皮下接触I

 京一が龍麻の部屋を訪れたのは、これで3度目である。
一度目は4月、花見の直後。2度目は5月半ば、桜ヶ丘に入院した嵯峨野を見舞った帰りに、そのまま泊り込んだ。
 すっかり勝手知ったる様子で上がりこみ、冷蔵庫を空けてビール(前回来たとき京一が仕入れて置いたものだ)を取り出す。
龍麻を見ると、玄関で自分と京一の靴をキチンと揃えている。
(こーゆートコ、妙に躾の行き届いたぼっちゃんだよな)
あまり仲が良くなかったらしい(と京一が思いこんでいる)龍麻の両親は、かなり厳格な連中だったのだろう。
 更に、ユニット形式の洗面所に行って、手を洗いうがいまでしてきた龍麻に、笑いながらビール缶を投げる。
「お前、小学生みてェだよな。」
龍麻は少し小首を傾げて、目線を少し左上のほうにさまよわせた。
これは、「何だかよく分からない」という仕草だ。
「親にさ、小ッさい頃言われんだろ? 帰ってきたらウガイしなさい、手を洗いなさいって。でも普通はどっかでやらなくなるだろ?」
……そうか。」
龍麻は手にしたアルミ缶に目線を落とし、プルトップを引いた。
「ま、小学生は、ビール飲まねェケドなッ」
勝手にベッドに腰掛けた京一が、「乾杯」というように軽く缶を上げる。
合わせて缶を持った手を上げ、龍麻も京一の横に座った。
 胡座をかき、だらしなく壁にもたれた京一と違って、龍麻はベッドの縁に浅く腰掛け、背筋を伸ばしてビールを啜っている。
(なんだってこう、どんな時でも隙が無ェかな。)
少しからかってやりたくなって、京一は龍麻の背中を蹴った。
京一が本気じゃないので、龍麻も特によけようとはしない。
「よー。お前、いっつも姿勢正してて疲れねェ?」
…………いや。…楽だ。」
「マジかよ?」


 龍麻にしてみれば、背中をまるめたり、左右どちらかに傾いて座るなど、かえって苦しくなって辛い。身体を巡る<<気>>が、歪んだ部分で滞るのをハッキリ感じ取れてしまうのだ。
(蓬莱寺なんか、普段こんなに適当なのに、実戦ではあんなに上手く<<気>>を操っている。敵わないよなあ)
 勿論、こんな風に羨ましく思っている龍麻の気持ちは、京一には伝わっていない。


 空缶をゴミ箱に放り投げた京一は、2本目を冷蔵庫から取り出して戻ってくると、龍麻のすぐ隣に、同様に背を伸ばして座った。
「…かー。疲れる。1分持たねェ」
……そうか。」
 しばらく、無言で飲み続ける。
……蓬莱寺、らしい。」
「堅ッ苦しいのは根本的に合わねェかんな。」
 静かだが、重苦しくはない沈黙。

 2本目を飲み終わった京一は、突然それに気付いた。
「おい…」
龍麻が振り向く。
「蓬莱寺、じゃねェ。京一でいいって。」
……
「俺、前にも言ったじゃねェか。苗字なんて堅苦しくて嫌いなんだっての」
……
 何だかなァ。そんな考え込むようなことか?
名前で呼び合うほど、親しくなりたくない…か?
 龍麻は、仲間が増えても、転校当初と殆ど変わらない無表情さと礼儀でもって、皆と接している。戦闘のときくらいしか、名を口にすることもないが、その際も全員を姓で呼ぶ。
 俺は、こんなにお前を知りたいと思っているのに。親しくなって、共に闘い、護り、高めあっていきたいと思っているのに。
(なんか、片想いなのかよ、俺)
アルコールのせいなのか、不安と怒りが勝手に膨れ上がって行く。
お前、俺のこと、どう思ってんだ!?
口にしかけて龍麻を振り向く。そして、…慌てて口をつぐんだ。
 龍麻は、呼ぼうとしていた。
こういうとき、京一は待てばよいことを知っている。いつも、一言で語れないようなことを訊かれたとき、簡単に判断できないとき、龍麻は躊躇いながら口を開くのだ。
責任感が強く、慎重な龍麻の、それは癖だった。


