壱周年感謝之言葉 呪縛

サーノ

 旧校舎の瘴気は、いつもと変わらず澱み、生を拒絶し、死の囁きと腐臭で濁っていた。
先ほど壁に打ち付けてしまった、痛む左腕をさすりながら、京一は後方にいる龍麻の背中を見やる。
しかしそこには、思い通りにならなかった「戦闘」への憤りも苛立ちも、何も表れてはいない。

 新たな<敵>と新たな<仲間>の出現によって、京一達はまた闘いに備えて旧校舎へ足繁く通うようになった。
毎日のように、旧校舎にメンバーが集まる。
龍麻も流石に面倒を見切れないと思ったか、あまりに人数が多いときは中止すると決断したのだが、雨紋らの猛反対により、十名ほどをくじ引きで選出して決行することになってしまった。
 楽しげにあみだくじなどで盛り上がる彼らを、常通り冷ややかに───しかし、何かを思案するように眺めている姿が、妙に不安をかき立てる。
 そして、京一の予感はいつも的中してしまうのだ…こと龍麻に関しての「不安」は。

「ちょっと待てよオイ! アイツはオレ様の獲物だったッて言ってンだろーがッ!」
「フン。雑魚相手にもたもたしているのが悪いんだろう。敵は待ってはくれないんだぞ?」
「こッこの…新入りのクセしやがって…!」
「ちょっと! 仲間割れなんて止しなさいよ! キミ達はヒーローとしての自覚はないの?」
 思った通りだぜ、と京一はかぶりを振った。
元々まとまっているとは言い難いメンバーに、輪をかけて我が道をいくコスモ達。事がスムーズにいくわけもない。
「お前ら! まだ敵が残っているかも知れんのだぞ! 気を抜…」
 醍醐の怒号が彼らの耳に届く前に、案の定、新たな<敵>が攻撃を仕掛けてきた。
膝をすりむいたマリィに薬を渡していた龍麻が、振り向きざま全員に指示を与える。
自らは小蒔とマリィを庇う位置に立とうとし…何かに気付いて、こちらへと駆け寄ってきた。
京一をちらりと見て、ものも言わず左手をスッと差し出す。
回復薬を受け取った京一が礼を述べる暇もなく、次は雨紋の方を振り向く。
……雷人! 向こうに回れ!」
「龍麻サン…だけど、コイツが…ッ。」
「『龍麻さん』の言う通りにしたらどうだ、雨紋クン。ここはこのコスモブラック一人で充分だからな。」
「…てめェ…いっぺんおベンキョーさせてやるぜ…」
 しかし、掴みかかろうとした雨紋と、その手をはね除けようとした黒崎の間隙をつくように、突如地面が盛り上がった。───「竜」だ。
グロテスクな鱗、爪、羽を持った異形の化け物は、彼らにとって既に馴染みのものである。「竜」と名付けたのは小蒔だったろうか。
「そうこなくっちゃァな!!」
 足下をとられながらも体勢を整え、槍をつがえた雨紋に、これ以上言っても仕方がないと思ったのか、龍麻はすぐ踵を返した。雨紋を向かわせるつもりだった、右の「獣」の集団へ飛び込むのだ。
「…斃したら、紅井たちの援護を。」
 人型の化物と対峙した京一に「命令」を残し、龍麻は駆け去った。

