京一君の胸きゅん事件

 (何だ、遅せェな。)
 裏密と何やら話していたので、関わり合いになるのはゴメンとばかりに「俺、先行ってるわ」と屋上に逃げてきた京一だったが、いつまで待っていても、龍麻がやってくる気配はない。
 何かトラブルでもあったのかも知れないと、教室に戻ってみたが、龍麻も裏密も居なかった。
(こりゃァ霊研まで連れてかれちまったかな? ちッ、これだからお人好しは困んだよ。)
 醍醐辺りなら「お前も充分お人好しだ」とツッコミを入れそうなことを思いつつ、あまり積極的には足を踏み入れたくない場所へと向かう。
するとそこには、奇妙な人物が待っていた。
いや正確には、人物は奇妙でも何でもなかったのだが。
(…美里…? だよな。)
霊研の扉の前で、背筋をビシッと伸ばし、後ろ手に腕を組んで微動だにしない姿は、歩哨か何かのようだ。
(? 何やってんだ? 裏密に見張りでも頼まれたのか?)
 不審に思いつつ、京一は声をかけた。
「よ、美里。こんなトコで何やってんだ?」
こちらを振り向いた美里を見て、一瞬言葉を失う。
元々、この学校では並ぶ者のないほどの美貌を持ち、多少近寄りがたい雰囲気もある美里だが、いつもは柔らかい微笑と物腰で、相手にきつい印象を与えることはない。
だが今は、話しかけるのも躊躇わせる程、威圧的な雰囲気をまとっているではないか。
「邪魔をするな」と言わんばかりの強い視線と、少々青ざめて見える白い貌が、まるで別人のようだ。
 これはただ事ではないのではないか、と思った瞬間。
なんと美里は、ものも言わずに走り出したのだった。
「お、おい? 美里!?」
慌てて後を追う。こんな美里は見たことがない。
何があったんだ? まさか、また鬼道衆がおかしな横やりを入れてきて、何か思い詰めているんじゃねェだろうな。それともやっぱり、さっき裏密が何かやらかしたのか? まさか…ひーちゃんの身に何かあったのか?
 階段の途中で何とか追いつき、とにかく逃げられないようにして問い詰めた。
あの時───九角の事件で、美里は小蒔に謝りながら約束した。
勝手に自分を犠牲にしないこと。何かあったら、ちゃんと友達を、仲間を信じて話すこと。
(俺は小蒔じゃねェが、仲間であることに変わりはねェだろ。もう、あんな思いは沢山だぜ。お前も、醍醐のヤツも、ひーちゃんも、自分さえ犠牲になればいいと思うヤツばっかりで、ホントやんなっちまう。…お前だって、ひーちゃんが黙って犠牲になるのを見て、悲しい思いしてんだろ。そんなら、俺達の気持ちも解りそうなもんじゃねェか?)
「何でも…ない。気に…しないで。」
 目を逸らし、囁くように告げられた言葉に、益々腹が立つ。
何でもないって様子じゃねェだろうが。
一体何があった!?

 更に問い詰めようとした時。
意を決したように、美里は顔を上げた。
───ッ。」
 まァ美人だよなァ、程度に思っていたその容貌が、間近で自分を見つめ返す。
厳しく引き結ばれた紅い唇と、少し乱れた長い黒髪が、透明なまでに白い肌に映える。走ったせいかさっきより赤みの差した頬、形良い眉、全てはいつも通り美しかったが───
(何…だよ。何でそんな…眼で、俺を見るんだ…美里?)
触るな。
何も尋ねるな。
これ以上踏み込んでくるな…と言いたげな眼光に、京一は一瞬竦み上がった。
 普段は全く見せないが、美里が芯の強い女だということは知っている。だがこれほど烈しい意志の強さを、それも言葉ではなく、表情だけで示されたことは、未だかつて無い。
京一を貫かんばかりの眼光に、目を逸らすことも出来ず、ただ吸い込まれるように見つめる。
本当の美人は怒った顔も美しい…などという言い方もあるが、何者にも屈せぬような潔癖な頑なさと、それ故にこそ折れそうな脆さが、そう見せるのかも知れない。
そう、京一は初めて美里を、心底美しい、と思ったのだった。
(…って、何考えてんだ。美里はひーちゃんに惚れてんだし、俺だって上手くいって欲しいって思ってんのに、何血迷ってんだよッ。…でも…だけどよ、こんな眼で見られちまうと、何かこう…胸が苦しくなるじゃねェか。どうしたってんだよ、一体何があったってんだ、美里…)
 ふと、両肩を押さえつけている体勢が気まずくなり、ぎくしゃくと手を離した。
だが「逃げないで話をしてくれ」という言葉が、上手く出てこない。
 何か言わなくては、と苦心していると、美里の方からやっと声をかけてきた。
「京一…実はな…」
……?」
な、なんで美里が呼び捨てで俺を呼ぶんだ?
そんなことより、そのすがるような眼は何なんだ?
駄目だ、俺にはひーちゃんが…じゃねェ、お前にはひーちゃんが…

「美里? どうしたの?」

 心臓がひっくり返った。
このタイミングで当の本人が階下から声をかけてくるとは、あまりにも出来過ぎだ。
何もしていないのに、不味いところを見つかったような気がして、身が竦む。
しかしそのため、バランスを崩して足を滑らせた美里を捕まえることも、美里を支えてそのまま倒れ込んだ龍麻を助けることも出来なかったのである。
「お、おい、美里ッ! ひーちゃんッ! あーもーッ阿呆か俺はーッ! ホントに何やってやがんだッ!! 美里、ひーちゃん、俺が悪かった! 目を覚ましてくれーッ! もう金輪際、変なコトは考えねェからッ!!」

 その後、実は二人の精神と身体が入れ替わっていたと聞いて納得したり改めて慌てたり悩んだりした京一だったが、都合が悪い結論に達しそうだったので、全部忘れることにした。
「とにかく、やっぱり裏密に関わるとロクでもねェってこった。そんだけだ!」
「ひ〜ど〜い〜。今回〜ミサちゃん〜、悪くないのに〜。」
 しかし、裏密言うところの「リラックス剤」が、二人の精神状態を安定させた一方、魂魄が剥離しやすい状況と、定着すべき肉体を間違えやすい条件を作り出した可能性が高く、まるっきりシロでもないらしいのだった───