京一のヤな誤解

───蓬莱寺。」
 後ろから、よく響く声が追いかけてきたが、京一は振り向かなかった。
振り向けなかったのだ。
 『あんな真似、他のヤツにしやがったら…ただじゃ済まねェからな』
何故あんなことを言ってしまったのか。
馬鹿げている。
男同士で、同じ箸で食べようが同じコップで飲もうが、よく考えれば別にどうということはなかったのだ。
 ただ…
(…あんな風に如月にも食わしてんのかと思ったら…)
冗談じゃねェ。
 如月、あのイヤミで尊大でひねくれた男だけはどうしても好きになることが出来ない。
ことある毎に皮肉を言う。龍麻との仲を揶揄する。
(くだらねェ───
アイツの方こそ、ひーちゃんに惚れてんじゃねェか? だから俺に嫉妬して…
 …馬鹿なことを考えている。少し冷静になろうと立ち止まった時だった。
「蓬莱寺…今日、泊まりに来い。」
 抗うことを許さない響きが、京一を一瞬にして凍り付かせた。
ざわざわとしていた廊下がしん、と静まり返る。
揺るぎない圧力が、居合わせた人々総てを振り向かせたのだ。
 背中に滴り落ちる汗を感じながら、京一はゆっくりと振り向いた。
いつになく、はっきりとした意志を示す二つの光が、京一を貫くように見据えている。

 それは命令。
 ───お前などに指図は受けない。『ただじゃ済まない』などと、それで脅したつもりなのか?───

 そう言いたげに、龍麻の眼が鋭く輝く。
「う…わ…分かった…」
思わず答えてから、悔しさのため顔を歪める。
龍麻は満足そうに頷くと、来たときと同様に優雅な足取りで、教室へと戻って行った。
 やっと、時間が動き出した。廊下にいた人々が、ひそひそと会話を再開する。
 悔しかった。「服従」してしまう自分が、悔しかった。
どんなに友人のつもりでいても、龍麻は自分を同列に置くまいとしているのだろうか。
(…そんなんじゃねェ。そんな筈はねェ。…だけど…そんなら、何で「泊まりに来い」なんて言うんだ?)
 何の目的でそんなことを言ったのか。
さっき「ただでは済まない」と言われたのが悔しかったのだとしたら、逆に龍麻が京一に対して何かを仕掛けるつもりなのかも知れない。
そこまで考えてから、京一はギョッとした。
(…何考えてんだよ、俺はッ! ひ、ひーちゃんが何をするってんだよ、俺に…)
 だが、泊まりに来いというのは。
遊びに来い、ではなかった。
───「ただじゃ済まない」というのは、こういうことか? 蓬莱寺───
(ば、馬鹿! な、な、何を想像してんだッ!?)
男に組み敷かれるという、とんでもなく屈辱的なことを想像してしまった。それも相手はあの龍麻である。
(…ダメだ…俺、相当腐ってんな……
 かぶりを振り、京一はそのまま外に出ようとした。
いつもの体育館裏で、頭を冷やすつもりだった。

「おい。蓬莱寺。どこへ行く?」
 ギクリとして振り向くと、そこには京一が最も会いたくない人物が立っていた。
「もう授業が始まるだろう。」
「…い、犬神…」
「犬神"先生"だ。馬鹿者」
ちッ。今日はとことんツイてねェ。
顔を逸らしてやり過ごそうとしたが、犬神はそのまま近づいてくる。
「…どうした。顔が赤いな。」
「! …なッ、何でもねェよッ」
「フン…ちょっと見せろ。」
「ッてッ…てめッ」
素早く額に手を当てられ、京一はそれを払いのけようとした。
しかし、あっさりと犬神に腕を掴まれ、逆に身動きが取れなくなってしまう。
(これが、一介の生物教師の動きかよッ? …だからコイツはイケすかねェってんだ)
 京一の憤懣をよそに、犬神は少し眉を上げて、驚きを含んだ声で告げた。
「本当に熱いじゃないか。風邪か? 珍しい。」
「…ッせェんだよ! 放っとけ!」
「フン。どうする、早退するのか?」
無理矢理手を振り解くと、京一は応えず踵を返した。
「帰るなら傘を持って行け、きっと雨が降るからな。」
……雨?」
思わず窓の外に目をやるが、今日は雲も殆どないほどの快晴だ。
「まァ、夏風邪なら蓬莱寺も引くんだろうが…」
その言葉が、相当珍しいという意味、「雨でも降るんじゃないか?」と言っているのだと、鈍い京一にも気付かせた。
カッとなって振り向いたが、もう犬神は教室のドアの中に消えた後だ。
………バッッッッッッッッカヤローーーッ!!」
 思い切り怒鳴って、京一は校舎を飛び出した。
勿論、「発熱」のための「早退」である───