 結局、協力どころか足を引っ張り合った雨紋と黒崎がたった一匹の「竜」に手こずっている間に、殆どの敵が葬られた。
「ミルキーッウェーイブッ!!」
 桃香の放ったリボンが生き物のように伸びて、「竜」の首に巻き付く。
「今よッ、レッド!」
「よっしゃァッ! イ・ナ・ズ・マ、返ーーーーしッ!!」
紅井のバットから打ち出された硬球が、微かに<<気>>を乗せて「竜」の腹に飛び込んだ。
耳障りな悲鳴を上げ、巨体がゆっくりと地面に沈む。そのまま溶け込むように消えるのを見届け、桃香と紅井は軽くハイタッチをした。
「バッチリねッ。」
「おう、ピンクのお陰だぜ!」
とどめを刺すだけの、瀕死の状態にまで追い込んだのは京一だったのだが、それを告げる気力などとうにない。
「ふふッ。まァ、少しは成長してるんじゃない? どっちにしろ、アタシの趣味じゃないけど。」
狐に似た化け物の、首に巻き付けた鞭を軽く振り、壁に吹き飛ばしてとどめを差す。
風を切って戻ってきた鞭の先を、パシンと手中に収めながら藤咲が笑った。
「京一、少しは龍麻クンを見習えよッ。龍麻クンは、そんなうんざりした顔なんてしないぞッ。」
後方の<敵>を全て沈黙させた小蒔が駆け寄ってくる。
その姿を見て、まだ前方にとどめの差されていない残党が居るのに気付き、京一も<<気>>を飛ばした。
「うォおおおおおオオオオッ!!」
 突如上がった、醍醐の人声とは思えぬ咆吼に、敵味方の区別なく震えが走る。
ただ一人平然としている龍麻が、立ち竦む獣型の<敵>に烈しく<<気>>を立ち上らせて掌底を放った。青い火花が散り、低い天井が、見通しの悪い洞窟が一瞬照らし上げられる。
 逃げ場なく立ちこめている瘴気すら、一瞬浄化されるような輝きがゆっくりと消えると、それが戦闘終了の合図であるように、全員が力を抜いた。

「…ふう。ここも、だんだん<敵>が強くなってくるようだな。」
……。」
 醍醐の台詞に頷きながら、龍麻が全員の無事を確認するように見渡している。
「俺っちの技、見てたか? グリーン! 今日初めて試してみたんだけど、これは使えそうだぜ! しかし、イナズマ返しじゃパッとしねェよな…うーん、もっとこう、ピカーっとした名前はないかな…」
「うふふッ。私もバッチリ、レベルアップした手応えがあったわ! ブラックはどう?」
「ふん…俺の方は散々だったぜ。まったく…新しい技を試してみるつもりだったのに、余計な邪魔が…」
「余計な邪魔だとォッ? 黒崎ッ。てめェみてェなど素人がいるから、コッチこそ調子狂っちまうンだよッ!」
「全く…緋勇。少しはこの『後輩』をしつけたらどうだ。口のきき方も知らん奴など、正義の味方を名乗る資格はないぞ。」
「…ンの野郎ッ、何がヒーローだ…!!」
「てめーら! いい加減にしやがれッ!」
 流石に止めようと、京一が雨紋達の方へ足を踏み出したとき。
……………ッ!!」
「…! ひーちゃんッ危ねェッ!!」
 斃れていた筈の「獣」が突然飛び上がった。
そして龍麻目掛け、異様に長いその爪を振り下ろしたのだ。
直撃をかろうじて交わした龍麻が、地面に叩き付けるように剄を放つ。
恐らくは最期の力を振り絞ったらしい「それ」は、静かに消えた。
 全ては、一瞬の出来事だった。何が起きたのかを把握できたのは、近くにいた者だけだったろう。
「ひーちゃん…大丈夫だったか?」
……ああ。」
慌てて駆け寄ると、何事もなかったような顔が京一を迎える。
 …しかし、その数瞬後。
龍麻の眼が突如見開かれた。
………ッ」
「えッ…? ひーちゃん…!?」
ふらり、と揺れた両肩を支えると、薄暗い洞窟の中でもはっきり解るほど、龍麻は蒼白になっていた。額に汗が滲み出し、全身が小刻みに震える。
───常日頃、相当ひどい怪我を負っても冷静に振る舞っている龍麻が。
 直撃は避けていたようだったのに、やられていたのか? それほどの重傷だったのか? もしや、何か毒でも浴びたのか…。
「ど、どうしたんだ! どこをやられたんだ!? 龍麻ッ!」
………。」
かろうじて首を振ったが、京一を見上げようとして失敗し、龍麻はガクリと膝をついてしまった。
「龍麻ッ!!」
「緋勇ッ!?」
「えッ…お兄チャン、どうしたノッ!?」
今にも崩れ落ちそうな身体を支えながらその顔を覗き込むと、苦しげに歪められた唇が震え、苦痛からか乱れた息に、弱々しい声が混じる。
……ッきょ……ち…」
……たッ……
 今まで見せたことのない色が、龍麻の瞳に浮かぶ。
不安か…怯え。「救けてくれ」と告げる、弱々しい色が。
 だが、それを京一がはっきり捉える前に、光は消えた。
力尽きたように瞼が閉じられ、がくりと京一に倒れ込む。
 慌ててそれを支えようとして───京一はバランスを崩した。
────えッ……?」

