サーノ
それは、いつもお祖母様に言い聞かされてきた言葉だった。
───心の「眼」をお使いなされ。
目の前にあるものの、在るべき本当の姿を観るのです。
心の「弓」と「矢」で、射抜きなされ───
◆ ◆ ◆
「…な。雛ッ!!」
「………は、はいッ?」
「何ボーッとしてんだよ。腹でも痛てェのか?」
「ご、ごめんなさい姉様。何でもありませんわ…」
いけない。
鬼の<<気>>を感じ取ったのは私。
緋勇様たちが闘っているに違いないから行こうと申し上げたのも私だというのに…。
「……怖えェんなら、帰ってろよ。」
「いえ、大丈夫です。行きましょう、姉様。」
ぶっきらぼうな言い方だけれど、解っている。
姉様は心の底から私のことを心配して下さっていると。
…なのに。
胸が、痛むのは何故?
ここ数日、調子がおかしい。
体調も良いし、何か問題があるというわけでもないのに、私の矢は全く的に中らなくなっていた。
お社の奥の弓道場で、巻藁を前に何度も射を行う。呼吸法を繰り返す。…でも、治らない。
以前にも似たようなことがあったのを思い出す。
そう…あれは中学に上がったばかりの頃だった。
新しい環境になじめず、不安や寂しさばかり募って、的に集中出来なくなっていたのだ。
同じ環境、双子だというのに、姉様はすぐに友人を作って楽しそうに生活している。
どうして同じように出来ないのだろう…
そう思うと益々寂しくて不安でたまらなかった。
「…私ったら…全然成長していないのね。」
思わず溜息をついてしまってから、気を取り直して近的に向かった。
お祖母様の言葉を思い出す。
そう、あの時もお祖母様は教えて下さった。
───心の「眼」を使いなさい、と。
「雛や。目の前にあるものの、在るべき本当の姿を見つけるにはどうしたら良いか解りまするか?」
「本当の…姿…? …いいえ、解りませんお祖母さま。」
「狙いを定めるときに大事なことを、教わりましたな。」
「はい…。『的を観よ。しかし目で見るな。射るべき時を観よ。しかし矢を射つな』と…」
「そうです。それが、『在るべき本当の姿を見つける』ということですよ。」
「……。」
「目では、数里先の的など見えはしません。この矢で射ても届くものではござりません。心で射るのだといつも言うておりましょう。」
「……はい。…でも……。」
「…雛や。雪と同じで在ろうとなさいますな。お前様と雪とは、同じであって同じではありません。雪乃の本当の姿を観なされ。ようくご覧なされ。心の「弓」と「矢」で…」
お祖母様の仰りたいことは、何となく解る気がした。
雪姉様だって、私と同じように不安な時もあったに違いない。
強い方だから、私と違ってそれを表に出さないだけ。
私が姉様の真似をしても、それはただの強がりでしかない。本当の意味で姉様と同じに、強くなることは出来ないのだ。
諦めがつく頃には学校に友人も出来て、寂しさも少しずつなくなり、それとともにスランプからも抜け出せた。
それでも時々まだ…
やはり私は、何も解っていないのではないか。「在るべき本当の姿」を観てはいないのではないかと、不安になる。
恐怖に近いほどの、不安。
つがえた矢を下ろした。
引いても矢は飛ぶまい。
今の私には、射るべき「時」も「矢」も、全く視えないのだから。
◆ ◆ ◆
新宿中央公園に着くと、やはり戦闘は始まっていた。
中心で闘っている方々が目に入る。
醍醐様…ただならぬ宿星を持つ方。隣の如月様と同様、守護を司る星。
雨紋様もいらっしゃる。また姉様が張り合って闘うに違いない。ケンカばかりなさってるけれど、本当は仲がよろしいのかも…
そう考えて、また胸が痛む。
どうして?
「…織部!!」
突然、雷光に照らされたように身体が震えた。
「…ッは、はい!」
ど、どうして目の前に、緋勇様が…?
雨紋様の隣にいらした筈なのに、全く気付かないうちに私の傍まで来ていたその方は、私の腕を掴んで強引に引っ張った。
庇って下さったのだと気付いたのは、いつの間にか後ろに忍び寄っていた鬼面の者の攻撃を受けた後だった。
「きゃッ…」
攻撃を正面から受けた緋勇様の背中に押され、つい情けない悲鳴を上げてしまう。
すかさず鬼面の者の腕を捻り上げた緋勇様は、振り向かずに叫んだ。
「織部、下がれッ!」
「………ッ。」
慌てて何歩か下がり、そして…急に涙がこみ上げた。
情けない…
姉様なら。
姉様ならきっと、「うるせェ! 余計なことすんじゃねェ!」などと仰って、堂々と共に闘うだろうに。
…私だって。
私だって闘える…はず。
姉様と同じ宿星の元に生まれたのだから。
…しっかりしなくては。
闘わなくては、私だって…!