 …と、京一はそんなことを考えているが、勿論龍麻は慎重どころか
(うわ~! いーのか? いーのか?? と、友達をファーストネームで~っオレの野望が~!)
とか舞い上がっていて、声が出ないだけであった。
 何度も心の中で練習をする。
(京一。京一。京一。舌かみそう。京一。京一。京一。京一。京一。京一。よし、言えそうかな。京一。京一。京一。京一。 京一。京一。京一。…オッケー! よ、よし、呼ぶぞ。行きますよ、蓬…じゃねえや、京一だっての! もっかい練習じゃ、京一。京一。京一。…)


 龍麻は京一の方を向き直り、ベッドの上に正座した。
つられて京一も、居住まいを正して龍麻に向き合う。
(…お見合いじゃあるまいし…)
だが、龍麻の目は真剣そのものだ。
いつもなら殆ど伏せられ、およそ感情が見えない瞳に、今ははっきりとした決意の色が現れている。
 烈しい光を宿す双眸が、より強く輝いて、京一は気が遠くなるのを感じた。
 そして。

………………京一。」

 空気が一斉に共鳴して、京一の身体を震わせた。
響くバリトン。
少し掠れた声が、かえって耳に刺激を与える。
 女の喘ぎ声を耳元で聞いても、これほどまで痺れはしない。
妙な喩えが頭によぎって、思わずカッと身体が熱くなった。
自分を正面から見つめている強い視線。目を離したい。でないと、このまま飲み込まれてしまう。
形良い龍麻の唇が、また開かれる。
 だめだ、やめてくれ。もう呼ぶな。俺は…何をするか、…分からない?

 鼓動が頭の中に鳴り響いて苦しい。
何を考えているんだ。相手は男で、しかも、そんな感情を受け付けるような生易しいヤツじゃなくて、だいたい、性的な魅力を感じるようなタイプでもない、筈だ。
そりゃ、整った顔だとは思うが、女っぽさなど欠片ほどもないのだ。
なのに。
名前を呼ばれたくらいで、なんでこんなに動転しているんだ!?
 京一の動揺を知ってか知らずか。龍麻の唇が、「き」を発音すべく、薄く横に引かれる…

 ベッドが大きく軋んだ。

 気が付くと、仰向けに倒された龍麻が、京一の真下にいた。
左肩を押さえ込まれ、唇は京一の左手の親指によって塞がれている。
………何やってんだッ! 俺はッッ!!)
龍麻の方も、京一の意図が分からないせいか、抵抗どころか身動き一つしない。
 ふと。
邪まな考えが頭に浮かんだ。
 …このまま。
このまま…襲ったら。
龍麻はどうするだろう。
流石に驚くだろうか。それとも怒り出すだろうか。
それでも…感情を吐露せず、いつものように俺を見るだけ…だろうか。
今、こんな体勢でも特に変わらない、静かな闇色の瞳が、もっと違った表情を見せるのなら───
 抗いがたい誘惑に耐え切れない。
唇を押さえていた指を離し、かわりに、ぎこちなく、顔を近づける。
(まだ、今なら)
微かに、龍麻の眉がひそめられた。
(今なら冗談で済む。今なら)
瞳が、揺らいだような気がする。不安か、もしくは…恐怖。
(充分だ。これで「驚いたろー?」と笑えばいい。)
 しかし、その一瞬前。
自由になった唇が、京一の不意をついて開かれた。
「…京一?」

…………!!

 身体の芯まで痺れるような───快感が、京一の総ての思考を止めてしまった。

 今、己の名を唱えた唇に、吸い込まれるように…
自分のそれを重ねた。
 龍麻の目が見開かれる。
流石に驚いたか。
しかし抵抗はない。
 思っていた以上に柔らかい唇を軽く吸いながら、片手で顎を引っ張る。
酔っているせいなのか、やはり抗うことなく、引っ張られるままに口を開く。
 今自分がしていることは間違っている。こんなことは、してはならないことだ。
頭の片隅に危険信号が瞬くが、却ってそれが京一を奮わせた。


 …えー。
これは、たぶん、キスだよな。
突然人工呼吸を実践したくなったワケじゃ…ないよな、やっぱ。
こうゆうのって、男同士でもやるもんなのか?
オレ、友達いなかったから、少し常識が足りないのかも知れないし。
親友くらいになると、挨拶代わりにキスしたりするのかも。
 ………………
いや、でも、やっぱ、オトコとオトコでこんな、口をくっつけるなんて…少し、変な気もする。
だ、だってなんか…ど、どうしよう蓬ら…京一、オレ、なんか、ど、ドキドキしてきちゃったよ!?

