拾壱
之伍

隔心(裏・続確保)

 気まずい。
どうにも気まずい。
顔をあわせづらいから、今日は一日サボり倒すつもりだったというのに。
 木の下から鋭い声が響いて、京一はしぶしぶと木から下りた。
「…次は生物だ。」
解ってらァ。くそ真面目なヤロウだぜ、全く。
龍麻のことだから、先日犬神に「今度サボったらレポート提出だ」と叱られたのを気に留めていたのだろう。
心配してくれたのか。…単に、レポートなどということになると、自分もつき合わされるだろうから、面倒だと思っただけかも知れない。
いつも通りの無表情が、妙に軽蔑の表情に見えて、京一は小さく溜息をついた。

 昨晩のことだった。
二学期に入ってから、三日と空けず龍麻の部屋に立ち寄っていた京一は、その日も当たり前のように夕食にありついていた。
 一度「こんなに食わせてもらってんだから、食費ぐらい入れねェと悪いよなァ」と冗談めかして言ってみたのだが、龍麻にきっぱりと断られた。
「お前は…客だ。」
断る理由も端的に告げられた。
 …真面目だよなァ。
そう思う反面、所詮客人扱いなのかと、妙な失望感も否めない。
食費など入れられては、却って京一の訪問を増やす羽目になるとでも思っているのか。しかし、いつ訪れても龍麻は自分を受け入れてくれるのだ。
迷惑なら迷惑だとはっきり断れば良いのに、と京一は思う。
そうしないのは龍麻の社交辞令であって、自分はそれに甘えているだけなのだろうか。
 悩みつつも、何となくずるずると立ち寄ってしまう自分に呆れていた、そんな矢先の出来事だった。

 行儀良く箸を口に運んでいた龍麻が、その手を止めた。
こちらを見ていることに気付いて、どうかしたかと尋ねようとした時───
しなやかな指をひらめかせて、突然京一の頬に触れてきたのである。
 前髪の帳の向こうから、強い光が瞬くのが見える。ドクン、と心臓が跳ね上がった。
何の真似だ、という台詞が喉に詰まり、そのまま生唾と共に飲み込まれる。
 頬にかけられていた手が、ゆっくりと戻っていった。
龍麻は、京一を強く見据えたまま、その指先を自分の唇へと運ぶ。
飯粒、そう認識する間もなくペロリと舐め取られるのを、京一は呆然と見つめた。
 龍麻の舌が赤い残像を残す。反射的に目を逸らそうとしたが、見据えられた両眼の輝きが、それを京一に許さない。
………。」
………。」
 何だよ今のは。…俺のカオに付いてたってコトだよな。メシ粒が。…それを。それを何でそんな、ひーちゃん…お前、それ、食っちまって…。
如月の家での出来事をふいに思い出す。
同時に、その後泊まりに来いと言われて妙に勘ぐってしまい、しばらく遊びに来れなかったことまで思い出した。
あれはどういう意味だったんだ? これはどういう意味なんだ? 何で俺は、こんなに…こんな…
 心臓がフル稼働する音が、部屋中に響き渡っているかのようだった。
息苦しさに呼吸が乱れる。
自分がここまで動揺している理由が解らない。恐怖か。混乱か。それとも…
 龍麻が、何かを問いたげに唇を開く。居住まいを正すように向きを変え、膝一つ分詰め寄るのを見て、京一のパニックはピークに達した。

────ッ!!」
 派手な音を立てて、折り畳み式のテーブルがひっくり返った。龍麻を突き飛ばした際、闇雲に振り回した腕に引っ掛かったのだ。
龍麻の身体は、突かれた形のまま凍り付いていた。流石に驚いたのだろう、微かに眼を見開いて京一を少し見つめている。
言い訳の出来ない状況に、京一もただ見つめ返す。思考が停止してしまったようだった。
 だが、闇を映す瞳はふいに伏せられた。
「…済まん。」
 呟くような声が耳に届く。そこでようやく京一は我に返った。
転がった食物などを布巾で拭き取るように拾い始めるのを見て、慌てて立ち上がる。
「わ、悪りィ、ひーちゃんッ。俺ちっと…その、慌てちまってよ。い、いや別に何でもねェんだけど…その、ちょっと誤解…いや、つまり…と、とにかく悪かった! わ、わざとじゃねーんだぜ? て、手が滑ったんだ! …ごめんな、折角作ってくれたのによ…」
必死でまくし立てると、割れた食器を拾う手を止め、龍麻は首を振った。
……いや。」
それが、許しの言葉なのか、それとも拒絶の言葉なのか、京一には解らなかった。

