皮下接触V - 京一

「じゃァな、龍麻サン。」
 エレベータを降りた時、雨紋の声が聞こえてきて、俺は舌打ちした。アイツが遊びに来ていたのか。
だが、ホールを曲がり、龍麻の部屋の方に目をやって…そのまま動けなくなっちまった。
 龍麻はドアに押しつけられるように雨紋に抱き締められ、唇を奪われていたのだ。

 どれくらい時間が経ったろう。1分か。5分か。
貪るようなキスをようやく止めて、雨紋はアイツを解放した。それを見て慌ててエレベータホールに逃げ戻り、身を隠す。…何をやってんだ、俺は。
雨紋の声が聞こえた。
「…怒ンねェんだな、龍麻サン。抵抗されると思ったのに…ま、いーけどよ。」

 そっとエレベータに乗って、一階下に降りる。
───怒ンねェんだな。
その台詞がグルグルと頭の中を巡り続ける。
そうだ。龍麻は怒らない。静かに総てを受け入れてしまう。まるで…どうでも良いことのように。

 二基あるエレベータの一つが五階に上り、一階まで下がるのを確認してから、俺はまたエレベータに乗り、上に上がった。
チャイムを鳴らすと、殆ど間をおかずにドアが開く。雨紋が帰ったばかりで、まだ玄関にいたんだろう。
「…京一。」
普段通りの龍麻。何事もなかったみてェな声。
乱暴に龍麻を押しのけながら部屋に入ると、小さな簡易テーブルの上に使用された食器が並んでいた。雨紋が食った後だろう。
「誰が来てたんだよ。」
苛立ちを隠せない。知ってるのに訊いちまうのはどうしてなんだ。まるで嫉妬深い妻だ。
……雷人。」
特に隠す必要も感じてはいねェんだな。
あんなことをされたのに。ほんの数分前に、あの男にキスを許して。あんな野郎にその唇を、舌を、口内をいやらしく蹂躙されてたのに、平然としていられるのはどうしてなんだ?
 龍麻はいつも通り、特に何も訊かずに食事の用意をしている。俺専用の箸、茶碗、コップ。
雨紋の使った皿や箸は来客用のものだ。それを目端で確認してホッとした自分にまた腹が立つ。
 どうして、こうなんだ。
俺ばかりが夢中で。
叩いても叩いてもヒビ一つ入らないガラスの向こう側、龍麻の眼には俺は映っていやしない。

 風呂から出ると、龍麻は片づけを終えていた。
使った食器は全部綺麗に食器棚に収まっている。調理に使われた鍋やさじなども棚に収められている。
きれい好きなのは知っていた、少し神経質なのかもしれないと思うほど丁寧に掃除する姿を何度も見ている。脱ぎ散らかした上着なども、いつの間にかきちんとハンガーにかけた上、ブラシまでかけて壁面のクローゼットにしまわれる。わざと雑誌や小物を散らかしても、翌日には綺麗に片づけられる。
 俺がこの部屋を出れば、もうこの部屋に俺のいた痕跡は残らないんだ。俺だけじゃねェ。誰の跡も残らねェ。部屋にも龍麻の心にも。
 気付いたら、俺はまた龍麻を引きずり倒していた。
鞄から、コンビニで買った物干し用のロープを取り出す。
龍麻はやはり抵抗しない。大人しく縛られ、蹴り転がされても、無表情に俺を見つめている。
肩にかけていたタオルで、その目も塞いだ。
 何でもいい。不安とか怒りでいい。俺に向けて欲しい。
…なァ、ひーちゃん。解んねェか?
俺を見て欲しいんだよ。ちゃんと見て欲しいんだ。何でも無抵抗で、何でも受け入れて。諦めて。無視されてんのと変わんねェ、そんなの。
 震える手でボタンを外す。先に両手両足を縛っちまったので、途中までしか脱がせられない。
キスしようとして、さっきの雨紋のことを思い出した。
あの野郎…
この唇に汚ねェあの男の口が、舌が触れたんだ、許せねェ!
怒りに任せて噛み付こうとして、またあの台詞が甦った。

