弐

魔人

「悪かったな、紫暮。朝早くから…」
 醍醐が紫暮に声をかけるのを聞きながら、京一は後ろを振り返った。
ゆっくりと改札をくぐって、龍麻が降りてくる。
通りすがりのOLや女学生が、ちらちらと視線を送るのを無視し、真っ直ぐ、ゆったりとこちらへ歩いてくる姿を観察した。
 昨日の傷は、完全に癒えたみたいだな。
岩角と闘ったのは昨晩のことだ。美里のお陰で傷はほぼ塞がっていたが、あれだけ出血したのだから、今日は休んだ方がいい。自分と醍醐で宝珠を奉納する、と主張したのだが、龍麻は聞き入れなかった。
責任感から、奉納を見届けたいと思っているのか。それとも、二人だけでは心許ないとでも思ったか。
相変わらずその意図が掴めない。

「…お早う、兵庫。」
 龍麻が紫暮に声をかけるのを聞いて、京一は少し驚いた。
そのまま二人は歩き始め、楽しげに会話を続けている。その後ろに慌てて追い縋りながら、思わず呟いた。
「…紫暮と、そんなに仲良かったのか?」
聞きつけた醍醐があっさりと答える。
「ああ、休日などは、紫暮の家の道場によく通っているらしいぞ。」
醍醐の話によると、紫暮やその兄弟等と手合わせをし、そのまま泊まることもあるらしい。
「俺も先日紫暮の家を訪れて、初めて知ったんだがな…」
「…ふうん。」
 京一も頻繁に龍麻の部屋を出入りしているが、龍麻自ら誰かの家を尋ねることがあるとは、全く気付かなかった。
そういえば、花見の時に一度盗み見た以外、龍麻が修練している姿を見たことはない。
 俺の知らないところで着実に腕を磨いていたのか。道場のある紫暮の家を利用し、次々と技を編み出しては、<<力>>を強めてきたのか。
自分でも分からない、焦りのようなものが胸を掠め、京一は頭を振った。
「…京一…。その…あ、あまり気にするなよ。」
 そんなに顔に出ていたのか、と慌てて醍醐を見やると、本当に心配そうに見つめる友の顔がそこに在る。
「…何言ってんだよ。」
 全く、武道のこととなると途端に敏感になるな、タイショー。
苦笑して前方を見やると、下目黒瀧泉寺の境内へと続く門が見えた。

 奉納を済ませて学校に戻ると、思いがけない事件が京一達を待っていた。
「美里ちゃんとマリア先生が、誘拐されたのよッ───!」
しまった、鬼道衆の仕業か───
咄嗟に龍麻の方に視線を送る。美里を狙ったのだろうか。マリアは巻き込まれ、人質とされたのではないか。
すぐまた仕掛けてくることを危惧したからこそ、急ぎ奉納に向かったのだが、昨日の今日で、本当にすぐ攻撃してくるとは思っていなかった。敵も甘くはないらしい。
 しかしアン子は、鬼道衆の仕業ではないかも知れない…と言いながら小さな証拠品を差し出した。
黒地に朱の鉤十字。
 校章か社章のようなものであろうと言うので、新聞部の資料を漁って該当する団体を探すことになったが、京一は最初に感じた自分の勘を信じていた。
 一緒に資料を調べる気にもならず、かといって他に手がかりもないので、ぼんやりと他の四人を眺める。
慣れているのだろう、ページを繰る指も鮮やかにひらめくアン子。
厳しい顔つきで、一ページごと丹念にチェックする醍醐。
苛立たし気にバサバサと雑誌を放る小蒔は、心ここにあらずといった様子だ。また焦って飛び出して行かねば良いが。
 そして───
詩集にでも目を落とすかのように、新聞を調べている龍麻。
そこに焦りや不安といった様子は全く見られない。
微妙な表情の変化、手足の挙動、筋肉の緊張と弛緩。あらゆる微細な動きから多少は龍麻の気持ちが分かるようになったつもりだが、今の龍麻は、全くと言っていいほど表情が読めなかった。
 美里が攫われて、落ち着いてるわけはない。
一つ試すつもりで、そして煮詰まっている皆に一息入れさせる目的で、京一は声を掛けた。
「まあまあ、ちょっと落ち着こうぜ。この蓬莱寺京一サマが、茶を煎れてやっからよ。」
 思った通りだった。
龍麻は鋭い視線を京一に向け、そしてそのまま睨み付けてきたのだ。
…やっぱり、そうか。
醍醐や小蒔に、心配をかけまいとしていたんだな。
だけど、それじゃダメだ…想いをしまい込んではダメなんだ。
 不謹慎だと言わんばかりのその眼光を、正面から受け止める。威圧する力に屈してしまいそうな気持ちを抑えつける。
ここで負けたら俺はコイツの「友人」じゃねェ。子分かなんかになっちまう。違うんだ、俺の望みは。俺は、お前の───
 ふと、光が和らいだ。
………そうだな。」
そう呟いて頷く姿に、思わずホッとする。
「おうッ、ちょっと待ってろよなッ。」
踊る胸を押さえきれず、鼻歌まで歌ってしまう自分に呆れつつ、急須に湯を注いだ。
ほんの少し龍麻が折れただけで、こんなに舞い上がっているようでは、所詮自分は負けたままなのかも知れない。
 それでも、無条件で降伏しちまうよりはマシだ。
自分の存在を認めさせたい、龍麻にとって意味のある人間で在りたい。京一は純粋にそれだけを願っていた。