 かなりアレなくらいトロいことを考えていた龍麻だったが、次の瞬間、流石に本能が総てを悟らせた。

────────!!!!!

(きゃーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!! し、し、舌ッ!!!!)
引っ張られるままに開いた歯の隙間に、京一の舌が侵入してきたのだ。
熱く柔らかいそれが、龍麻の舌先を舐めとるように絡んできた。
(いや~~~~~~~~っ! き、きょ、きょっ! コレ、コレ、コレは違うだろッ! 絶対違うだろ! 友達はやんないだろっコレ!)
 恐怖と混乱でパニックに陥りつつ、無意識に両手で京一の肩を掴み、押しのけようとするが、京一の身体はビクともしない。それどころか、益々力を込めて抱きしめられてしまった。
 背中に回された腕が熱い。顔を捩って逃れようとしても、額をもう片方の手で押さえこまれて身動きがとれない。薄いYシャツを通して、京一の絞まった大胸筋が自分の胸を圧迫する。両膝をうまく押さえられているため、足も動かない。
 完全に押さえ込みを決められている。
ここまで人と密着したことはなかった。
満員電車すら乗ったことがない龍麻は、人の肌の感触と、熱い体温と、動けない恐怖と、口の中の異物が興す嫌悪感(もしくは快感)とで、何も考えられなくなり───
額を抑えていた手が滑るように移動し、胸の辺りを弄られた瞬間、プツリと意識を手放した。


 がくり、と、京一の肩にしがみついていた両手の力が抜けた。
抵抗を諦めたかと、ようやく唇を放す。だが、龍麻はぐったりと目をつぶったまま動かない。
………気絶…しちまったのか!?
「…そんなに、俺テクニシャンだったか?…」
間抜けたことを呟いてから、そういう問題じゃないことに気付いた。
真っ白に色が抜け落ちた龍麻の頬を、軽く叩く。
急速に、全身から熱が引いていくのを感じた。
馬鹿なことをしてしまったのだ。俺は。
もう、親友ではいられない。龍麻は自分を許さないかも知れない。
たとえ許しても、今までどおりにはいかないだろう。
俺は…何て馬鹿なんだ。一時的な気の迷いで、龍麻を…。
 いたたまれなくなり、少し強めに頬を叩く。肩を揺さぶってみると、うめきながら、ようやく龍麻が目を開いた。
「…よ、よォ。だいじょぶか、龍麻。」
………
ぼんやりと京一を見つめる。
……オレ…は?」
「いや、突然気ィ失ってよ。ビックリしたぜ。あの…」
ここまで言ってから、何を言っていいか分からなくなり、口篭もる。
龍麻は、何かを考え込むように目線をさまよわせていたが、
「…覚えが…ないな」と呟いた。
……な、何も?」
「…酔って、…寝てしまった…のか?」
……………何も…覚えてねェの?」
……
呆然と龍麻の顔を覗きこんでいた京一は、はたと我にかえった。
「…! そ、そっか! い、いや、急に眠っちまったんだな! いやービックリだぜ、ビールひと缶でまさかウワバミのお前が酔うとは思わなかったし! あははは、そーかそーか、覚えてねェか!! はっはっは!」
 どうやら、あまりの出来事に龍麻の脳がショートしたか、忘れたい記憶を都合良く削除してしまったらしい。
(ら、ラッキ! いや~道を踏み外したくねェもんなあ~)
先程思いッきり踏み外したくせに、京一も先ほどまで己の中にあった、モヤモヤとした感情を削除してしまった。
「まッ、いいさ! な、龍麻!」
……?」
いつもと同じように、肩に腕を回して引き寄せてみたが、完全に覚えがないらしく、何の抵抗もない。とりあえずホッとした。
 今後は何があっても、こんなコトはしねェ! 俺と龍麻の「友情」のためにも!
神のご都合主義に感謝をしつつ、しっかりと心に誓った京一であったが…。

 「全て」を忘れてしまった龍麻が、結局京一のことを「蓬莱寺」と呼んでいるのに気付いた時は、流石に「神」を恨んだらしい…というのは余談である。