 抱き留めた筈の身体が、一瞬にして消え失せたのだ。

 バサッ───
乾いた音がして、龍麻の着ていた筈の制服が、地面に落ちた。

………な…!」
「えッ…ええッ!? ひ、緋勇クンッ??」
「たッ…龍麻サン…!」


 消失。


 目の前に居た筈の。

 大事な人の、失いたくなかった人の、いつでも隣に変わらずに在る筈の、

 ───消失。

 京一は、動かなかった。
声を出すことすら出来なかった。
制服。
ああ、昨夜も破けたトコ縫ってた。…また、破けちまったな。ハハ…
だからもう諦めろって言ったんだよ。
あれは。
ほんの十数時間前。
…違う、あれはそういう意味じゃねェ、単に「また破けるんだから」って。
俺はそう言ったんだ、こんな…
 …こんなこと。こんなこと、ある筈がねェ。ある筈がねェ。
ひーちゃん。ひーちゃん、ひーちゃん、ひーちゃ……

「ウソッ…ウソよ、どこ行っちゃったの!? これも<敵>の攻撃なの、龍麻ッ!?」
「な、何があったんだよッ京一! どうして龍麻クン…こ、これって…?」
「こんな馬鹿なことが…か、神隠し…ってヤツなのか?」
 京一を含む全員が、パニックに陥りかけたその時。
地面に落ちていた制服が、ごそり、と動いた。
緊張する空気の中、黒い塊がもぞもぞと這い出して、全員の顔を見渡し、声をあげた───

「みゃあ。」

◆ ◆ ◆

「…じゃあ何だよ。お前、『これ』がひーちゃんだって言うのか?」
「だって…他に、考えられないし…。」
「どーやって人間が猫になるってンだよ…SFじゃあるまいし。」
「じゃあ、どうやって人間が突然消えるっていうんだ? 制服だけ置いて…?」
 とにかく新手の敵が現れないうちにと、一行は旧校舎の地下を抜け出し、一階の元教室の一角で堂々巡りの論議を続けていた。
「マリィの猫じゃないのか?」
「メフィストなら、ココにいるヨ。…それに、マリィもこのコ、お兄チャンだと思う…。」
「えッホント? マリィ!」
「ウン。お兄チャンと、同じココロの匂いがするノ。だから…」
………まさか…」
「ホントだヨ! ねェお兄チャン、お兄チャンでしょ?」
「みゃあ…」
メフィストより一回り大きいその黒猫は、長い尻尾を軽くぱたぱたと振ってみせた。
「ホラ。そうだって、言ってルヨ。」
嬉しそうに黒猫の前に屈み込んだマリィの肩から、メフィストがフーッ!と毛を逆立てる。
大きな黒猫が、そっと前足を一歩踏み出すと、メフィストは慌ててマリィの背中に回り、柔らかい金髪の中に身を隠した。
「Ouch! 爪、痛いヨ、メフィスト!」
……龍麻クンも、よくそうやってメフィストに逃げられてた…ね。」
 小蒔が指摘した通り、龍麻はメフィストと…いや、あらゆる小動物と相性が悪かった。ちょっと近づくだけで、怯えて逃げていく犬や猫を度々目撃している。メフィストなど、この場から駆け去らないだけ、まだ肝が据わっている方だ。
「ひーちゃん…?」
「にゃあ」
「ホントにひーちゃんなら、尻尾を縦に振ってみろ。」
「…にゃあ」
「ホラ! やっぱりお兄チャンだ!」
……………………

