」本人に。
「くそったれがッ!! さっさとエリちゃんの体から出ていきやがれッ!!」
怒りに任せて怒鳴っても、絵莉───いや、「憑依師」はニヤニヤ笑っている。美しい絵莉には似つかわしくない、下卑た笑顔と下劣な声が、余計に京一の神経を逆撫でした。
「くくくッ。この女は十分に役目を果たしたぜ。邪魔なてめェらを、この罠へと誘い込むなァ。」
 薄々感づいてはいたものの、全く無関係な人間を使って罠を仕掛けるやり口には、改めて怒りが沸いてくる。
「こうなったら、…やるしかねェッ!! 諸羽ァ!! ビビるんじゃねェぞッ!!」
「は…はいッ!!」
「行くぜッ───!!」
 叫ぶと同時に、龍麻が正面に立ち塞がる少年へと攻撃を繰り出したので、京一も遠慮無く、右のサラリーマン風の男に剣勢を飛ばした。
だがこの闘いは、普段とは別の意味で、苦戦を強いられることとなった。

「ギャッ!! …グルルルッ。」
 男が簡単に吹き飛び、壁に激突した。すぐに起き上がり、また立ち向かってくるが、その足はおかしな方向にねじ曲がったままである。
───ッ。」
ゾッとしながら振り向くと、龍麻の相手も、明らかに折れている腕で、戸惑うことなく反撃していた。
素早く後ろに回って取り押さえながら、龍麻が叫ぶ。
「みんなッ、手加減して…気を付けろ!」
龍麻にしては要領を得ない「命令」であったが、そう言わざるを得ないのだろう。
相手は、何かに憑依されてはいるが、元は一般的な生身の人間である。特別鍛えてでもいない限り、<力>を持った自分達の攻撃に耐えられる筈もない。なのに、どれほど傷付いても退かず、攻撃をやめないので始末に負えない。
「わ…解ってっけどッ…やりにくいぜ、チクショー!」
 刀を軽く持ち直し、敵に当たる寸前で峰打ちとする体勢は整えたが、それでも加減は難しい。
「ど…どうすれば…京一先輩ッ。」
勝手の分からない諸羽が、子供に囲まれ、じりじりと後退している。
「来るな、来るなァッ!」
小蒔も威嚇の射撃を繰り返すが、敵は意にも介さない。
もう一度龍麻を見ると、やっと先程の敵の首に手刀を入れ、気絶させたところだった。その間にも、OLが遠方から攻撃を加えていて、大きくはないが少なくないダメージを受けているようだ。
(どうすんだよ、いくら弱いったって、このままじゃこっちがやられちまう! もういい、相手が普通の人間だろうが何だろうが、ひと思いに───ッ!)
焦りから、京一は思わず刀に激しい<<気>>を込め直した。
 その時。
───霧島くんッ!!」
「さ、さやかちゃんッ!?」
駆け付けてきたのは、先程別れた筈の舞園さやかであった。
まさか、こんな廃墟で偶然出会うこともないだろう。ということは、ずっと後を追ってきていたのだろうか。
「こっちに来ちゃダメだッ。」
「いいえ。私も闘いますッ。」
 慌ててさやかの元に駆け付けようとする霧島を制し、さやかは真っ直ぐ走り寄ってきた。
そうして、両手を胸に添えて息を吐き出すと、スッとその手を前に差し出し、歌い始めたのである。
まるで、ここがコンサートホールででもあるかのように。
 さやかの透明なソプラノが建屋全体に響き渡り、一瞬味方も、敵さえも動きが止まる。
思わず見惚れていると、彼女の身体から神聖な光が溢れ出した。
それはフワリと浮き上がると、少し離れた位置に居た龍麻へと降り注ぐ。
 一体、何が行われているのだろうか?
光の雨に包まれた龍麻も、何が起きたのかというように、自分の身体を見下ろしている。
 その隙を、獣に成り切った<敵>は見逃さなかった。
がら空きの背中に、男が飛びかかろうとしているのに気付き、京一は慌てて叫んだ。
「ひーちゃんッ、後ろッ…!」
 間に合わない。
龍麻が咄嗟に頭上を右腕で庇いながら振り向くのと、男の両腕が振り下ろされるのとは、ほぼ同時だった───