「あちッ!!」
 小蒔が突然叫んだ。
慌てて手放され倒れかけた湯飲みを、醍醐が咄嗟に押さえる。飛沫が舞い、慌てた二人に突き飛ばされた雑誌やファイルが音を立てて落ちる。小蒔が調べていた新聞が、床を埋めんばかりに広がった。
「大丈夫か、桜井ッ!!」
醍醐は慌てて小蒔の手を取り、火傷していないかを調べた。それからハッと気付いて、慌てて手を離し「だ、大丈夫なようだな」などと口ごもる。小蒔は小蒔で、ちょっと赤くなっている。どうやらこの二人の仲は、僅かながらも進展しているらしい。
「なにやってんだよ、お前は。」
一応気を利かせて尋ねると、拗ねるように湯飲みが熱かったなどと言い訳をしている。恐らく、美里の身を案じてぼんやりしたまま、湯飲みを鷲掴みしたのだろう。

 床に散らばった新聞を拾い集めていたアン子が、急に声を上げた。
「ちょっと、この記事───。」
 ジル・ローゼス───今春設立されたローゼンクロイツ学院長であり、長年世界中の孤児の育成と教育に力を注いできたというその人物は、軍人と見まごう姿で紹介されていた。その襟元には証拠の品と同じ鉤十字がはっきりと写し出されている。
軍服に鉤十字(ハーケンクロイツ)という組み合わせで思い至るのは、一つの不幸な歴史。
アン子が、鉤十字には幸せを呼ぶ者の意味がある、と注釈を入れたが、それではこの男の軍服姿は、傲然と胸を張った様はどう考えたら良いのか。
 アン子から聞いたところによると、美里とマリアを攫ったのは学生服姿の二人組であるという。鉤十字が校章であるなら、この二人はローゼンクロイツの生徒と考えて良さそうだ。
 それに、先ほど何気なくアン子が呟いた独り言が、京一には気になっていた。
「全くもう、せっかく決定的写真も撮ったと思ったのに、カメラが壊れちゃうなんてツイてないわ…」
これは偶然なのだろうか。もしかしたらその二人組が、自分達のような<<力>>を持っている、とは考えられないだろうか。だとしたら、この学院というのも相当胡散臭い。
 醍醐が「とにかく行ってみよう」と立ち上がる。
渋るアン子を説得して留守を頼み、休憩時間中のあわただしい雰囲気に紛れて、京一達は学校を抜け出した。

