拾六
之四

発心

 小さい頃から時々、自分とは違うもの───知っている人だったり、全く知らない外国の人だったり、時には鳥や獣になった夢を見ることがあった。
これも本当は、夢なんじゃないかしら?
だって、こんなこと…
よりによって、龍麻君になってしまうだなんて。
こんなことが現実にあり得るかしら。
 でも、この痛みは…階段から落ちた時にぶつけたらしい、頭や腕、背中、足の痛みは、夢と思うには、ちょっとひど過ぎる。

 私ではない「私」は、最初こそ「うわ」と小さく叫んだけれど、その後は特に動じた様子もなく、何かを考え込んでいた。
鏡で見る自分の姿とは、全然違う「私」。
人の身体は、完全に左右対称にはなっていないから、他の人が自分を見る感じと、自分が鏡で見る感じは、随分違うと聞いたことがある。
確かにこうして見ると、何だかまるで違う人のよう。
…いいえ、鏡と違うからというだけじゃないわ。
背を真っ直ぐに伸ばして、唇をキッと引き結んだ「私」から感じる、この強いオーラ…<<気>>というものが、私のような弱々しくて女々しい女とは、違う人みたいに見せるのかも知れない。

「…歩けるか。」
 「私」が、私を見つめてそう尋ねた。
力強くて、厳しくて、少し冷たいような感じさえする。私、こんな声だったかしら?
これも、この人の強い心のせいで、全然違うように聞こえるのかしら。
「…大丈夫か?」
「あッ…は、はい。」
 慌てて立とうとしたけれど、上手く立てない。全身の痛みが邪魔をする。
手を差し伸べてくれたので、それに捕まって立とうとしたら、「私」は一瞬眉をひそめて「う」と唸った。
「ご、ごめんなさい? あの…」
自分に謝るのは変な感じだけれど、龍麻君に何か負担をかけてしまったのかも知れない。私の身体も、どこか怪我をしているのかしら。
「いや…力加減が…いや。」
ボソリと呟いてから、「私」…龍麻君は、私の手を思いきり引っ張ってくれて、お陰で何とか立ち上がることが出来た。
力加減って…
あ、そうか。私の身体と、龍麻君の身体では、腕力も何もかも違うものね。
私が余りに力がないので、驚いたのかしら。
何だか恥ずかしい。
きっと龍麻君、私のこと、思ってた通り…思ってた以上に、弱くて頼りないって思ったんじゃないかしら。
これが小蒔だったら、もっと違うんじゃないかな…
「…霊研に…行くぞ。」
 きっぱりと告げる声に、慌てて頷いた。
そうか、これって、さっきのミサちゃんのお薬のせいなの?
そうじゃなくてもミサちゃんなら、こういう不思議な現象について、よく知っているかも知れないものね。
やっぱり龍麻君は凄い人。
私なんて、たった今まで「夢じゃないか」と思ってボーッとしていたり、つまらないことで自己嫌悪に陥ったり、全然役に立たないことばかり考えていた。
情けないわ…。

 颯爽と歩く「私」の後を追いながら、ズキズキと痛む頭に触ってみた。少しコブになっているみたい。
背中と右腕の痛みは少し和らいできたから、ちょっとした打ち身だと思う。
でも、左手からは少しだけど出血しているし、どこにどうぶつけたのか、左足も、打ったというより切り傷のような痛みがある。
左手に右の掌をかざして、そっと祈ってみたけれど、いつものように傷口が塞がりはしなかった。
きっと、自分の身体じゃないと出来ないのね。
 …ということは、このまま元に戻れなかったら、私は誰も癒すことが出来ないし、龍麻君も、普段のように闘うことは出来ないんだ。
そうなったら、みんなを…東京を護ることなんて、出来なくなってしまう。
 そうだ、これが現実で、ミサちゃんも何も知らなかったら、とても大変なことになってしまうんだわ。
両親には、みんなにはどう説明しよう? 先生方は信じて下さるかしら?
これからずっと私は男として、龍麻君は女として生きるの? そんなこと出来るの?
龍麻君みたいに強くなって、みんなを護れる?
古武術なんて、私に出来るかしら? 勉強と両立出来るかしら?
…ちょっと待って。私、男…龍麻君として生活していかなければならないの?
おトイレとか、お風呂…とか…
た…龍麻君の身体なのに!?
 嫌だ、私のバカ。何を考えているの。そんなことを心配している場合じゃないのに。
…でも、それってつまり…
龍麻君だって、私の身体で生活しなくちゃならないってことで…
 慌てて顔を上げて「私」の背中を見つめる。
何の迷いもなく歩いていく、私ではない「私」…。
その時、私はやっと気付いた。
すれ違う生徒達が、私を…いえ。私の身体で歩く龍麻君の方を、怪訝そうに見送っているのを。
改めて彼を、「私」の全身を見てみる。
いつも通り自信たっぷりに、しっかりと、そして男らしく、大股に歩いている、私の身体を。
……あ…あのう…龍麻君…ッ!」
慌てて、思わず注意してしまった。
でも龍麻君に「済まん」と謝られてしまって、もっと恥ずかしくなった。
みんなに注目されたら、龍麻君も嫌なんじゃないかと思ったんだけれど…
こんな小さなことを気にするなんて、「美里は自分の体裁を気にしてる」なんて思われたのかしら。
……
はッ、いけない。
下を向いて、しょんぼり歩いたりしたら、私こそ…「龍麻君」こそ注目されてしまうわ。いつもと違うって。
男らしく、龍麻君らしくして、せめて、自分の体裁ばかり考えてるんじゃないって、思ってもらおう…。