「え………?」
 それは奇異な印象を与える光景だった。
男の攻撃は、完全に入っていた。
だが龍麻の腕は、まるでそれ自体が鋼にでもなったように、振り下ろされた腕を弾き返したのである。
多少の衝撃はあったようだが、受けるべきダメージは殆ど無かったようだ。
 何だ? 一体、何があったんだ? 龍麻の新しい技なのか? いや、さっきのさやかちゃんの…
まだ理解が出来ないうちに、いち早く理由を察した龍麻が、振り向くことなく叫んだ。
「全員に頼む!」
そして、無謀にも<敵>の只中に飛び込み、相手の攻撃を避けもせず、急所に当て身を食らわせ始める。
 慌ててフォローに回ろうとした時、ふわり…と自分の身も光に包まれたのを感じた。どうやら、さやかが京一にも同じ「歌」を歌ってくれたようだ。
確か身の守りを強化するアイテムがあった筈だが、それと同様の効果を、さやかの「歌」はもたらしてくれるらしい。
「サンキュ、さやかちゃん!」
 やっと合点がいき、改めて<<気>>を飛ばした。
<敵>を壁に激突させ、次々に気絶させる。斃し切れなかった相手からの攻撃も、京一に致命傷を負わせることは無い。
 龍麻は、このためにさやかの参戦を望んだのだろうか。
それなら大丈夫だという安堵の思いと、安堵する自分への苛立ちとが錯綜するのを振り切るように、京一は攻撃を続けた。
 時折、刃を直接<敵>の肉体に突き立てたくなる欲望を抑えながら───

 やっとの思いで全員を倒し、残った絵莉───いや、絵莉を乗っとっている「憑依師」に対峙した。
だが、その顔にはニヤニヤとした笑いが浮かんだままだ。
手駒を全て失った筈なのに、一体何を以て、それ程の余裕を保てるのか。
それでなくとも、思うようにいかなかった戦闘と、その汚い手口にキレかけているのだ。絵莉に似合わぬ嗤笑が、その苛立ちに益々拍車をかける。
 カッとなって啖呵を切った時、だが京一は、奇妙な体験をする事となった。
───!?」
 喩えるなら「熱い闇」とでもいうようなものが、身体の奥の、更に奥底から急激に膨らんで、京一の身体を数秒で捉える。
一瞬、感覚が周囲の全てから遮断される。
普通に立っていた筈が、急に後ろに引っ張られ、部屋から引き摺り出された…そんな感覚に、激情がスッと引いていく。
………? な…んだ? 今のは…)
「くくく、まったく単純な奴らで助かるぜ。あははははははははッ!! てめェら、もう終わりだな。」
「何ッ!? どういう意味だッ!?」
 憑依師と醍醐の会話にハッとして頭を振り、刀を構え直した。
こんな大事な時に、何を呆けていたのか。一刻も早く、絵莉を助け出さねばならないというのに。
 だが憑依師は、不気味な予言めいた言葉と哄笑とを残し、ふいに絵莉を解放した。恐らく逃げたのだろう。
釈然としないまま、気を失っている絵莉を連れて先程の公園へと向かった。