 大田区にあるローゼンクロイツ学院は、町中から大分離れた所に広大な敷地を持ってそびえ立っていた。
一目見て、うっすらとした禍々しさが感じ取れた。
異常に高い塀には更に鉄柵が施されている。
鉄の門は開かれてはいたが、二重構造になっていて、警備員が二人立っている。
門の奧に見える校舎自体、どこがどうとは言えないが、妙に封鎖的な印象を受ける。
 …こんなところが養護施設を兼ねた教育機関だと?
京一の疑念は益々大きくなるばかりだった。
「どうやって入るか…。」
 醍醐の問いかけに、龍麻が「正面から」と答える。
これほど警戒色の濃い施設に、誰にも見つからず入れる裏口があるとは思えない。
龍麻の判断に賛成しながら、京一は警備員の方へと足を向けた。
「ちょっと、待って───。」
 唐突に後ろから声を掛けられ、ぎょっとする。
振り向くと、そこには思いがけない人物───天野絵莉が立っていた。
 絵莉は、学院内では孤児を人体実験に利用しているという情報を得たのだと告げた。
人為的に超能力者を創り出す研究───
美里を攫ったという少年達。壊されたカメラ。
全ての符号が一致していく。
「死蝋の時と似ているな。」
という醍醐の言葉に、京一はハッとした。
だとすれば美里を攫った目的は、龍麻を拉致した時と同じ、<<力>>を利用すべく人体実験の餌食にすることに違いない。
一刻も早く中へ、と焦る京一に、絵莉が提案した。
「あなたたちはジャーナリスト志望の学生、私の一日見習いとして、一緒に中に入る。というのはどう?」

 絵莉の機転で校舎内に潜入する事が出来た。
「ボク、ドキドキしたよ…」
冷や汗を拭う小蒔と醍醐を尻目に、一人泰然とした龍麻が辺りを見渡している。
つられるように、京一も周りを窺った。
そして、先ほど感じた「封鎖的な印象」の理由に気付いた。
窓がひどく小さく、高いところにだけ付いているのだ。自分達くらいならともかく、小・中学生程度では外も見えないだろう。
しかも全て鉄網が外側に打ち付けてある。
外部からの侵入を防ぐ目的かと思われた厳重警戒だが、逆に逃亡させない目的もあるのかも知れなかった。
「とりあえず、怪しげなところを当たってみるか。」
 とは言ったものの、「怪しげなところ」など簡単に見つかるものでもない。
誰か生徒でもいれば、何かを聞き出すこともできるだろうが、校舎内は何故かひっそりと静まり返り、どこまで歩いても人のいる気配を感じない。
 その時、廊下の端にようやく人影を見つけた。
ようやく人間と出会えたことに少々安堵しながら、声をかけてみる。
金髪の少女は無表情のまま、ぼんやりと京一達を眺めていた。
「…アナタタチ、ダレ?」
少女の無機質な声に、違和感を感じる。
醍醐の質問には応えず、龍麻の烈しい両眼を平然と見つめ返す、感情の欠如した瞳。
…この子供は一体…?
 その時、小蒔が声を上げた。
「このコが持ってる時計…これ、葵のだよッ!!」
 初めて、少女に変化が起きた。
「アナタタチ…アオイヲ知ッテルノ?」
青い瞳に困惑の色が差す。声にも先ほど感じた違和感がなくなり、年相応の響きを醸しだしている。
龍麻が「友達だ」と答え、小蒔が更に問いつめると、益々困ったように、少女は首を振った。抱かれていた黒い小さな猫が、主人の不安を感じ取って小さく鳴いている。
「トモダチ…分カラナイ…。…仲間…? 仲間ハ、大切ジャナイヨ。」
 絵莉の情報は正しかったのだ、と京一は悟った。
彼女は、ジル・ローゼスによって人体実験の材料とされた子供なのではないだろうか。
人為的に超能力者を造り上げられるというのが、どんな目的を持つものか、またどんな方法で行われるのか、京一には想像も付かなかった。しかし<<力>>を引き出しやすい、柔軟性の高い十代前半の少年少女を選んでいるなら、多感な彼らを利用するために感情の制御を施している可能性は高い。この少女の「違和感」はそのせいだったのではないか。
 小蒔の言葉に動揺し、泣き出してしまった少女を、龍麻が優しく撫でた。
驚いたように彼女が見上げる。
京一達に背を向けた、その顔がどのような表情を作り出したものか。金髪の少女は、不思議そうに龍麻を見つめ、泣き止んだのだった。
「美里は、どこにいるんだ?」
 醍醐が尋ねると、少女はやっと呪縛から解き放たれたように、階段を指差した。
既に実験中であることを聞くや否や、龍麻が階段へと駆け出した。全員がそれに続く。
(美里───無事でいろよ!!)