 ミサちゃんが居なかったので、私は龍麻君と別れ、一人で保健室にやってきた。
怪我の具合…特に頭のコブが心配だったし、少しでも痛みを和らげて、彼に身体を返したいと思ったから。
保健の先生に、階段から落ちたことを説明して、手当をして戴いた。
「全く、もっと気をつけなくちゃダメよ、緋勇君。打った場所が場所だし、後で病院に必ず行きなさい。」
「はい。」
普段の龍麻君と同じように、背中を伸ばして、足は開いて、視線を真っ直ぐにして、返事は短くビシッと。
そうだ、口元ももっとキリッとしていないとおかしいわ。
「しかし、いつ見てもキミは、着痩せするというか、脱いだらスゴイっていうか、イイ身体してるねえ。アハハッ。」
 先生はそう言いながら、背中に湿布をペシッと貼った。
い、痛い…。
でも龍麻君なんだから、痛がっちゃ変よね。我慢、我慢。
「で、後はどこだって? 左足ね、ちょっと裾をまくるわよ…うわッ? こりゃ痛そうだ!」
「? …!」
 一緒に、露わになった龍麻君の足を見下ろして、思わず叫んでしまいそうになった。
ひどい傷…でも、これは…
「階段のどこに引っかけたら、こんなにザックリ切れるのよ。…ん? でもこれはもう、半分塞がりかけてる? この怪我は一体どうしたの?」
「い、いえ…こ、これは、今朝…こ、公園で転び…ました。」
「ええー? 一体どうしちゃったのキミ。足腰弱ってない? なんてね、ホントはケンカでもしたんでしょ。あんまり問題起こさないでよー。」
「す…済みません。」
「いいけどね、弱いものいじめなんかしてるんじゃないならさ。男の子だもんね。」
 違う。
この傷は昨晩、旧校舎で付いたものだわ。
最後の階層に出た敵がとても強くて、私も高見沢さんも疲れ果てて、治癒力を使えなくなり、薬も使い果たしてしまった。龍麻君はいつものように、みんなを怪我させないよう、庇うように闘っていた。
そして闘いが終わった後、最後の地息丹を龍麻君は、腕に怪我をしていた京一君に渡した。自分も怪我をしていたのに。
足を攻撃されていたのを見ていたから、私は「大丈夫? 治してあげられなくてごめんなさい」と言ったんだ。
龍麻君は「何でもない」と言っていたし、平気そうだったから、安心して忘れていた。
どこが…どこが「何でもない」の?
洗って血を拭き取っただけの、ろくな手当もしていない傷は、左の膝下からくるぶし近くまで、深く抉られている。
痛い筈だわ、こんなに重傷なんだもの。
なのに…。
「よしっと、治療おしまい。ホントに病院には行きなさいよ、特に頭の後遺症は怖いんだからね。」
「はい。有り難うございました。」
 泣きたいのと、痛いのを必死でこらえて、急いで保健室を出た。
もしかしたら、いつもこうなんじゃないかしら。
治療して戴いている間に見えた龍麻君の腕や足は、傷だらけだった。
私達の<<力>>や薬で治した傷は、殆ど跡が残らない筈なのに。
治癒をかけるのも、薬を使うのも、いつも他の人の治療が終わるまで拒む龍麻君───
本当は時々、こんな大怪我をしていても、構わずに黙っているのかも知れない。
 痛みを感じない訳じゃない。だってさっきも、今も、私はこんなに痛いもの。
あの人はただ、我慢しているんだ。
強い人だから。
 でも、本当にそれだけなのかしら。
みんなのことを大切にしていて、自分のことは…大切に思っていないような気さえする。
 …まさかね。
あんなに凄い人だもの。
誰もが見惚れてしまうほど素敵で、何でも出来て、強くて、無口だけれど本当は優しくて…
そんな人が自分を嫌いだなんてこと、ある訳がないわ。
私みたいに、役立たずの女々しい人間じゃないもの。
あの人は本当に強い人なんだわ。
心の底から、人を大切に出来て、人のために闘える人なのよ。

 廊下の窓に映る自分の顔を見つめた。
いつもの力強さのこもった眼じゃない、どこか頼りなさそうな表情をした、龍麻君じゃない龍麻君。
こんなの、「緋勇龍麻君」じゃないわ。
 しっかりしなくちゃ。
私も、もっと強くならなくちゃいけない。
元に戻れなくても、元に戻れたとしても、私は私を鍛えなくては。
龍麻君のように、人のために力を尽くせるようになって、そしてみんなの…
この人の役に立ちたい。

