皮下接触 II - 京一

 特別な夜ではなかった。

 いつもと変わらぬ日常、いつもの惰性。

 帰宅途中にラーメン屋に寄って、何となく別れるタイミングを逸して、龍麻の部屋でビールを啜って、帰るのが面倒になって泊まる。
あまりに頻繁なため、最近はもう京一の私物化した茶碗やタオルがあり、歯ブラシなども置かれている。
既に京一にとって居心地の良い空間となってしまったその部屋は、初めの印象よりは大分人間らしさを見せていた。
尤もそれは、京一がやたらと部屋を散らかしてしまうためで、部屋主は黙々とそれを片づけているのだが追いつかない…という状況であり、龍麻にとって居心地が良いかどうかは分からない。

 何故目覚めたのだろう。
それは、何かの予感であったのか。それとも、既に乱れていた龍麻の呼吸音に気付いたためか。
通常の寝息と異なる不規則な吐息を、寝惚けた頭でぼんやりと聞き入るうちに意識が浮上した。
慌ててベッドから起き上がる。
備え付けのベッドは大きめではあったが、流石に男二人で寝る気にはなれず、大抵どちらかが床に毛布を敷いて眠る。
無理矢理上がり込んでいるのだからと、京一は床に寝ることを主張するのだが、客なのだからとホストも譲らないため、今はジャンケンで負けた方がベッドに寝ることになっている。
 そして、今日は京一が負けたのだった。

 そっと床に降り立ち、龍麻の様子を窺う。
京一と違って寝相も殆ど崩れない龍麻は、仰向けに真っ直ぐ伸びたまま、浅く、乱れた呼吸を繰り返している。
「…う…」
微かに呻く顔には、苦渋の表情と脂汗が滲み出る。
…具合が悪いのか? 夢にうなされているのか?
苦しげに吐き出される息が切なげで、静まり返った薄闇の中、何故か妙に落ち着かない気分になってくる。
 何にしろ、とにかく起こした方が良い。
だが、龍麻の肩に伸ばされた手が途中で凍り付いた。

「…ひ…ひら……さかッ…」

 掠れた声が、京一の胸に直接突き刺さった。
まだ…。
まだ龍麻は、あの悪夢の中にいるのだ。
業火と血に染まった、赤い夢───
 心臓に直接冷水を浴びたようだった。
京一たちが、すっかり日常を取り戻して忘れかけていた悲劇を、龍麻はずっと見つめていたのだろうか。
(当たり前じゃねェか。ひーちゃんが忘れられるワケがなかったのに。…俺はなんてマヌケなんだ)
恋まで到達していなかった、淡い想い。自分達の知らない事件で傷ついていた龍麻の心に、何かを残した紗夜。
「…やっ…めろッ…ひらさ…」
震える息の下、また龍麻が弱々しく呟いて、京一はハッと我に返った。
「…ひーちゃん…目を覚ませ、…龍麻ッ。龍麻!」
両肩を軽く揺さぶると、一瞬きつく眉が寄せられる。
そしてゆっくりと、瞼が持ち上がった。
焦点の合わない二つの瞳が空をさまよう。
 普段とは違う、圧力を持たない双眸が京一の姿をみとめた。
無意識だったのか、毛布を握りしめていた右手が京一の方へと伸ばされる。その手を掴むと、微かに震えているのが伝わった。
「ひーちゃん…うなされてたぜ。大丈夫…か?」
囁くように声をかけてみると、まだ夢の中をさまよっている様子だった龍麻が、ようやく意識をはっきり取り戻した。
京一が握りしめていた手に力がこもり、毛布の上に身を起こす。
「…済まん。……起こしたか。」
「あ…いや、たまたま起きてただけだぜ、気にすんなよ。」
………。」
目を伏せる龍麻に、「どんな夢だった?」と聞きかけた唇を閉じる。…聞くまでもない。
汗で長い前髪が乱れ、男にしては長い睫毛の震えるのがはっきりと見て取れた。
はだけた寝間着に気付いて、ぎこちなく手を離す。

 龍麻は立ち上がると、バスルームへと向かった。
扉が閉まるのを見届けて、深く嘆息する。
顔を洗っているのか、微かに聞こえてくる水音に耳を傾けながら思いを馳せる。
…あの事件から、まだ二ヶ月、か。
 京一はここのところ、学校でも外でもわざと龍麻と美里を並べたり、なるべく二人で話をさせようと苦心したりしていた。
一度、美里に強引なことをするなと怒られもしたが、美里にポツポツと声をかける龍麻もまんざらではなさそうなことに、京一は満足していたのだ。
 もしかしたら、それが仇になっちまったのか?
美里とのことは時期尚早だったのか…
 今の龍麻の心に残っているものの正体は、罪悪感なのかも知れない。
忘れてはいけない。自分のために死なせてしまった淡い命を忘れ、幸福を求めてはいけない…
 修行僧のような生活をしている、とからかったことを思い出す。毎日規則正しく起床し、食事を作り、姿勢を正し、掃除も洗濯も全て丁寧にこなしているのを見て、からかい半分、感心半分に言った言葉。
龍麻は否定していたが、これも皆、何かへの罪悪感から来るものなのだとしたら…
 急に息苦しくなって、思わず立ち上がった。胃の辺りに鈍い重みを感じる。
 ───哀しいのだ。あまりに救われない龍麻の心が哀しいからだ───
その言葉に行き着いて、京一は頭を乱暴に掻きむしった。