 ───怒ンねェんだな。

 急激に身体が冷えるのを感じた。
胸の辺りから生じたどす黒い闇が、手足の先まで食らいつくそうとしている。怒りか不安か良く解らないが、そいつは確実に俺の頭を浸食していく。
 怒んねェんだな、ひーちゃん。俺のことも雨紋のことも、誰も見てねェ。

 ……そんなら。
そんならよ。俺がお前を無視したら、どうだよ?
少しは俺の気持ちも解るか? 不安になったりしてくれるか?
 龍麻を部屋の隅に転がしたまま、俺はビールを取ってきて、TVを付けた。ベッドに寄りかかるようにして座る。龍麻の方は見ない。気にしていることを悟らせないようにして、じっとTVを見つめる。中味なんか頭には入らない。何故か身体がガタガタと震えるのを、必死で抑えた。

 何時間そうしていただろうか。
TVはとっくに終わり、ザーザーと砂嵐のような画面を垂れ流し続けていた。
ふと気付くと、龍麻の<<気>>が小さくなっている。
眠った…のか?
縛られたままで?
裸に剥かれたままで?
 そっと近づいてみると、龍麻は俺が転がしたときの姿勢のまま、規則的な寝息を立てていた。

 しばらくの間、その顔を上から眺める。
何だか、何も考えられなくなっていた。
凄ェヤツだな。普通、この状態で寝るか? 剛胆って言うか…
 無意識でコートとマフラーをクローゼットから取り出し、身につける。
外に出ると、冷たい風が吹き付け、一瞬にして目が覚めた。
「く…くッくッ…く…はは…」
可笑しくて笑ってしまう。馬鹿馬鹿しい話じゃねェか、実際。
エレベータに乗り込んで、俺はずっと笑い続けた。止まらなかった。どっか壊れたみてェだ。
 …何をしても。
俺が何をしようとも、アイツには何も残らないんだな…。
 俺は笑い続けた。途中から涙が止まらなくなって、あまりの情けなさにますます笑いも止まらなくなった。

 どれくらいそうしていたろうか。
流石に喉と腹が疲れちまったらしく、もう笑い声も泣き声も出なくなっていた。
エレベータの中で転がったまま、ぼんやりと考える。
 …俺はどうしてこんなにアイツに惹かれているんだろうな。
圧倒的な強さと精神力で、あらゆる闘いに勝ち続けている男だから。
誰もが認める、凄まじい<<力>>を秘めた男だから。
 それだけじゃない…。
その背に何かを隠しているのが、俺には視えたんだ。
どんな過去があって、どんな思いをして、どんな決意をしてきたのか、具体的には何も語られていない。
でも、何となく解ったんだ。辛い想いをしてきた背中。何かに耐え続け、何かを強く欲している心。
 垣間見えるアイツの激しい感情を、もっと強く感じ取りたかった。

 昏い絶望の淵に立っていることを、気付かないふりをして生きてきた俺。
研ぎ澄まされたぎりぎりの集中の先にある狂気。
殺意に囲まれ、数センチの差で分かたれる生と死。
死と狂気との隙間を縫って剣を振るう快感。
 龍麻を抱くときの快感は、それに似ていた。
何をしても受け入れる龍麻に、苛立ち、興奮する。
肉体的な快感を伴って、絶頂に達するときはいつも発狂してしまうのではないかと思うほど、辛くて、心地よかった。
ぴんと張られた蜘蛛の糸の上で踊っている。落ちたら死ぬ恐怖の深淵。いいや、もう堕ちているのに気付かないほど、俺は壊れているのかもしれない。