 あまりに居辛くて、そのまま帰ってきてしまった京一は、床に就いてからもずっと龍麻のことを考え続けた。
 何故俺はあんなことで動揺しちまったんだ?
…龍麻が、どういうつもりであんなことをしたのか解らねェからだ。
普通、男の頬についた飯粒を取ってやるなんて、いやそれだけならまだしも、その後そのまま食ったりするか? しないよな?
それなら、あの行動はどういう意味だったってんだよ…。
 普通の相手なら、ふざけていた、あるいはあまり考えたくはないが、普通以上の好意の現れだったと見なすところである。
しかし、相手はあの龍麻であった。どちらとも考えにくい。
 如月に同じ事をされても平然としていた龍麻。
実は、特に意味のある行動ではなかったのかも知れない。自分が平気なのだから、京一もそうだろうと思ったのかも知れない。
 ───もしかしたら自分は、龍麻を拒絶してしまったのではないか?
唐突にその考えに辿り着き、京一は思わず身を起こした。
気軽に…京一が相手だからこそ、何の気なしに取られた行動だったのではないか?
 だが、それならあの謝罪は。「済まん」という言葉の意味は何なのか。何らかの意味のある行動だったからこそ、変なことをして済まない、と謝ったのではないのだろうか…
京一は、またベッドに身を横たえ、髪をがしがしと掻きむしった。
何ですぐそっちの方向に考えちまうんだ俺は! あのひーちゃんに限って、そんなつまんねェことするワケがねェんだ。絶対に違う…!
 龍麻が転校してきてから既に五ヶ月を過ぎたというのに、未だ真意を掴めない。そのことに苛立ちながら、京一は悩み続けた。思考は堂々巡りどころか、泥沼に陥る一方だった。


 京一が木から降りてきたのを見届け、龍麻はもう歩き出している。
わざわざ捜しに来て。午後の授業に出るよう促して。京一が後をついていくことを、疑いもせずに。
…俺はお前の何なんだ? 手の掛かる舎弟か何かか?
そうじゃない、と何度自分に言い聞かせても、こんな時はつい卑屈になってしまう。
 少し頭を冷やしたくて、京一は足を止めた。
後ろを振り向いた龍麻に、昼飯を食ってないからコンビニにでも行って来る、と告げる。このまま一緒に教室に戻って、普通に会話をする気になれなかった。
 しかし、龍麻は思いも寄らない行動に出た。少し躊躇った後、手にしていた弁当を京一に差し出したのだ。
想像もしていなかった申し出に困惑する。
「…ひーちゃん、これ…? いいのか? お前は? もう食ったのか?」
「オレは、要らん。…食え。」
 昼は先に食べたということなのだろうか。
何にしろ、有無を言わさぬ龍麻の「命令」に抵抗できるほど、明確な意志があったわけでもない。京一はそのまま弁当を受け取ってしまった。
(そうじゃねェだろ。俺は、お前と少し離れたくて…どうしてこういうことになるんだよ…)
 混乱と自責に顔をしかめつつ、その場に座り込む。包みを解き、蓋を開ける。
 肉団子、野菜の煮物、卵焼き、ほうれん草にプチトマト───各々が整然と区分けされ、白飯には胡麻と紫蘇が振りかけてある。几帳面で古風な龍麻の性格が滲み出る弁当だった。
一口食べて初めて、ひどく腹が減っていたことに気付く。心から「旨い」と告げながら、京一はガツガツと貪った。
 …しかし。

 卵焼きの隣に配されたウインナソーセージに目を止めた時、京一の箸も止まった。
一瞬、我が目を疑う。
「頭」と「足」の辺りに軽い焦げのついたウインナー…いやウインナーといっても、原形の楕円体とは異なるそれは、どこからどう見ても、紛うことなく…

白はタコじゃないもんな! by龍麻

(た…、タコさんウインナー……!?)

 真剣に、ソーセージに包丁で切れ目を入れている龍麻の姿を想像してしまい、京一はいきなり咽せた。
いつの間にか隣に座っていた龍麻が背中をさすってくれる。
「…い、いや、悪りィ…な、何でも…」
ちょっと待てよ。いくら何でも、そりゃギャグだ。このひーちゃんが、タコさんウインナー…た、た、タコさん…んなワケねーじゃねェか!
 ということは、これは龍麻が作った弁当ではないのではないか?
龍麻を慕う女生徒…例えば美里…辺りが、龍麻のために作ってくれたものではないだろうか。それで持て余して、持ち歩いていたのではないか?
「ひーちゃん、昼メシどーしたんだ? これ、マジで良かったのかよ?」
食べたと応えたなら、十中八九プレゼントされた弁当だろう。そうじゃなかったとしたら…
「…いや…。」
龍麻は首を横に振った。そのまま目を逸らしている。
 少し考えてから、京一は改めて弁当を眺め、人参をもう一つ口に放り込んだ。
それほど舌が肥えているわけではないが、頻繁に食べている龍麻の煮付けの味くらいは覚えている。
「…食ってねェだろ、お前。…返す。悪かったな、半分食っちまってよ。」
やはりこれは、龍麻が作ったものに間違いない、と京一は確信した。…ウインナーの謎が残されてはいたが。
 もしかしたら、弁当を食べようと思ってここに来ただけで、自分がたまたま居たので起こした、その程度のことだったのかも知れない。
そして成り行きのまま、自分の弁当を渡したということか。
 …昨日の詫びのつもりなのか?
その可能性に気付いて、京一は渋面を作った。
「いいから食えって。半分こにしようぜ? …なんかよ、そんな変な気の遣い方されてもよ…」
何か俺、お前に酷いことでもされたみてェじゃねェか。
違うだろ? そんなんじゃないって、言ってくれよ。
…何で俺ばっかり、一人でこんなヤキモキしてなきゃなんねェんだよ…なァ、ひーちゃん。

