拾伍
之壱

皮下接触 II' -真・疑心

 それは奇妙な光景だった。

 龍麻の部屋は、殆ど無駄なものがない。必要なもの、普段使うものもきちんと収納されているので、時々人間味を感じないとすら思ってしまう程である。
壁にポスターや絵を飾ることもなく、机上にも教科書やノート以外、目立ったものは置いていない。
こまめに使用されるキッチンスペースにも、菜箸一本出ていない。食器を拭くための布巾が、壁に掛けられているくらいのものだ。
 そんな龍麻の部屋の中で、「それ」は一種、異様なオーラを漂わせていた。
「…ひーちゃん。これ…何だ?」
…………ボールだ。」
「そーじゃなくてだな。なんでこんなモン飾ってんだって訊いてんだよッ。」
……………。」
 そう、京一はその球の正体を知っていた。それは紅井が龍麻に渡したものだった───ほんの数日前に。

 野球部で散々練習に使ったらしい、土と汗の染み込んだ硬球には、拙い字で「あかい たけし」と書かれている。恐らくヒーローごっこに喜ぶような子供たちに渡す、正に子供騙しのプレゼントとして用意してあるものなのだろう。
 その「子供騙し」は今、いつも綺麗に片づけられている龍麻の机の上に「飾られて」いた。
「…この…小さいバットみてェなのは何だ?」
……………ボール立て…だ。」
「ボール立てェ?」
 京一は知らなかったが、小さなバットを三本組み合わせた形の三脚は、簡易なボール立てとして市販されているものだった。プロ野球選手のサインボールを飾ったりするのに利用されている。
それを知らなくても、わざわざ部屋主によって購入されたのだということ、それもこのボールを飾る目的で入手したのだということは解る。
「お前…何でこんな汚ねェもん飾ってやってんだよ? わざわざ…。」
……………。」
 普段の、神経質なまでのキレイ好きはどうしたんだよ。こんな土垢にまみれ、すり切れた野球のボールなんか、いつもならとっくに捨ててるじゃねェか。
 一度、ゲーセンで獲ったぬいぐるみを「いらねェから、やるよ」と机の上に置いたことがあった。
しかし翌日には、もう片づけられてしまったのだ。
捨てたのかと訊くのも女々しい気がして、結局それをどうしたのか解らず終いになっている。
不必要なものを置くのが嫌いなのか、ぬいぐるみ自体が嫌いなのか。単に邪魔だったのかも知れない。
 なのに、今ここにあるのは…
(何だってんだよ…あのたれぱ○だの方がよっぽど可愛かったじゃねーかよッ。俺が置いたモンは簡単に捨てちまって、知り合ったばっかのアホ面のボールは丁寧に飾んのか? 何だ、こんな小汚ねェ野球のボールなんて…)
 少々情けない嫉妬をしていた京一に、龍麻が何かを告げようと顔を上げた。
いつもの仮面に、強い決意の色が滲み出ている。
京一は、龍麻が重要なことを告げようとしていることを知って、少し居住まいを正した。
……京一。…オレは…」
 だが、龍麻が口を開いたそのとき。
来客を告げる軽やかな音が、インタフォンから無情に鳴り響いたのである。

『よう、緋勇! ちょっと新宿までパトロールに来たんだ。上がっていいか?』
 あまりのタイミングの悪さ…もしくは良さに、思わず絶句してしまう。
『構わないわよねッ? なんたって私たちは、正義のために共に闘う仲間なんですもの!』
……ああ。」
 龍麻は承諾の言葉をインタフォンに向かって呟いた。
一瞬、京一の方に視線を投げかける。躊躇いつつ、階下の二重ドアのロック解除ボタンを押す。
京一が大宇宙三人組を快く思っていないことを、解っているらしかった。

「へェ、なかなか良い部屋だな。」
「綺麗にしてるんだなあ、緋勇。俺っちなんか、いつもお袋に叱られてるぜ、部屋を泥だらけにするな! とかってよ。」
「自分の部屋くらい掃除できないヒーローというのも、みっともないよな。」
「何だとッ!?」
「もう、よしなさいよ二人とも!」
 図々しく上がり込んだ三人は、ジロジロと部屋中を見渡して、好き勝手な感想を述べている。一気に騒がしくなった部屋は、空気の密度さえ濃くなったようだ。
龍麻は気にすることなく、客のために日本茶を淹れている。
(こんな礼儀知らずな連中に、そんなもん出す必要ねェ!)
 そう言いたいのを我慢していると、桃香が目ざとく問題の物品を発見してしまった。
騒ぎはそこから始まった。