 その部屋は、学校の施設とは全く異なっていた。
窓もない薄暗い室内に、低い振動音が響く。
チラチラと点滅するモニタが、壁に据え付けられたものが大型コンピュータであることを示している。
床には夥しい数のケーブルが這い回り、あちこちに使途不明な機械が設えてある。
そして…
部屋の正面には、新聞で見た人物と、羊水ポッドのようなものに閉じこめられた、美里の姿があった。
小蒔が小さく「葵ッ!」と叫ぶ。龍麻の息を呑む気配が隣から伝わってくる。
 傍らにいた南亜系の少女が何事かを伝えると、ジル・ローゼスは我々を見てニヤリと笑った。
「なるほど。この連中か…」
やはり、この男は自分達の<<力>>のことを知っていたのだ。
 大地の<<力>>───龍脈を研究し、それを授かる人間を人工的に創り出したのだ、と男は語った。
「偶然」それを授かった京一達と違い、容赦なく、存分に<<力>>を奮える「兵士」。彼らは「選ばれし民」だと言うのだ。
「選ばれし民のみが他者を支配し、権力を操れる」
その理念を元に侵略を始めた独裁者を思い、京一は水龍刀を袱紗の上から握りしめた。
選ばれなかった人間は、生まれたときから「選ばれし人間」に傅かねばならない運命だというのか。努力も、悩みも、挫折も、全てが無駄だというのか。自分が選び、進んできた道は、人ならぬ何かによって決められているのか。
そもそも、彼らは何によって「選ばれている」というのか。ジル・ローゼスは自らが「選ばれし民」であるどころか、「神」を自称したいのだろうか?
ジルの語る歪んだ選民思想は、強い反発と嫌悪を京一に与えた。
同時に、自分の意志以外の力によって自分の人生が定められているという思想が、別の不快な言葉をも思い起こさせた。
(<宿星>とやらの話と同じじゃねェか。下らねェ…!)

 ふいに、後ろから先ほどの少女が現れた。
「実験中」であるらしい美里を見て悲鳴を上げる。
ジルはその少女───マリィを、「調整」とやらを施しても効かない「出来損ない」と呼んだ。
出会った時は、ジルを護って立ち塞がる三人の「兵士」達と同じく、無機質で空虚な眼をしていた少女。
今彼女は、激しい哀しみと怒りの色を瞳に込めて、彼らを見据えている。
「ワタシハ、兵器ジャナイッ。ワタシハ、生キテル。ワタシハ、…人間ダモンッ。」
美里を護ると言い切ったマリィの身体から、清涼な<<気>>が立ち上るのが京一にも解った。
マリィを嘲り笑った彼らのように、人間であることを捨てた者が「選ばれし民」であるなら。美里に寄せる想いが「出来損ない」だというなら。
(その「想い」に気圧されているのは何故だ? ジルさんよ。)
フン、と鼻で笑って、京一は刀を抜いた。