 今の時点では、この猫が龍麻ではないという証拠もない。というより、龍麻が消えてしまった、あるいは最悪の場合既にこの世にいないという可能性を、誰も考えたくなかったのだろう。
紆余曲折の末、この猫は龍麻が変化した姿である、しかもそれは先ほどの攻撃の影響らしいという結論に達した。
 だが、それならそれでどうしたらいいのか、今度はその問題が立ち塞がる。
「どういう仕組みかは分からんが、毒の一種なのかも知れん。如月のところへ行ってみよう。奴なら、こういうことも詳しいだろう。」
「あ、ちょっと待った。如月サンとこ、あと2日は休みだぜ。」
「? 何故? 雨紋クン。」
「だって王蘭高校、今修学旅行だしよ。」
「…よく知ってんな…いや、そんなことより! ひーちゃんをどうすればいいのか、分かる人間はいねェってことかよ!」
「院長センセーなら、キット治シテくれるヨ!」
「あのバケモノは猫相手だって、何するか分かンねェぞ。」
「とって食われそうだよな。」
「色んな意味でネ…。」
 全員が、真剣な顔で大きく頷く。
重傷を負った仲間を桜ヶ丘に連れて行かざるを得なかった事態が一度二度あったので、もう全員が桜ヶ丘病院長の恐ろしさを知っているのだ。
「麻沸散も麝香丸も、今持ってるヤツは全部効かなかったし…。」
「他にどんなアイテムがあったか…やっぱ、如月サンが帰ってくるのを待った方がいいンじゃねェか?」
「だって、このまま置いといてもいいのか全然解らないのよ? 時間が経つと戻れなくなる魔法とか、あるじゃない!」
「魔法は関係ねェだろ…」
「じゃ、この状況を説明してみろよ。人間が猫になるってのは、魔法じゃなかったら何だ?」
「魔法…だとしたら、裏密に見せるってテもあるか…」
「やっぱりお医者さんに見せて判断してもらおうよ! それで解らなかったらミサちゃんに…」
 (…全く、アイツがいねェと決まるモンもなかなか決まらねェな…。)
いつだって、最終決断は龍麻が下す。それが決定的に間違っていたことは一度もなく、だからこそ仲間達の全幅の信頼を一身に集めていたのだ。
その龍麻がいないと、これほど烏合の衆になってしまうのか。
 京一は溜息をつきながら、醍醐に向かって決定を促した。
「なんにしろ、このままってワケにゃいかねェぜ。」
「…うむ。龍麻の命を最優先するなら…い、院長先生は、少々行き過ぎの感は否めんが、貞操までは…ゴホン。…あー、と、とにかく桜井の言う通り、まずは桜ヶ丘に連れて行ってみよう。」
 不満と反対の声が挙がるのに渋面を作りつつ、醍醐は救いを求めるように屈み、黒猫を覗き込んだ。
「龍麻」はお座りの姿勢でじっとしている。仲間達がああだこうだと騒ぐのを見つめている、いつもの態度そのままに。
「…それでいいな? 龍麻。」
 しかし、醍醐がそっと手を伸ばすと、猫はビクッと後込みをした。
「龍麻…?」
そして全員の顔を見上げ、一瞬戸惑った後、なんと逃げ出してしまったのである。
「ちょ、ちょっと龍麻クンッ!?」
「龍麻ッ!!」
 あまりの素早さに呆然としていると、雨紋が大仰に溜息をつきながら言い出した。
「…やっぱ、あれは単なる猫なンじゃねェか? 龍麻サンは別のトコに居てよ。」
「で、でも返事していたわよね…」
「偶然だったってこともあるじゃないか。それに、あの緋勇が、あんな風に怯えたように逃げ出すとは考えにくいしな…。」
「いや、誰しもあんな姿になってしまったら、驚き、恐れもするだろう。龍麻とはいえ…」
「そんなタマかねェ、あの人が…」
……………。」
「…ッとにかく、ここでぼんやりしてても仕方ねェだろ! あの猫探して、保護しとくに越したことはねェんだ。他に手がかりねェんだし。」
「そ、そうだねッ。」
 慌てて走り出した全員の後ろで、ポツリと呟くマリィの声だけが、京一の拠り所だった。
……あれは、お兄チャンだモノ…。お兄チャンの『声』、したモノ…」