 バスルームから龍麻が出てきた。
汗まみれになった寝間着も着替えてさっぱりとしている。
まだ少し濡れそぼった前髪も丁寧に下ろされ、隙間から見える瞳は既に強い光を取り戻しているのが見える。
少し安心して、京一は提案した。
「まだ朝まで時間あんな。ベッド使えよ。俺は目ェ覚めちまったから。」
……。」
気を遣われているのが分かっているのだろう。龍麻は強く否定した。
「いーからいーから。ロクに疲れ取れてねェだろ? 寝ろって。」
そう言って、強引に龍麻の腕を取り、無理矢理ベッドに倒す。
もがいて起きあがろうとする龍麻の上に布団をかけてやり、強引に寝かせた。
「…京一…。」
何か言いかけて、口を閉ざした龍麻の頭をポンポンと叩き、笑いかける。
「おやすみ。」
………

 そのまま立ち上がろうとした時、龍麻の手が伸びてきて、京一の右腕を掴んだ。
…………ジャンケンは…オレの勝ちだ。」
………
 思わず絶句する。
そして…急に怒りが込み上げてきた。
律儀にも程がある。まだジャンケンのことを考えていたとは…そんな小さな取り決めまで、龍麻を縛り付けてしまうのだろうか。
 カッとなって、京一は布団を剥ぎ取った。
そして自らもベッドに入り込み、無理矢理龍麻と並んで横たわる。
「…もうジャンケンはやめだ。今日からこーして寝るからなッ。我慢しろよッ。」
シングルベッドにしては、二人で寝るのもそう窮屈ではなかったが、何しろ京一の寝相ではダブルでも狭い。それに、男二人でひっついて眠るなど、暑苦しいとしか言いようがない。
(…それでも、もう変な取り決めはゴメンだ。多少寝苦しくても、眠っちまえば関係ねえ!)
布団を頭から被り、きつく目を閉じた。
………京一…済まん。」
くぐもった声が、布団の外から聞こえる。
苛つきながらもう一度顔を出すと、京一の方を向いて横たわった龍麻の顔が目の前にあった。
「…謝ることなんかひとっつもねェ。いいからとっとと寝ろ!」

 前髪が流れ、京一を正面から見つめる瞳の輝きが、何の障害もなく直接京一を射る。鼻先が付くほど間近で、黒々とした光が瞬く。
 綺麗だ。
初めて素直に、京一は思った。
 圧力を伴う眼に屈するのが嫌だった。しかし目が勝手に惹きつけられるのも、気に入らなかった。
自分は対等なのだ。決して龍麻に負けて友人になったわけではないのだ。そう思ってもどこかで屈折した自分を感じる。
 常に一歩先を行く龍麻。無理矢理並んで、対等なふりをする自分。
悔しいのか。自分は龍麻に何を望んでいるのか…
 ふいに強い衝動が体内を駆けめぐり、京一を動かした。

 数センチしかなかった距離を近づける。
あっさりと唇が触れた。
数秒で離れ、龍麻を見ると、触れる前と同じように京一を見つめている───
 京一は何かを言いかけ、そして唐突に気付いた。
(…何を言うつもりだった? …つーか、今俺、何をした!?)
無意識というのでもなく、だが明確な意志があったのでもなく。
強いて理由を挙げるなら、そこに唇があったから、としか言えない。
 (そんな…どっかの登山家じゃあるまいしッ。それよりどーすんだ? ひーちゃんだってヘンに思うだろ?)
ベッドを共にしてキスをするなど、どう考えても普通の男が友人にやることではない。
このままでは愛想を尽かされる…
焦りからか、京一の口が滑った。

「い…い…今のは、お、お休みのご挨拶だッ!」

 口にしてから、顔がカッと熱くなった。…なんだそりゃ!? どういう言い訳だ!?
泣きたいやら腹が立つやら、内心ひどく混乱に陥りながら見上げると、まだ龍麻は京一を見つめたままだ。
その光は、怒りも戸惑いもなく、ただ静かに京一を見つめるだけ───
 一人で慌てているのが恥ずかしくなり、少しずつ興奮が収まっていく。
何てコトねェのかな。
以前、一度だけ過ちを犯したときは気絶した上全てを忘れ去ったというのに。
…いや、それも本当だったのだろうか。もしかしたら、ちゃんと覚えているのかも知れない。ただ京一との関係を壊したくないと気遣って、忘れたふりをしているのかも知れない。
「…ああ。お休み。」
龍麻がゆっくりと言葉を発した。いつも通りの、良く響く、落ち着いた声で。
驚いて見つめる中、龍麻は眼を閉じた。しばらくすると、規則正しい寝息に変わる。疲れていたのか、すぐに寝入ってしまったようだ。

 今のはどう考えたらいいのだろう。
常識で考えても、「お休みの挨拶」などという言い訳が通る筈がない。
龍麻は京一の突飛な行動を赦したのだ。その大きな器で以て。
 …結局、俺はお前の掌の上で踊っているだけなのか。
いつになったら、本当の意味でコイツと肩を並べることが出来るのだろう…
先ほど感じた衝動の意味も分からぬまま、京一は眼を閉じた。
織部姉妹の言う「宿星」というものの力を、いずれ嫌と言うほど思い知らされることになるのだが───
 今はただ、奇妙な感情を全て隅に押しやって、眠って全てを忘れようとする他に道はなかったのだった。