 「造られた兵士」達との戦闘は、これまでとは全く異なる様相を呈した。
黒色人種らしき少年の攻撃は、アランが用いる「霊ガン」と同質のものらしく、遠距離から<<気>>の塊を飛ばしてくる。これに意識を取られていると、いつの間にかもう一人の少年が身近に迫っている。コンビネーションを使って来る敵など今までいなかった。
そして、彼らの攻撃の合間に、遠くから得体の知れない<<力>>が飛んでくる───褐色の肌の少女の精神攻撃である。
「きゃッ!?」
 小蒔がガクリと膝を落とした。
「大丈夫か、桜井ッ!」
駆け寄ろうとした醍醐の動きが止まる。
小蒔は立ち上がると、ヨロヨロと無防備に、褐色の少女の方へと歩き出したのだ。
「さ…桜井ッ!?」
…………
慌てて醍醐が止めるが、小蒔は虚ろな目で「サラ」と呼ばれた少女を見つめ続けている。
「醍醐、小蒔をそのまま押さえとけッ!」
どうやら、彼女の攻撃を受けると、精神の自由を奪われるようだ。
「龍麻ッ。気を付けろッ!」
「分かっている!」
黒人の少年を容赦なく殴り倒した龍麻が、そのままスピードを落とすことなくジル・ローゼスの元へと駆け寄っていく。
 それを止めようと、「サラ」が呪文のようなものを唱え出したのを見て、京一も走った。
刀を振り下ろし、烈しい<<気>>を「サラ」の足元へ地走らせる。
間一髪で直撃は避けられたが、詠唱は途切れている。
この隙に間合いを詰め、追撃をかけようとした京一は、脇から飛び込んできた影に蹈鞴を踏んだ。
(しまった、まだもう一人ガキが居やがった───
防御も間に合わない。痛撃を覚悟して刀を引こうとしたとき…
「Fire!!」
突然、少年の身体が発火した。
「ай…!!」
マリィが両手を翳して烈しい<<気>>を放出している。呼応するように、肩に乗った黒猫が毛を逆立てていた。
「オニイチャン! 早ク!!」
我に返り、龍麻に斬撃を浴びせようとしていたジルの手元に向けて、空波を放つ。
「チッ!!」
刀を取り落としたジルに、龍麻が剄を叩き込み、後ろにいた少女ごと吹き飛ばして───闘いは終わりを告げた。

「…桜井ッ。」
 醍醐の声に振り向くと、頭を振りながら小蒔が立ち上がるところだった。
「…ボク…? どうしたんだろ…」
どうやら正気を取り戻したらしい。
ホッとして視線を戻すと、倒れていた筈のジルの姿が無いことに気付いた。
三人の子供達はまだ倒れたまま、学院長の名を呼んでいる。
どこまで性根の腐ったジジイなんだ…。
改めて怒りを覚えていると、マリィが必死に美里の入ったポッドを叩き出した。
「オネエチャン…アオイオネエチャンッ!」
龍麻が機械を調べているようだが、流石に解除の方法は見つからないらしい。
このような状態で美里を閉じこめていても大丈夫なのか。操作する者がいなくなったのだ、生命を維持する流れが途絶えたり、窒息してしまったりしないのだろうか。
 背に腹は変えられまいと判断して、京一はガラスを破壊することにした。
「ちょっと離れてろッ!」
水龍刀で<<気>>を叩き込み、ポッドの表面に三段の亀裂を走らせる。後は内部の水圧が、ポッドを粉々にしてくれる筈だ。その後は…
 耳を打つような破裂音と同時に、咄嗟に駆け寄った龍麻が、ガラスも水も全く意に介さずに美里を抱き留めた。
「…ばかッ! 危ないじゃないかッ!!」
小蒔が京一を睨みながらも、美里の元へと走っていく。
慌てつつも醍醐は、床に下ろされた彼女に学ランを着せかけてやった。
 だんだん意識がはっきりしてきたらしい美里が、眼を逸らしている龍麻に弱々しく笑いかける。
「来てくれたのね…ありがとう。」
だが龍麻は、一つ頷くとそのまま背を向けてしまった。美里が切なげに目を伏せる。
…龍麻なら、自分の意図を察して美里を受け止めるだろう。
その予想は正しかったが、相変わらず頑なな態度を取るのには閉口してしまう。
何か言おうと口を開いたとき、小蒔が怒鳴った。
「こらッ。男連中はあっち向いてろッ。」
美里を着替えさせるらしい。
「ちェ。いいじゃねェか、減るもんでもなし。」
彼女を救う目的を果たしたせいか、いつもの軽口が口をつく。
小蒔といつも通りやりあっていると、マリィが初めて笑った。この無邪気な笑顔が、少女の本当の素顔なのだろう。