「…ひーちゃんッ。ひーちゃんッ!」
 地下へと潜り込んだとしたら、いや既に旧校舎を出ていたとしても、もう探しようがないかも知れない。
小さな黒猫一匹、この闇に乗じればどこにでも隠れられるだろう。
かなり絶望的な思いで、必死で名を呼ぶ。
 …何故逃げたのか。仲間の元から。
怯えていたように見えたが、何か理由があるのか。それとも雨紋の言うとおり、あれは龍麻じゃないのか。
もしあれが龍麻だったとしたら…龍麻じゃなかったとしたら…俺達は、どうすりゃいいんだ…?
 入り口に最も近い旧教室の真ん中で、途方にくれたように京一は立ち尽くした。

「…ひーちゃん…」
「みゃあ。」

 心臓が跳ね上がった。
小さな声は、すぐ足下からあがったのだ。
「ひ…ひーちゃん…? だよ、な…?」
「みゃああ…」
猫は、そうだと言いたげに尻尾を優雅に振ってみせた。
思わずへたり込むようにその場にしゃがむ。
「…ッたく、ビビらせんなよな、ひーちゃん…」
「にゃ…」
 隣にピシッと座った、小動物。
すらりとした肢体も、その姿勢も、何かを訴えるような強い光を宿した瞳も、そういう目で見れば龍麻に似ていないこともない。
「…何で逃げ出したんだよ。」
左手を差し出してみると、一瞬ビクリと身を引く。
しかし、今度は猫は逃げなかった。
…そういや、ひーちゃんも触られるの好きじゃねェもんな。…そういうことだったのかよ。
何となく納得出来た気がする。
それも、普段ならともかく、こんな弱々しい生き物の姿で、自らを護ることも出来そうもない形で、やすやすと他人に抱き上げられるのは嫌だったのだろう。
(…だからって、逃げ出さなくてもいいのによ。)
「俺は…俺だけは触っても構わねェんだろ。違うのかよ…」
言ってしまってから、本音が口をついて出たことに気付き、京一は慌てた。
「へへへッ、まったく臆病なこったなァ。」
誤魔化すように、少しからかうような口調で、笑ってみせる。まだ認められてないのかという焦りと怒りもあって、馬鹿にしたような響きの滲んでいることが、自分でも解った。
 ───龍麻は、怒るだろうか?

 猫は、首を傾げて京一を見つめた。
暗がりの中、金に光る瞳だけが浮き上がる。耳を微かに動かしている様が、京一の真意を測っているように見える。
 だが次の瞬間、京一は凍り付いた。
「みゃあ。」
………………………ひ」
あぐらをかいて座り込んでいた京一の膝に、猫はちょこんと座り込んだのである。
……………。」
しばらく、どうしていいか分からず固まっていると、それは「フン」と鼻を鳴らし、くるりとその場で丸くなってしまった。
「ひ…」
 どう解釈したら良いのか。
京一への信頼の現れ。「それもそうだな」と思い直したのだろうか。
それとも、嘲りの響きを感じ取ったための怒り。「臆病ではない」とでも言いたいのだろうか。