 ふいにある企みを思いついて、京一は再び箸を動かした。
先ほどの、謎のウインナーを摘むと、それを龍麻に差し出したのだ。
「ほれ。」
龍麻は、箸先と京一とを交互に見比べている。
…平気だろ? 何てことないんだろ、ひーちゃん。だって、お前も俺に、これやったじゃねェかよ。
 少しは俺の当惑も解りやがれとばかりに、京一はひらひらと箸を動かしてみせた。不毛な復讐もあったもんだよな、と内心自嘲しながら。

 龍麻はしばらく京一の態度に迷っていたようだったが、意を決したように微かに頷いた。
それを見て、ウインナーを口元へと運ぶ。
 龍麻は躊躇いがちに口を開いた。
ゆっくりと口中に運び入れる。それに併せて唇が閉じられる。
箸を通して、それが舌と口蓋とに柔らかく挟まれる感触が伝わってきた。
そっと箸を引き抜くと、京一を見つめたまま軽く咀嚼する。
こくりと飲み込む様をぼんやりと眺め、何故かまた落ち着かない気分になっていることに気付いた。
「…旨いか?」
自分の気持ちを紛らわすように尋ねてみると、何も気付かない様子の龍麻が軽く頷く。
 …ちッ。やっぱ全然気にしてねェ。こんなアホなことされてんのに。俺だけかよ、あたふたしてんのは!
腹が立つ反面、何か妙に悦びを感じている自分が居る。これは一体何なのだろう。
 居たたまれずに目を逸らした。とにかく間が持たないので、自分も食おうと箸を飯に突き立てる。
───先ほどの感触が指先に突然蘇った。
柔らかく食んだ龍麻の唇と舌先の…
(ッだーーーーッ!!! だから、何でそうゆう…バッカヤロー!! く、くだらねェこと思い出すんじゃねェーッ!! つーかオトコの唇なんかに色気を感じてんじゃねェーッ!!)
 内心の混乱を振り切るため、京一はそのまま飯を掬い、また龍麻に差し出した。
思い切り道化ながら。
「はいッ。あ〜ん☆」
シナを作り、裏声で、冗談めかして笑ってみせる。
そうとも、俺は単にふざけてるだけなんだからな。全部、単なる冗談なんだからな!
 龍麻はそれでも素直に受け入れた。
今度は京一も覚悟していたので、妙な気持ちも生じない。
そのことにホッとしていると、龍麻がふと「有り難う」と呟いた。顔を見ると、穏やかに京一を見つめている。
 いや、元々お前の弁当だし…と言いかけて、そのことではないと気付いた。
冗談に紛らわせたことで、昨夜のあの件で残っていたしこりが、大分薄れているのだ───龍麻の本意も、京一の奇妙な心理もはっきりとはしないままではあったが。
(そんなもんは闇に葬っていーんだッ! 気にすんな!)
……へへッ。…ま、後は放課後のラーメンまで我慢しよーぜッ。」
言いながら、自分も飯を掻き込む。
こくこくと頷く龍麻に、肉団子を食べさせる。
 その時初めて京一は気付いた。
そうか…。
素直に、大人しく、京一の差し出すままに受け入れる、その龍麻の態度が嬉しかったのだと。奇妙な悦びの正体はそれだったのだと。
(心を許してくれてるから、こんな事も平気なんだよな? そっか…だから、嬉しいんだ。俺に気を許してるってことだもんな…。 だよな、ひーちゃん?)
プチトマトのへたを左手で摘んで、直接口元に持っていくと、龍麻はそれもぱくりと食べた。
 へたを抜き取る際、親指の先に微かに唇が触れる。
「…へへへッ。」
……………
 満足感に酔いしれながら、京一は今度こそ心から笑った。
無意識に、左の親指を舐める。
京一の根底にある本当の望みは、未だ誰にも…本人にも、気付かれてはいないのだった───

2000/01/28 Release.