「あッ。あれ!」
「…あッ! 俺っちのサインボール!」
「な、何ッ!?」
 三者三様の反応が、顕著に示された。
「何たってあれは、俺っちと緋勇との友情の証だもんな!」などと言って、喜色を顕わにしている紅井。
「やっぱり緋勇クンは、友情と正義の使者なのね!」と勝手に解釈して喜んでいる桃香。
 得意満面な紅井の姿が気に入らないのか、黒崎はそっぽを向いている。
しかし、突然気を取り直したように振り向いた。
「こんなものを飾ってくれるとは、緋勇も見かけによらず、友情に厚い男なんだな。」
合わせるように龍麻が頷くと、フッと笑って頷き返す。
そんなやり取りに、嫌な予感が京一の胸をよぎった。
「…ちょっと待て、黒崎…。」
 予感は的中した。
黒崎はしゃがみ込んで、スポーツバッグからサッカーボールを取り出したのだった。
「それじゃあ、俺はこれをお前にやろう。俺と緋勇との友情が始まる、今日という日の記念にな。」
どこからか油性マジックを取り出し、慣れた手つきでサインをボールに入れる。
「アラッ。それなら私だって!」
 そして案の定、桃香も自分の鞄を開け、新体操のリボンを引っ張り出した。
思わずがっくりと力が抜ける。
「…お前らなァ…。」
「何たって、新しい仲間ですものね。…はい、私のサインよ。大事にしてね、コスモイエロー!」
「だから、緋勇はどちらかというとブルーだと言ったじゃないか。」
「何だって? そういうことは、リーダーの俺っちが決めるんだよ! なッ、コスモグリーン!」
 龍麻が黙っているのをいいことに、三人は勝手なことを言い合いながら、手にしたサイン入り道具を飾り付け始めた。
「おッ…お前ら、いい加減にし…」
「ねえイエロー! 画鋲はないの? この壁一面に私のリボンを張り付けたら、きっと綺麗よ?」
「俺のこのボールは、天井からつり下げるといいな、ブルー。眠るとき、俺との友情について思い巡らせられるようにな。」
「お前ら勝手だぞ! 緋勇…いやグリーン、俺っちのこのボールも、ベッドの棚の方がカッコ良く見えないか?」
………………。」
 困っているのかいないのか、いつも通り何の表情も見せることなく、龍麻は彼らを交互に見渡している。
「てめェ黒崎! そこに置いたら、俺っちのサインボールが見えないだろ!」
「フン…そんなもの、目に入らない方がブルーのためじゃないか。」
「何だとうッ!?」
「もう…! あんた達ってどうしてそうケンカばかりなのよ! 緋勇クン、ここは中を取って、私のリボンをこう飾れば…」
……いい加減にしろーーーーーーーーーーーーッ!!!」

 騒ぐだけ騒いだ三人組は、京一に追い立てられて、渋々と引き上げていった。
三人に出した茶器をさっさと片づけている龍麻の背中と、そのゴチャゴチャとした「装飾品」をしばらく見比べる。
「…これ…どーすんだ? 片づけるのか?」
 急須をスポンジで丁寧に磨いていた龍麻は、肩越しにちょっと振り返ると、横に首を振った。
「このまま置いとくのかよ? …いいのか?」
………。」
「お前、片付かねェのイヤなんじゃねェのかよ。あいつらのカオでも立てようってのか?」
 そう言ってみてから、京一はそれが真実なのだと思い至った。
あの突拍子もないヒーロー志向も、龍麻にとっては嫌悪するようなことではないらしい。むしろ積極的に、連中のご機嫌をとっていたような気がする。
 流石だよな。こんなことで苛つく俺なんかとは、器が違うってワケか。
……これは…置いておく。」
 妬みか劣等感か、昏い感情に流されかけたとき、龍麻が宣言した。
「…置かないと……。」
置かねばならない…と言いたいのか。置く義務がある、と。…何故だ?
……アイツらが、『置け』って言ったから…か。」
呟くと、龍麻は振り向かないまま、はっきりと頷いた。
 連中が、それを望んだから。
その望みを叶えてやれば、連中が満足するのを知っているから。
この程度で扱いにくい連中を掌握出来るなら、いくらでも飾ってやる───というわけか。