 京一は、そっと龍麻の頭に触れた。今度は、身を震わせることもなかった。
ゆっくり撫でる。
黒い、柔らかい毛並みが指先に心地良い。
少しずつ手をずらし、耳の後ろから首筋にかけてさすってみる。
人間でも猫でも急所といえる、敏感で弱い部分を。
しかし龍麻は、すっかりリラックスしたように目を閉じたままだ。
次第に、指先に振動が伝わってくる。
猫特有の癖───喉を鳴らしているのだということに気付いて、京一の心臓は早鐘を打ち始めた。
(ひーちゃん…そんな…そんなに、信用してくれてんのか? 俺は…少しは、お前に…)
やっぱり龍麻ではないのではないか。龍麻だったらいいのに。こんな、すっかり猫に成り切って、甘えているとしか思えない態度をとるなんて。
正気を失っているのかも知れなかったが、それでも、そんな面が龍麻にもあるということが、妙に嬉しい。
 知らぬ内に止まってしまっていた指に焦れて、膝の上の龍麻が、少し身を捩った。
「もっと撫でろ」というように、心持ち首を捻って上に向けるのを見て、思わず京一は猫に抱き付いた。
「ひーちゃん…ッ! か、可愛いッ…!!」

「痛いの痛いの、とんでけェ〜。」

 …聞き慣れた、独特の間延びした声がした。

 ばふっ。
 という擬音でしか表現出来ないタイミングで、猫は変化した。
…「緋勇龍麻」に。

 驚愕の余り固まってしまったまま、いつもの見慣れた横顔を間近に見る。自分の膝に乗ったまま、どうやら呆然としているらしい龍麻の顔と、そして自分が抱き付く格好になってしまっている引き締まった龍麻の…
「…んぎゃあッ!?!?」
 そう。先ほど脱げたのだから当然、龍麻は一糸まとわぬ姿だったのだ。
思わず突き飛ばすようにして離れ、後ろに2mほど飛びすさった京一の方を、少しよろけながらもぼんやり見つめる。どうやら、はっきりと意識が戻っていないようだ。
「きゃ〜、いや〜ん。」
 妙に嬉しそうな悲鳴が上がる。両手で赤くなった顔を覆ってはいるが、全指全開では、舞子の大きな瞳は全く隠れてはいない。
「た、た、た、龍麻ッ。ふ、ふ、服…服…」
こちらも何故か、顔を真っ赤にした醍醐が、先ほど京一が落としたままだった龍麻の制服その他を、放り投げるように渡す。
 しかし、目の前に落ちた服に手をのばしかけて、龍麻はそのままパタリと倒れてしまった。
「ひ、ひーちゃん!」
「きゃ…ダ〜リ〜ン?」
 流石に驚き、真面目な顔で駆け寄った舞子が、龍麻の首と目、手首などを探る。
龍麻の名誉のためにと、一応制服の上着を被せてやったところで、舞子は告げた。
「…ダ〜リン〜、眠っちゃった〜、みたァい。」
「…眠ったァ?」
言われてみれば、確かに規則正しい寝息が聞こえる。
「だ…大丈夫なのか?」
「うん〜。多分〜、ダ〜リンはァ、呪われたんだと〜、思うのね〜。あのねェ〜、呪いってェ〜、一種の幻覚なんだけどォ〜、本人の〜、エネルギーをォ使って〜、自分も〜、周りも〜、ええっと〜、巻き込むものだからァ〜、すごく〜、疲れちゃうのォ〜。」
聞いてる側も(実は書いてる側も)疲れるが、要するに今まで猫に見えていたのは全て幻覚だったということらしい。
(…って…じゃ、じゃあ、さっきのアレは…じ、実際には全部、この龍麻が…!? は、は、ハダカのひーちゃんがあんなことやこんな…!!)
 あまりのことにショックを受けてピヨっている京一に、舞子の台詞の続きは聞こえなかった。
「ただァ〜、これは〜、色々ガクセツがあってェ〜、ただの〜、幻覚だったらァ〜、なんで服も脱げちゃうのか〜とかァ、説明出来ないから〜、本当にィ〜、変化ァ〜してるのかも〜。」
(ひ、ひー、ひーちゃんが…膝で…膝で…あああ、あんなカッコで…喉を…のど…ご、ゴロゴロ…)
 しばらくまた眠れない夜が続きそうな京一の気も知らず、可哀想だからと醍醐と二人がかりで必死に服を着せた苦労も、舞子が呼び集めてきた仲間達の、色々なものが混じった視線も知らず、龍麻はすやすやと眠ったままだった。
そのまま翌日の夕方まで目覚めなかったところを見ると、本当にひどく体力を消耗したらしかった。