 公園で、意識を取り戻した絵莉から、憑依師について聞いた。
<敵>は「火怒呂 丑光」なる学生であり、絵莉が憑依師の家系「火怒呂一族」についての情報を得たところで、自ら接触を図ってきたという。
そうして絵莉は火怒呂に乗っ取られてしまったらしいのだが、腑に落ちないのは、その男の目的である。
目的が「獣の王国を作り、そこに自分が君臨する」というものならば、もっと秘密裏に事を運び、もっと手駒を増やし、多少の妨害など意にも介さない状態になってから、邪魔な自分達に挑むべきではないだろうか。
 諸羽の言う通り、帯脇が火怒呂と関わっていたなら、奴を通じて自分達の情報を得ているだろう。
驕るつもりはないが、これまでの行動を知った上で攻撃を仕掛けてくるのは、得策とは思えない。
余程自分の能力に自信があり、我々を倒すことを第一目標としていない限り、今回の用意周到過ぎる罠は、意味が無いのではないか。
 その疑問に答えるように、絵莉が呟いた。
「その事態が本当に意味するものは、この東京が大混乱に陥るという事なんじゃないかしら。」
 東京を混乱に陥れる───
それは、鬼道衆の起こした事件と同じ目的である。
彼らは現代の東京を自分達のものにしようとしていた筈だった。
だが、彼らの起こした<事件>は、革命とか変革とはほど遠いものであり、九角の悲願を達成すべく行われたものとは思えない。
 醍醐や美里が言うように、今回の事件に黒幕がいるのだとしたら。
それは火怒呂のみならず、鬼道衆さえも利用していた者…という事なのだろうか。
「この事件の背後には、何か大きな力の存在を感じるの。鬼道衆をも遥かに凌駕する───、抗いがたい、運命ともいえる<<力>>…。」
絵莉の言葉も、その推理を裏付けるように思えた。
「でも、あなたたちなら、それを覆すことができる。わたしは…そう信じてるわ。」
 そう告げる絵莉の、いつも通りの聡明で優しい笑顔が、京一達に力を与える。
「なんか…自信出てきたねッ。」
これまで人知れず東京の街を護ってきた、それを誰かに知らしめたいという訳ではない。だが、この苦労や哀しみを近くでずっと見守ってくれた人の言葉は、予想以上に胸に響き、勇気付けられる。
「ヘヘッ。いいこというぜ、エリちゃん。」
 感謝の意を無調法な言い方に秘め、京一は更に、火怒呂を追おうと言った。
言うつもり、だった。

「うッ───!?」

 まただ。
 またさっきと同じように、意識だけが身体から遠く離される。
 そして身体の奥底から、自分ではない自分が目を覚ますのを感じる───

 ───憎いだろう?
 ───喰らいたいだろう?
 ───己が欲するままに、殺したいだろう?

 …ああ。
 憎い。喰らいてェ。殺してェ。俺の力を存分に振るいてェ。
 そうするために必要だというなら、闇に堕ちても全然構わねェ。

 必死で閉じ続け、目を背けていた、魂の奥の扉が開く。
抑圧され続けていた獣の咆吼が全身を揺るがす。

 俺ノ本当ノ望ミハ己ガ本能ノママニ己ガ力ヲ振ルイ獣ノヨウニ自由ニ全テヲ斬ッテ斬ッテ斬リ捨テルコト
 違う、違う、これは違う嘘だ絶対に違う!

かろうじて残っている人間の心、理性が、外へ出ようとする激しい欲望に浸食されていく。
開かれた扉の奥、闇の中に光る、今にも飛び出さんばかりの獣の眼に、全てが吸い込まれていく。

 ───やべェ このままじゃ 俺はみんなを ニンゲンを───


「活剄!」

 鋭い声が、混乱を極めた京一の全身を打った。
頭の奥の熱がスッと引いていく。
今にも暴れ出そうとしていた「獣」が、元々居なかったかのように、静けさを取り戻す。
汗ばんだ掌と、まだ収まりきらない鼓動だけが、今の葛藤が現実のものであったことを示している。
 何が起きたのかは、すぐに分かった。
憑依師の奸計に自分は嵌った。注意されていた事を忘れ、感情が揺らいで、戦闘直後に憑依師の侵入を許した。そして油断していた今、自らに眠る本能とリンクする「獣」の霊に取り憑かれた、という事だろう。
「そうか…。今のが、獣の霊……。」
顔をしかめ頭を振る醍醐を、軽く揶揄しつつ立ち上がる。
そうする事で普段通りを装ったつもりだったが、心配そうに声をかけてきた諸羽の表情からすると、まだ相当顔に出ていたらしい。
「みっともねェとこ見せちまったな、諸羽。」
自嘲すると、安堵の表情を浮かべる諸羽の傍らにいた龍麻が、スッと離れた。
 争いや激情とはほど遠い美里とさやか、「スサノオ」とかいう神の魂を持つらしい諸羽。そしてどんな時でも冷静さを失わない龍麻は、「罠」にかからなかったようだ。
「この体の中に、俺の知らないもうひとりの俺がいる…。霊云々よりも、そのことの方が嫌な後味だな…。」
醍醐の呟きに、悔しいが同意せざるを得ない。
 俺の中に「獣」が棲むことなんざ、とっくに知っていたけどよ───