「…じゃあ、前に俺が持って来たぬいぐるみはどうしたよ? 捨てたのか?」
 どうしようもなく苛ついてくる。
全く意味のない感情。龍麻に当たったって仕方がねェってのに。
連中のを飾るなら、俺の持って来たものだって飾ったらいいじゃねェか。何で捨てたんだ? 俺はアイツらとは違うのか? 答えろよ、龍麻───

 龍麻は流れるように立ち上がると、壁面収納になっているクローゼットを開いた。
服を吊す空間は小さい。何段かに区切られた大きな棚が押入代わりに入っていて、そこには簡易箪笥や段ボール箱が積んである。
 上から2段目の棚の奥から、龍麻はそれをひょいと取り出した。
「…しまってあった…のか。」
…………ホコリが…付くから…。」
「…こ、こんなもん…大事にしまっておくようなモンじゃねェだろ…。」
………そう…か?」
 京一は思わず龍麻を見つめた。
龍麻は、ぬいぐるみを両手で支え持ち、小首を傾げている。
如何にも、どう扱っていいか解らないといった様子で。
 黒くて小さい耳を軽く引っ張る、所在なげな、壊れ物を扱っているかのような動作を見ているうちに、京一は笑い出していた。
「…く…は…ははッ。あっはっはっは!」
 よく考えれば、龍麻はずっと非日常的な戦闘に明け暮れてきた男だった。飾り気や色気などとは無縁だったと思われた。
ぬいぐるみなど、所有したこともなかったのだろう。
(どうしていいか分かんなかっただけかよ…バカだな…ホント、バカだぜ、俺は…)

 京一は悪戯っぽく笑って、その柔らかい物体を、持っている龍麻の両手ごと押しつけてやった。
「抱っこして寝るんだよ。枕元に置いといて。」
ぬいぐるみを胸に押し抱くような格好で固まっていた龍麻は、「そうなのか…」と呟いて、ぎこちなくそれを抱き締めた。
 ドキン、と胸が跳ね上がる。
まるで自分が抱き締められたように、身体が熱くなる。
いつもと変わらない仏頂面のままなのに、正座したまま小さなぬいぐるみを抱き締めるその姿は、何だか小さく、儚げに見えた。
(な、何考えてんだよ! 誰が儚げなんだ、コイツなんか───
自分より数段強い男だ、精神力も身体も技も全て。なのに、なのにどうして…
 目を閉じて、ぬいぐるみの柔らかい頭部に唇を寄せるのを見て、京一は何かに突き動かされるように、右手を伸ばした。
龍麻の髪に触れると、ゆっくりとその眼が開かれる。
「…ひー…ちゃん…」
 見つめ返す双眸が、微かに揺れる。どうした…と問いたげに。
実際に声に出して尋ねようと、唇が開いていくのに併せて、顔を近づけていく。
京一の意図を察した龍麻が、また瞼をゆっくりと閉じるのを見て、京一は全ての理性を捨てた。
「…ひーちゃ…ッ!」

『…緋勇! また来週、こっちまでパトロールに来たら、今度はもっといいボールを持って来てやるよ!』
『お、俺っちだって、今度は新品のボールにサインしてやるぞ!!』
『もうッ! あんた達なんにも解ってないのね! …緋勇クン、今度は私、ちゃんとした色紙にサインしてあげるわねッ!』
……………………。」
 インタフォンの接続が自動になったままだったらしく、階下でまたわめいている三人の声が唐突に始まり、そして唐突に途切れた。
……………………。」
……………………。」
 呆然と龍麻を見つめる。龍麻も、特に何の感慨もない様子で京一を見つめ返している。
決定的なタイミングを逃してしまったということを、京一は悟った。
…………も…寝ようぜ…。」
「…ああ。」

 京一の悩みは解決されるどころか、益々深くなる一方だった。
ついでに益々コスモレンジャーを嫌いになった、というのは余談である。

2000/05/11 Release.
皮下接触2.5に続く(笑)

蓬莱寺京一。18歳。

by 円(原画はこちら)