 周囲を見渡して、誰もいないことを確認してから、窓に向かって言ってみた。
「しっかりしろ、葵。」
…きゃッ。
龍麻君の声で励ましてもらおうと思ったのに、ドキッとしてしまった。
『葵』だって…い、嫌ねもう、自分で呼んだだけなのに。
 本当にそう呼んでもらえたら、…嬉しいんだけどな。
織部さん達やミサちゃんが羨ましい。
…もう、どうして私ってこうなのかしら。
本当に強くなって、龍麻君にも、そんな程度のこと、軽く言えるようになりたいわ。
 …あら? 強くなりたいって、そんな意味じゃなかったのに。
もう、私ったら、本当にバカ。こんな時に、何を考えてるの。
そうだった、早く龍麻君のところに戻って、ミサちゃんの話を聞かなくちゃ───

 ───ううーん。
「…ちゃん…ッ…さと! 美里、大丈夫か!?」
 この声は…京一君?
…そう、京一君と「私」…龍麻君が話をしているのを見て、声をかけて…
私の身体が落ちてきて…それで私…ああ、また私達、ぶつかって倒れたんだわ。
そうだ! 龍麻君は? 龍麻君の入った私と、龍麻君の身体は、どうなったの!?
 慌てて身を起こそうとして、私は初めて、自分が誰かの上に倒れていたのに気付いた。
学生服…男子の。
…あッ? た、龍麻君!?
「えッ…じゃあ、私…私は?」
 両手を見て、自分の身体を見下ろしてみたら、元に戻っている! 
「大丈夫か? 美里?」
「あ、え、ええ! 私が美里葵よね? ああ、良かった…。」
「…??? ほ…ホントに大丈夫か? 頭とか打ったか?」
気味悪そうに、でも心配そうに訊いてくる、京一君の顔を見て、とても可笑しくなってしまった。
「うふふッ、私は本当に大丈夫です。心配してくれて有り難う。」
……い、いや…。だよな、お前は確かに美里だよな。うん。」
京一君は首を捻りながらそう言った。さっき龍麻君と話をしていたみたいだから、少し事情を聞いたのかも知れない。
「そ、それより、ひーちゃんも大丈夫か? 美里を助けたはいいけど、咄嗟のことで、受け身も取れなかったみてェだな…」
「あッ…そ、そうだったわ。私ビックリして、受け身とかも全然解らなくて、そのまま倒れてしまったんだ。龍麻君、ごめんなさい…」
「…へ?」
 私は急いで、龍麻君に治癒をかけた。
包帯を外してみて、さっきの傷が全て消えているのを確認する。頭に触ってみたら、コブもない。
良かった。この身体に戻れば、私も少しは役に立つことが出来る。
「念のため、保健室に連れて行きましょう。京一君、手伝ってくれる?」
「あ、お、応。つっても、流石に俺一人じゃ無理だな。醍醐呼んでくるか。」
「あ…じゃあ、もしミサちゃんが居たら、一緒に連れてきてくれるかしら。訊きたいことがあるの…」

 保健室で龍麻君を休ませてから、私はみんなにこれまでのことを説明した。
醍醐君と小蒔は、最初は半信半疑だったけれど、京一君だけはすぐに、「そうか、それでか…」と言って、ひどく複雑そうな顔で納得してくれた。
ミサちゃんも、お薬のせいではないけれど、あり得ない出来事ではない、と説明してくれた。
程なくして龍麻君も目を覚まし、この事件は一件落着した。
 でも…

「そんなことは、ない。」

 魂が近しいと言われて、龍麻君との間に、何か特別な絆があるような気持ちになれて、嬉しかった。
でも、きっぱり否定されてしまった。
私のこと、ろくに鍛えてないし、余計なことばかり考えてるし、役に立たない女だと思ったに違いない。
恥ずかしいなあ…
せめて、こんなことになるなら、小蒔みたいにうんと鍛えておけば良かった。そうすれば、少しは見直してもらえたかも知れないのに。
でも私には、拳や武器を使って闘うなんて、とても出来そうにないし…。
 いけない、こんなことでくよくよしていたら、益々嫌われてしまう。
これから少しでも、足手まといにばかりならないように頑張ろう。
今回の事件は、「もっとしっかりしろ」と神様が仰っているということなんだ。そう思って頑張ろう。
 それに、大切なことを知ることが出来た。
あの人は弱音を吐かないけれど、それで安心してはいけないんだわ。
「平気だ」と言われても、ちょっと強引にでも、ちゃんと治してあげるようにしよう。
すぐに疲れ果てて<<力>>を使えなくならないよう、そのためにも体力付けなくちゃね。

◎・◎・◎

「小蒔オネェチャン…最近、葵オネェチャンが変なノ。お部屋で、ナンカいっつも、フッキンとかしてるノ。」
「ええ? 家でも? 学校でもさ、休み時間にジャージ着て腕立て伏せとかやってるんだよ。どうしたのかなあ、葵…太ったようにも見えないけど、ダイエットでも始めたのかなあ。」
「オネェチャン、やせテルのにネー?」
「ねー??」
 そんな会話がされてるとは知らず、美里は今日も、少し間違った方向で頑張っているのだった。

03/22/2005 Release.