 密かに落ち込んでいた京一だが、「命の恩人」によって更に下まで突き落とされた。
「劉 弦月」と名乗った青年は、中国人だと自己紹介している割に、妙な関西弁と妙に高いノリで、ベラベラとよく喋る。
 (何だコイツ、うさんくせェな。)
しかし、そう思って顔をしかめている京一を尻目に、龍麻は真っ先に男に近寄り、深々とお辞儀をしたのである。
時々やたらと大袈裟なモーションを起こす龍麻だが、ここまで頭を下げているのは、見た事がない。
その上で「よろしく頼む」と付け加え、更に握手まで求められては、誰でも歓迎されているのを感じ取れるだろう。
「あんたとは気が合いそうやッ。」
などと、嬉しそうに両手を握り返しているのを見て、京一はそれを遮るように口を挟んだ。
「ちょっと待て。助けてもらっておいてなんだけどよ、なんで中国人のクセに関西弁なんだよッ?」
ところが、それを聞いた劉が「ええなァ、ええツッコミやわァ。」と喜んだので、思わず二の句が告げなくなってしまった。
関西方面に知人も親戚も居ないが、TVなどで見る限り、関西弁の芸人は確かにこんなテンションで話している気がする。一般の関西人も、こんなものなのだろうか。
 こんな変な野郎に何であんな…と顔を向けると、一人まくし立てては自分で笑っている中国人を、龍麻は熱く見つめ続けている。
 どういう事なのだろう。
龍麻はこの男を<仲間>に引き入れたくて、こんなに心を寄せているのか。
自分達を救ってくれたという技は、それ程までに凄まじいものだったのだろうか。
誰よりも仲間想いな龍麻なら、仲間を救ってくれた男に感謝してもしきれない…と考えていても不思議ではないが、それにしても、今日の態度は別格なように思える。
 呆然と見ている間に、皆が自己紹介をした。龍麻も最後に名を告げ、また改めて握手を求めると、劉が嬉しそうにその手を取ってブンブンと振り回した。
何度となく頷く横顔は、普段より嬉しそうに見えなくもない───
「さて、そんじゃ、そろそろ行きまっかッ!!」
「お前まさか、俺たちについてくるつもりじゃねェだろうなッ!?」
 恩人に対する口の利き様ではないが、どうにも面白くないという気持ちを抑え切れず、京一は怒鳴った。
だが、自分も命を救われたからと諸羽が頼み込み、龍麻も益々乗り気で応じている以上、劉が同行するのを止められる訳もない。断る道理も元々無いのだから、どうしようもない。
 絵莉の説明で、東京拘置所跡に向かう事になったが、京一の足取りはひどく重かった。
劉の事もあったが、また先程のように取り憑かれないとも限らないのだ。
仲間達を傷付けてしまうのも恐ろしいが、また劉に救われるのも、気の滅入る話ではないか───