 (さて、どうするか。何企むか解らねェジジイも早く追いてェが、マリアセンセーも急いで探さねェと…)
大人しく後ろを向いて着替えを待ちながら、今後の行動を考えていた京一だったが、女性陣の無遠慮な会話が聞こえてきて思わず赤面した。
 …小蒔。そーゆーデリカシーのなさがバカだっつーんだよッ。
先ほどの、一糸纏わぬ姿の美里を思い出してしまい、首を振る。
 口で何のかんの言っていても、京一は、深入りするほど親しく女子と付き合ったことはない。
好きな女がいなかったわけではないし、告白されたこともデートしたこともある。
だが、一人に執着するには何かが物足りず、執着されるのも息苦しく、それで何となく別れることを繰り返すうちに、適当にあしらってお茶を濁すようになっていたのである。
普段、軽く遊んでいるように振る舞うのも、下手に特定の一人と関わりたくないためだ。尤も、誰にでも声をかけたために失敗した経験も、一つや二つではなかったのだが。
 ちらりと横を見やると、目を閉じて聞こえないフリをしようとしている醍醐の苦々しい顔と、いつもと変わらず目を伏せている龍麻のしらっとした顔があった。
龍麻はどこまで女を「知って」いるのだろうか。
真面目な生活態度からみて、とても乱れた交際をする男には見えないが、今のように「ブラがない」だの「胸が大きい」だのいう会話を耳にしても、顔色一つ変えないのを見ると、つい邪推してしまう。
よく知っているのか興味がないのか───紗夜や美里への態度など、気になる部分は残されていたが、もしかしたら後者なのだろうか。それとも…
美里が着替えを終えたので、京一は考えるのを止めた。
(ま、そのうちその辺りは探ってみるさ。…まずは目の前の事を片づけないとな。)

 その後、一緒に攫われた筈のマリアを探しに地下へと降りたが見つからず、ジルを探した方が手っ取り早かろうと、マリィの案内で屋上のヘリポートへ向かった。
屋上へ上がると、丁度ジル・ローゼスがヘリに乗り込もうとしているところだった。部下がマリアを引きずりながら続く。
 京一達の姿を認めて、マリアが叫んだ。
「…アナタ達は逃げて!」
その頭に銃が突きつけられ、誰も動くことが出来ない。
「ここはもうすぐ爆発するのよ!」
なんとジル・ローゼスは己の保身のために、校舎ごと人体実験の証拠を消そうとしているのだった。
 さっきの子供達は、他にも残っているだろう生徒は、教職員は…
あまりの卑劣さに言葉も出ない。
 睨み合う中、突如、後ろから強烈な炎気が放たれた。
コンクリートの上を炎の帳が走り抜け、マリアに銃を向けていた男とジルを跳ね飛ばす。
「何ッ───!!」
「マリィ!」
烈しい一撃を繰り出した少女を見やる。真っ直ぐジルを見据えた瞳に迷いはない。
この隙に逃げだしたマリアを、小蒔が後ろ手に庇った。
「で…出来損ないの分際で…。」
 まだそんな愚かなことを…
切り札を取り返され、逃げ場も失い、まだ解らないのか?
 しかし、怒鳴ってやろうと一歩足を踏み出した瞬間、何もなかった空間から嘲笑が滲み出した。
「無様だなァ、ジルよ。」
 ───やっぱりな。
京一は驚かなかった。

 鬼道五人衆の一人、「雷角」と名乗ったその鬼面は、ジル・ローゼスをそそのかし、子供達を殺させ、人間を改造させていた黒幕だった。
追いつめられた男をあっさりと見捨て、一言唸る。
「変生せよ───
水岐涼が恐ろしい怪物へと変化したのと同じように、ジル・ローゼスはみるみるうちに変化していく。
 これが…変生。
「止めろ─────ッ!!」
醍醐の悲痛な叫びに、小蒔の悲鳴が重なる。佐久間も恐らく、こうして「変生」させられたのだ。
人間の心に巣喰う怒りや悲しみ、嫉妬、怨念を増大させ、鬼へと姿を変えること。
結局は己の弱き心に負けるということなのか。
 人の心を完全に失ってしまったらしい、ジル・ローゼスであったモノが咆吼した。