<敵>にとどめを差そうとなさっている緋勇様の向こうに、まだ数体の鬼が忍び寄ろうとしているのに気付いた私は、急いで矢をとった。
私だって、私だって、お役に立てる。このように庇われて逃げまどうために来たのじゃない、私にはこの弓がある、でも今は止まった的にも中らない…いいえ、自分を信じなくては。射るべき時を見定めるために、自分を信じなくては。
…でも、どうしたら自分を信じられるの…? こんなに弱い自分を…
「織部ッ!!」
再びの叱声に、私は我に返った。
「…「矢」を使うな!!」
心臓が射抜かれたように、大きく跳ねた。
私の目を覆っていた曇りが、緋勇様の言葉に切り裂かれたようだった。
───「矢」で射るな。心で射よ。───
お祖母様の言葉。
何故それを緋勇様が…
私の迷いを看破されたのだろうか?
目の前の曇った感情に囚われているのを、…たった一言で。
………………お祖母様…!
私は矢をしまい、もう一度弓を構えた。
深く呼吸する。肺に、丹田に、足に。
心を集中させる。
穢れし風、気、闇、全てを祓うべく。
───調伏!!
はじいた弦の澄んだ音が、空気を切り裂いた。
「ゴォオオオオオオッ!!」
近くにいた鬼面の者たちが苦しげに身を捩る。
一瞬こちらを振り向いた緋勇様が、この機を逃さず攻撃を仕掛けていく。
そのお顔が、ほんの少し満足そうに視えた…のは、私の思い込みかも知れない。
…けれど。
「雛ッ! 大丈夫か!?」
真っ青な顔で姉様が駆け寄ってきた時には、既に敵はいなくなっていた。
「大丈夫ですわ、姉様。緋勇様に守って戴きましたし…」
それに、…心も救って戴きました。
少し恥ずかしかったので、その言葉は飲み込んだ。今はまだ、姉様にも内緒。
けれど、姉様は何となく何かを解ってしまわれたらしい。怒った顔で叫んだ。
「ば、バカヤロウ! 雛を護るのはオレの役目だッ!!」
そして慌てたように手で口を覆うと、顔を背けてしまった。
赤くなっておられる…
そのことに気付いて、私はお祖母様が亡くなったときのことを思い出した。
もう良い射をしても、中てても、お祖母様の「良し」というお声を聞けない。
悲しくて練習を再開出来ずにいた私に、姉様は「そんならオレが見ててやるよ!」と仰って、お祖母様がいつも座しておられた師範席に陣取り、私を無理矢理的に向かわせた。
そして一本引く毎に、大声で応援して下さった。
「よっしゃあ!」
「なんだなんだァ、ばーさまに笑われるぜ!」
「しっかり引けよ!」
そのうち、姉様の声が鼻声になって掠れていくのに気付いて、私は泣くのを止めたのだった。
そうだ、姉様だってお辛い気持ちは同じなんだ。私のために、そのお気持ちを隠して励まして下さってるのだ。姉様のお気持ちに、私も応えねば…そう思って。
私は思わず笑い出してしまった。
忘れていた。また、姉様の本当の姿を見失っていた。
「な、何笑ってやがんだよコラッ!」
姉様がお強いのは…いいえ、強く在ろうとしているのは。
…護るべきものを、護っているからなんですものね。
「うふふ…姉様に護って戴けて、雛は嬉しゅうございます。」
「なな、何だよそりゃ! とって付けたよーにッ…」
「いいえ。本心から申し上げているのです。…それに…」
雛も、姉様を護りたいです。
緋勇様も、ここにいらっしゃる皆様も。
この街に住む全ての方々の幸せを、護りたい。
そのために強くなるのだ。
けれど、敵をうち倒す強さは要らない。緋勇様や姉様に成り代わることは出来ない…いえ、必要無いのだから。
闘いを見定め、何が一番必要なのか判断できる強さを、持ちたい。先ほどの緋勇様のように。
それが、私の「在るべき姿」なのに違いない。
「…雛…もしかして、お前…緋勇を…」
「はい?」
「あ…いや、何でもねェよ。……ちェッ…だよな、雛だってそういう年頃…くそ、だけど…」
まだ緋勇様に遅れをとったと思っておられるのか、ぶつぶつ何か呟いていらっしゃる姉様の隣、肩を並べて歩きながら、私は夜空を見上げた。
お祖母様。雛にも、誰かを護ることが出来ますよね。
お祖母様の「良し」が、聞こえたような気がした。
2000/08/23