 半分物思いに沈みながら、サンシャイン通りを小走りで進む。
自分達の苦労も知らず、呑気に溢れかえっている人の群れに、ひどく苛立つ。
(こんな邪魔なニンゲンどもが───
先程の獣の感覚が残っているかのような心の声に、感化されてんじゃねェよと自らを叱咤しつつ、先を急ぐ。
 点滅する信号に慌てて道路を横断しながら、行く手を阻む人の群れを乱暴にかき分けて進む己の弱さに、失望を禁じ得ない。
あの程度で心を乱し、低級な動物霊に引き摺られ、人ではないものの感情に囚われる。自分はこの程度の人間なのだろうか…
「あッ…待って、龍麻くん達が、まだ…」
軽く息を弾ませて、美里が呼び止めた時も、まず先に「何だよ、ひーちゃんのクセにトロいことしてんじゃねェぞ!」と、睨むように振り向いてしまった。そんな自分にまた落ち込む。
 だが、その鬱屈は、別のそれに取って代わられることとなった。
振り向いた先には、同じく渡り損ねた劉も居たのだ。
それでなくとも、新たな仲間となる者達は、こぞって龍麻を特別扱いした。当然あの劉も、本当に<仲間>だとしたら、同様の態度を取る事は考えられる。
 ただ、京一がいつもより気にしているのは、龍麻の態度の方だった。
先程までのふざけた調子を消して真面目に何か告げているらしき劉を、食い入るように見つめる眼。
こちらからもよく見える、劉の大仰な仕草から推測すると、二人は面識がある、と言っているように見える。そして龍麻の方も、それを承知している様な───
「おいッ!! 何やってんだよッ!! 信号、もう変わってるぜッ。」
 青になった瞬間、京一は怒鳴った。
「早くしねェと、おいてくぞ、お前らッ!!」
裏拳をこちらに繰り出しつつ「ッて、もうおいてっとるやないかッ!!」と突っ込みを入れ、笑いながら劉が走ってくる。
その後ろ、一瞬引き留めようとした手を慌てて引っ込めた、龍麻の顔。
(何でだ…。何でそんな、切なそうに劉を見る? 一体コイツは何者なんだ? どういう知り合いなんだ、ひーちゃん───!)
劉を…というより、劉を通して遠くを眺めるように眼を細め、微かに眉を寄せた表情に、胸がちりり、と痛んだ。
それが同情なのか、嫉妬なのか自分でも判らない。
龍麻は想いを振り切るつもりか、小さく首を振った。顔を上げた時にはいつも通りの無表情で、こちらに走ってくる。
「…済まん。待たせた。」
真っ直ぐ見つめてくる強い視線に、だが京一は何も返すことが出来ず、無言で走り出す。
 すぐ横を行く男の「特別」になれた。
つい先程までそう思い、有頂天になっていた自分が恥ずかしい。情けない。
龍麻の中における自分の位置など、今日出会ったばかりの劉にさえ及ばないというのに───
益々落ち込んでいく気持ちを留めるのは、今の京一には難しかった。

 目的地、東池袋中央公園に着いて、京一はやっと集中力を取り戻した。
そこには霊感のない京一さえ、身体中の毛が逆立つような負の<<気>>が充満していたのだ。
奥には、明らかに憑依されていると覚しき人の群れが見える。
敏感な美里に至っては、公園に渦巻く怨念を強く感じ過ぎるらしく、ひどく震えている。
 落ち込んでる場合じゃねェぜ、と気を引き締めた時、薄気味の悪い男が現れた。
痩せた体躯、落ち窪んだ眼にはギラギラと狂気に満ちた光が宿っている。
一目見て、それが憑依師・火怒呂だと理解った。
自ら「稀代の憑依師」と名乗り、獣の霊を憑依させた世界を作り上げ、王となるのだと宣言する。
帯脇の件も自分の仕業だと自慢気に言い放つのを聞いて、諸羽が激昂するが、どうにも奇妙な印象を禁じ得ない。
あれ程まで用意周到な罠を仕掛け、それを悉く撃破された上に本拠地にまで乗り込まれて、何故これ程余裕でいられるのだろう。
大言壮語を吐く様を見ても、ただの慢心なのかも知れないが、それならそれであの二重、三重の罠は慎重に過ぎる。
「獣の王国の王となる」と放言する男と、策を弄した者とは、まるで別人のようだ。
 京一がそれをどう指摘しようかと思案した時、先んじて歩み出たのは、劉だった。
「あんさん、そないなこと誰に吹き込まれたんや?」
京一の疑念を端的に表現して、ぎろりと眼を見開いた火怒呂にも臆さず、続ける。
「そいつはどこや…。今…どこにおるんやッ!?」
その背から、烈しい怒り───憎しみのようなものをビリビリと感じ、京一も思わず眉を顰めた。
「おい、どうしたんだよッ。」
だが劉は益々烈しい怒気を放ち、無造作に間を詰めていく。危うさを感じたらしい龍麻が押し留めたが、その間に火怒呂は自分の「兵隊」達の後方へと下がってしまった。
「この世界の王となるのはこの俺だッ!! 誰にも、邪魔はさせねェッ!!」
 劉の怒気に気圧され、慌てて雑兵の影に隠れて喚き散らす小者が「王様」とは、ちゃんちゃら可笑しいぜ。
京一は鼻で笑いながら刀を抜いた。