 その夜、(実は修学旅行には行っていなかった)如月に今回の件を醍醐が相談し、如月から全員に説明をしてもらった。
最初は舞子に頼んだのだが、一晩かかりそうだったので交代したのだ。だが、如月もいつも通り、一言多く付け加えねば気が済まなかったらしい。
「今回のことで、旧校舎での鍛錬を遊び気分で行うのがどれ程危険か、少しは分かっただろう。龍麻が矢面に立ってくれたから助かったものの、聞けば君たちが諍いを起こしていたせいで、全員集中力が低下していたそうじゃないか。今後は、もう少し気を引き締めるか、半端な覚悟で鍛錬に向かうのを止めるかしてくれ。…龍麻のためにね。」
 更に相談の末、今後防具や道具を購入するときは呪詛を避けるものを優先することに決定した。
お陰で、その後呪われる人間はいなかったが、時々ふと邪な気持ちがよぎるのを抑えられる者もあまりいなかった。
(龍麻がまた猫になったら、アタシがずうーっと可愛がってアゲルのに…。モチロン、人間でもいいけどね…ウフフ。)
(黒猫か…イメージぴったしだったな、龍麻サン。気位が高くて、きりっとしてて、キレイで、気が乗らないと触らしてくンねェ…お? なンか、曲のイメージ出てきたぜッ!)
(龍麻くん程の人が丸一日眠ってしまうほど、身体が消耗してしまう…呪詛って恐ろしいのね。私…私やっぱり、貴方の側にいなくては。もう誰も、そんな辛い目に遭わせたくない…。)
(猫かァ。ボクも飼いたいなァ。でもウチは弟達がかまい過ぎちゃって、猫って居着かないんだよね。残念…)
(猫だまし…猫立ち…ふむ、中国拳法の例もあるが、猫の動きというのは修練の上で参考になるかも知れん。また龍麻を道場に呼んで、今度はその辺りを試してみるか)
(OH、タツマ…充分キュートなのに、リトル・キティだったら、もっともっとキュートネ! ボクも、見たいデス! 抱き締めて、ナデナデしたいデース!!)
(霊体直接攻撃による〜毒物呪詛〜。ミサちゃんも〜、見たかったな〜。そうか〜。ひ〜ちゃァんでも〜、呪詛は効くのねェ〜。…うふふふふふ〜)

 …似たような事件が起きるのも、そう遠い未来ではなさそうだった…。

2000/06/04 Release.

 つーわけで、遅くなりましたが一周年記念の間幕、「呪縛」です。位置付けとしては間幕拾伍之四、バトルと勘違いのテーマに沿って…つっても、いつも通りなんですけどね(笑)、ワタシのは。
呪い話なんで、ちょいとネタ被ってるし、しかも主人公って呪いはカエルと相場が決まってるのにとか色違うやんとか思いつつ、他に思いつかなかったので(^^;;)
今回作品を下さった愛おしい皆様と、いつも通って下さる優しい皆様に、感謝を込めて捧げます。
 そして、緋勇視点の「感謝」と、「醍醐の憂鬱 V」
これは、この一周年に前後してアホな発言をしたため、沢山ご心配とご迷惑をかけてしまった友人に、日ごろの感謝と【愛】を込めて捧げたく思います。
 …ホントにありがとねっ!!△△△