 それ 、、は、先ほど闘った者とは全く別の怪物となっていた。
鋭い爪で空間を切り裂くように繰り出される技は、剣から生じたものとは似て非なる<<陰の気>>を帯びている。
民族の誇り、歪んだ理想を掲げていた人物は今は無く、無念と憤りだけが塊となって襲いかかって来た。
本能のままに攻撃をしてくる鬼面どもを退けながら、左に陣取って醍醐に指示を与えている男に声をかける。
「どーすんだッ。」
「…挟むぞ。」
短い一言に、応よと答えながら京一は右に跳んだ。
二人が立っていた辺りに、怪物の重い爪撃が振り下ろされる。
「遅せェよ!」
振り向きながら、刀を水平に薙ぎ払うように振る。京一の持つ<<気>>が、水龍刀によって増幅されるように練り上げられ、怪物の脇腹に強烈な一撃を与えた。
巨体が紙のように吹き飛ばされる。
憎しみを込めて京一を睨みながら、立ち上がろうとしたその後ろで、鮮烈な<<気>>が立ち上るのを見て、京一はすぐさま駆け寄った。
 背中に龍麻の強烈な一撃を受けて倒れた異形の身体に、とどめを差そうと刀を振り上げたが、その時近づいてきたマリィが、無言で京一を見上げた。
………
頷いて刀を脇に下ろすと、マリィは両手を怪物に翳した。
「…Bye-bye…Master Jill…」
怪物の身体が炎に包まれる。断末魔の叫びは無様に途切れ、見る見るうちに炭化していく。
 零れる涙を拭いもせず、マリィは炎を見つめていた。決別の意を示す瞳は揺るがない。
 …強いな。
復讐ではなかった。人としての誇りを失った者への憐憫、曲がりなりにも自分を育ててくれた人間への追悼の想いを感じる。
この小さな少女は、ここにいる誰よりも、現実を直視出来る強さを持っているのかも知れなかった。
 辺りを見渡すと、もう鬼どもの姿は既に無い。
雷角は、と振り向くと、醍醐が猛烈な<<気>>を散らせながら、倒れた雷角を見下ろしていた。割れた鬼面、その身体には、矢尻に炎の朱をかたどった矢が、数本刺さっている。
 突然小爆発があちこちで起こり始めた。ジルの仕掛けが作動し始めたようだ。
慌てて逃げようとしたとき、絶命したと思われていた雷角が笑い出した。
「美里 葵───そ…うか、お前が…」
驚いて立ち止まる美里に奇妙なことを告げ、雷角は崩れ去った。
残された宝珠を拾い上げ、醍醐が退却の号令を発する。
  ───九角様が、お前を待っておるぞ───
不吉な言葉が耳に残ったが、ここは脱出する事が先決である。不安そうな美里を促し、京一達は階段を駆け下りた。

 建物から無事に逃げ出した後、美里がマリィに声をかけるのを聞きながら、京一は先ほどの雷角の言葉の意味を考えていた。
九角、という名前には聞き覚えがある。恐らく鬼道衆の首領と思われる者が、美里にどんな用があると言うのか。
慈悲深いと形容するに相応しい微笑みを、マリィに向けている美里。
傷ついた少女の心を、いとも簡単に開いたのは、その笑顔だったに違いない。
ふと、岩角が「ある女を捜している」と言ったのを思い出した。
 …まさか…な。
何もかもが謎のままである。憶測ばかりでは解りようもない。
 考えるのを止め、全員が無事であったことを喜ぶことにした京一だったが、全ての謎が明かされる日が近いことは、何とはなしに感じ取っていたのだった。

08/02/1999 Release.