「雑魚はいい! 火怒呂を!」
 龍麻の号令に、仲間が散開する。雑魚を牽制しつつ、進路を確保しにかかる。
半年以上も実戦を積み重ね、龍麻の指示にも慣れた。取り憑かれた人々との闘いも二度目なので、皆自分が何をすべきか把握しているようだ。
次々に「兵隊」が抑えられ、吹き飛ばされる。
 だが火怒呂は雑魚の陰に隠れ、ニヤニヤ笑いながら余裕の構えを崩さない。
頭に血が上りかけた時、指示が降りた。
「京一!」
「応よッ!!」
 内容を確認するまでもなく、雑魚の垣根に<<気>>を放ち、一画を崩す。
醍醐が吠え、邪魔を続けるOLを吹き飛ばす。
小蒔が新たな防波堤を作るべく集まってくる敵の足下を射抜き、時間を稼ぐ。
「必ず白状してもらうで───!!」
 何とか開いた道を、真っ先に駆け抜けたのは劉だった。
幅広の剣に<<気>>を込め、火怒呂の脇から斬りつけると、すぐ後ろに回り込んでもう一太刀浴びせる。
堪らず、火怒呂は膝をついた。
「くッ…こ、この俺がッ…、混沌の、王…、誰にも…、誰にも邪魔はさせねェッ───!!」
 劉の三太刀目を辛うじて受け止め、目を血走らせて反撃する火怒呂は、本気でその野望が己一人のものと思い込んでいるようだ。
ちッ、と小さく舌打ちをし、劉が曲刀を構え直すのが見えた。
「そんならしゃあないな。…これで終いや!」
「…ッ! 劉さんッ…僕に決着を、付けさせて下さいッ!!」
 行く手を阻む子供を押し留めていた諸羽が叫んだが、刀は今にも振り下ろされんとしている。
先程のただならぬ様子からしても、今の劉には届くまい。諸羽の気持ちも解るが、時は遅きに失した。
「劉ッ!! 待て!!」
諸羽を拘束していた子供を吹き飛ばし、龍麻も叫んだが、間に合わない。
 …と思った、その時。
掲げられた刀は切っ先を変え、振り下ろされる代わりに頭上で弧を描いた。
青い光の粒が、駆け寄らんとしていた諸羽の身体に注がれる。
「活勁」───霊に取り憑かれ、朦朧としていた意識の中で聞いた言葉が、脳裏に蘇る。
これが自分達を救った技というワケかと、京一も唸らざるを得ない。
「…劉さん…?」
 何が起きたのか解らなかったらしい諸羽は、呆けたように立ち尽くしていたが、劉が刀を納めてニッと笑うのを見て、大きく頷いた。
そして、改めて火怒呂の正面に立ち、立ち上がるよう促す。
「くッ…な、ナメやがってッ…。」
「火怒呂…。さやかちゃんや、他のみんなを苦しめた報い、そして、帯脇の仇を取らせてもらうッ───!!」
「うるせェッ!! 死ね───ッ!!」
火怒呂の念波を正面から受け止め、勢いを削がれることなく諸羽の剣は振り下ろされた。
避けようとして避けきれず、自称・獣の王は、憤悶に歪んだ顔のまま、呪われた土地に沈んだのであった。

 火怒呂の束縛から解放されて意識を失っている人々を調べ、特に重傷を負った者も居ないのを確認しながら、京一は考えていた。
あんなに判りやすい、真っ向からの攻撃を為す術もなく食らったのは、火怒呂の中にある一縷の良心のせいだったのだろうか。
(…なワケはないか。ま、卑怯で小狡い野郎には、こんな真っ正直な攻撃なんざ、思いも寄らなかった…ってトコだろうぜ。)
その卑怯な敵にも正攻法で闘いを挑んだ愛弟子は、今は「無茶はしないでねって言ったのに…」とさやかに叱られ、ペコペコ謝っているところだ。
大切なさやかを苦しめ、自分にも瀕死の重傷を負わせた宿敵の筈なのに、その帯脇の仇まで取ろうとは、と思わず苦笑してしまう。
 恐らく同じ思いだったのだろう、片頬に笑みを浮かべて諸羽を眺めていた劉が、ふとこちらを見て、ニッと笑った。
軽く肩を竦めて応えた京一だが、劉に対する疑惑は、まだ残っている。というより、益々深まったと言っていい。
激情に流されず、咄嗟に刃を退いた。その精神力と剣の腕を以て、一体何を捜し、何を為そうとしているのか。まだ何一つ、自分達は聞いていないのだ。