 部屋に戻ってみると、龍麻は自力でロープをほどいて立っていた。
…どうやって!?
一瞬、あんな頑丈なビニールロープを引きちぎったのかとギョッとする。
そして、龍麻の全身を見渡し、手首の火傷に気付いた。
…焼き切ったのか。
無茶しやがって、と理不尽な怒りが沸いてくる。
そうさせたのは俺じゃねェか。俺が帰ったと思って、仕方なくそうしたんだろう。それでもムカついて仕方ない。俺にも龍麻にも腹が立つ。
回復薬を飲ませよう、確か机の引き出しに入れてあったよな…と思ったとき。
「すまん。」
龍麻は頭を下げたのだった。
 一瞬、何のことか解らなくて真っ白になってしまった。

 ───何を謝ってるんだ? 怪我のことか?
そんなことで俺に謝る道理がねェ。…じゃあ何だ?
何で謝る? そんな顔で。心にもないような謝罪。何故!?
……何が…だよ。」
吐き気がしてきた。怒りだけで、人間死ねるかも知れないと思った。
俺が怒ってるからとりあえず謝ったのか。その程度だ。
思い切り龍麻の顔をひっぱたいた。
右。
左。
右。
少し顔をしかめ、よろける龍麻を壁に押しつけ、首を締め上げる。このまま殺してしまいたい。俺のこの手で。
「謝れば…謝っておけば済むと思ってんのかよッ。適当にあしらっておけばいいとでもッ…!」
そんなに俺の存在は軽いのか? いいや違う。必要だと思っているから謝ってるんだよな。…大事な戦力だから。激化する闘い、一駒でも無駄に出来ない今、俺にまた行方不明にでもなられちゃ困るからな。それだけだ。それだけなんだろう、龍麻ッ!?

「何を…すれば…気に入るんだ。」

 その言葉が耳に入って、意味を理解するのに十数秒かかった。
龍麻を見つめる。静かに俺を見ているその瞳を。
 何をすれば気に入るか?
…何でそんなことを訊く?
俺が「こうしろ」と言えば、お前はどんなことでもするのか?
それは…何故だ?
何のために?
解らねェ…
解らねェよ、ひーちゃん。
そこまでして俺を虜にして。
それで何をしようってんだ?
俺に惚れてるっていうならともかく…
 首を締め上げていた両手から、力が抜けた。全身に力が入らない。
龍麻にしがみついて、かろうじて立つ。
 「……なァ…。俺は…お前にとって、何なんだ…?」
 教えてくれ。どうしてそこまで出来るんだ。俺に、俺なんかに気に入られるためにそこまで出来るなら…俺は。少しは希望を持ってもいいんだろうか。お前にとって、俺が特別であると、自惚れてもいいんだろうか…。
「お前…俺を、…何だと思ってんだよ……!」
「…親友だ。」

 静かに。
授業中に指名され、「答は2だ」と言うように、あっさりと、ごく自然に。
響くバリトンは揺るぎなく答えた。
 霞む目で見上げると、意志的な瞳が俺を見つめ返している。
俺とお前は親友だろう?
そう告げる声が聞こえるようだった。

 …そうだったな。
俺たちは。
親友───だ。
…それでいいんじゃねェか。
「…そう…だな。俺たちは…親友、だよな…。」
俺は笑った。
凄ェヤツだよ、全く。
あれだけひどいことをされて。
強姦され、縛られたり傷つけられたりして、それでも「親友だ」なんてサラリと言えちまうんだ。大した器だよな。
…俺が敵うわけねェ。
嬉しいだろ、蓬莱寺京一。こんな凄ェ大器が認めてくれたんだぜ、親友だって。良かったじゃねェかよ。そうだろ?
 あんなに欲した、龍麻の「特別」。隣の位置。
どうしてこんなに力が入らねェんだ。
何故こんなに空しく響くんだ。
 俺は…何を求めていたんだ…?

 龍麻の胸に縋り付いたまま、俺はただ笑い続けた。
龍麻はただ静かに、そんな俺の肩を支え続けた。
見守っているのか、それとも戸惑っているのか、俺には解らなかった。解る筈もなかった───