「ここは、わいが生まれ育った村なんかより、ずっとおっきくて、便利で、キレイで人もぎょうさんおって……、せやけど、なんや足らんもんがあるような気ィするんや。なんや、無性に寂しい気分になったりせェへんか?」
 駅に向かって歩きながら、そう告げる劉に、もう怒気や憎悪は微塵も感じられない。
こうしていると、先程の尋常ならざる態度は勘違いだったような気さえしてくる。京一さえ、劉の呟き、美里や小蒔の言葉に「都会の冷たさ」を思い、しんみりとしてしまう。
だが。
「…劉…。オレ達が…居るから…。」
 いつもより饒舌な───といっても、ほんの一言二言付け加えられているに過ぎない───龍麻の台詞が、京一を感傷から一気に引き離した。
「お前、ほんまにええやっちゃな。お前なら……、きっと、大丈夫や。」
 何が大丈夫だというのか。
龍麻とはどういう関わりがあるのか、一連の事件について何を知っているのか。
きっちり訊いておかねば、安心して「仲間」などとは呼べない。
 ラーメンでも食べに行こうと盛り上がっているところに、京一は敢えて水を差した。
「その前に、劉。ききたいことがあんだけどよ、お前さっき、妙なコトいってたよな?」
陰の首謀者の存在を知っているのなら、今ここで洗いざらい吐かせればいい。
 だが、事は京一の思い通りにはいかなかった。
「そういえば…、火怒呂ってヤツに会った時───、劉クン…なんかすごくコワイ顔してたよね。」
「あァ? わいの顔が恐いやてッ!? 小蒔はん、そらヒドイわァ〜。こんなお茶目なわいを、恐いやなんてェ〜ッ。」
大袈裟に嘆いてみせる劉に、人の好い小蒔があっさり引っかかる。
「えッ!? ゴメン、ボク…、そんなつもりじゃ…。」
「ちゅうわけで、まッ、気のせいやで気のせいッ。ほな、行こ行こッ!! はようせんと、店閉まってまうでーッ!!」
結局、巧くはぐらかされてしまった。
「この───、待ちやがれ、劉ッ!!」
追いかけながら、今日はもう劉の口を割る事は不可能だろう、と半ば諦める。
 どいつもこいつも、抱えた秘密を簡単に白状しやしねェ。
龍麻といい、醍醐といい、揃いも揃って扱いにくい野郎ばっかりだぜ。
「こンの野郎〜ッ、何隠してやがる! 全部吐けーッ!!」
「アイタタッ、堪忍してェなー京一はんッ!!」
半ばふざけあうように飛びつき、軽く締め上げると、本当に嬉しそうに劉は笑った。
 劉と絡み合ったまま振り向いてみると、仲間達も皆笑っている。
ただ龍麻だけは来た道を振り向き、何事か考え込んでいた。
 憑依師に膨大な力を与えた、東京拘置所跡の哀しい魂達に思いを馳せているのか。
 そんな悲劇や悪意に全く気付かず、無関心に通り過ぎていく人々を苦々しく感じているのか。
 結局、何者かに踊らされたに過ぎなかった火怒呂を哀れんでいるのか。
 それとも、朧気ながら姿を見せ始めた「黒幕」への怒りか───
気を取り直したように向きを戻し、仲間の元へと駆け寄ってくる態度に免じて、京一は考えるのを止めた。
 隠されたままの謎も、自分への嫌悪感も、これからまだ続くであろう怪事件も、今は忘れてやろう。今はただ、仲間達と平穏に過ごせる時間を楽しもう。
龍麻も劉もそう願っている。
 ───それだけは間違いないのだから。

2006/11/05 Release.

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