拾弐
之弐

平和への賛歌

ぴかいち様&水城しゅう様に捧ぐ

 新学期が始まって間もない、九月上旬のとある平日。
その事件の火種が蒔かれたのは、春眠どころか一年中暁を覚えない京一が、最も気持ち良く眠れる五時間目の授業中のことだった。

「…という風に、神経細胞に異常がある場合…」
 ふいに、講義が中断した。
壇上の生物教師は、普段通りの飄々とした態度を崩さぬまま、スルリと教室を出て行ってしまったのだ。
その行動があまりに自然に行われたため、3−Cの生徒達は声もなく、ただその突飛な行動をどう捉えていいか判らず、ぼんやりと教壇を見つめるばかりであった。
 まだ、正規の終了時間まで30分はある。
ようやく我に返った皆が、隣同士でヒソヒソと会話を交わし始めたとき、ごくさり気なく犬神は戻ってきた…出ていった時と同様に。
 そしてスタスタと窓際後方の席へと近づくと、手にしていた、水の入ったカップを無造作にひっくり返したのだ。
一人の生徒の頭の上で。

「んぎゃわわわッ!?」
 悲鳴と同時に、京一は1mほど垂直に飛び上がり、机に立てかけるようにして置いてある木刀の入った袱紗を咄嗟に掴んで構え…ようとして、目の前の宿敵に気付いた。
……!? い、犬神ッ…」
「夏休みボケが長いようだからな。顔を洗いに行く手間を省いてやったんだ、有り難く思えよ。」
事も無げにそう言うと、犬神はそのまま教壇へと戻って行く。そしてサラリと言った。
「…今の例を見て分かるように、皮膚感覚というのは睡眠中でも普通鋭敏に働くものだ。」
ドッと教室が沸く。
「…てッてめェッ…オレは実験台か!?」
京一が声を荒げると、益々笑いが広がった。級友たちの妙な揶揄が飛ぶ。
「良かったなー、蓬莱寺。健康なんだってさ。」
「ストレスなさそうだもんねー。」
「…何だよそりゃァ!?」
「解らんのは、お前が授業を聴いていないからだ。しっかりやらんと、本当に留年するぞ。俺にもう一年面倒を見て欲しいのか?」
「じょッ、冗談じゃねェよッ!!」
 漫才のような二人のやり取りに、生徒達はクスクス笑い続けている。
「…ッたくよォ…冗談じゃねェぜ。心臓止まったらどーしてくれるんだッ。」
「心臓に毛が生えているようだからな…。冷気攻撃には強かろう。つまらん心配はいいから、教科書くらい開け。」
完全にやり込められた形で、京一は席に渋々座り直した。
「チックショオ、何で俺だけ…」
勿論、京一だけが堂々と居眠りしていたせいだが、その事件は、京一の犬神への恨みを更に増幅させたのだった。

「…全く、生徒の命を何だと思ってやがんだ、アイツ。」
 時間が経つにつれ、どんどん大仰になる恨み言を呟きつつ、京一はトイレの外にある水飲み場で顔を洗った。
ハンカチなどという上品なものを使う発想は勿論ない。開襟シャツをたくし上げ、腹の辺りの部分で、ガシガシと顔を拭く。
たまたま通りかかったクラスメートの女子が、吹き出しながら声をかけた。
「もー、やァね京一くん。」
「へへへッ…じゃあ、ハンカチ貸してくれよッ。」
「やァよー! アハハハッ。」
ヘヘッ、とまた笑って、彼女の後ろに続いて教室へ戻ろうとした時だった。
3−Bの教室から犬神が出てくるのが見えた。
咄嗟に意味もなく壁にはりつく。
トイレの前は廊下から少々奥まっていて、そこは犬神からは死角になっている筈だった。
(あのヤロウ…人を殺しかけといて、爽やかに歩いてんじゃねーぞッ。)
もはや完全に訳の分からない思考に陥った京一は、ふいに復讐の術を思いついてしまった。
(どうせ職員室に戻るんだろ。ってコトは、ここの前を通ってそっちの階段に向かうだろ…へへへッ)
 壁に沿って5つほど並ぶ蛇口のうち、一番端の弁を捻って全開にする。
勢い良く流れ出る水流に手を浸しながらタイミングを計る。
犬神の姿が見えたら、すぐさま蛇口を指で塞いで、そっちの方向へ水鉄砲を発射してやろう、というのだった。…まるで小学生である。
(「おーっと、手がすべったぜ! なんだ、丁度通りかかるとはツイてねーな、センセーもよ!」…よし、言い訳も完璧だぜ!)
そんな言い訳が通るわけもないし、何を言っても説教を喰らうことくらい解りそうなものだが…。昼寝の恨みとは恐ろしいものである。
 ひょい、と人影が見えた。
よっしゃッ!
京一は計画を実行した。

……………。」
「あ…………。」
……おい…。」
 一瞬にして、廊下が静まり返った。
何事が起こったのかと見つめる他の生徒達。
片眉を上げて、頭から思いっ切り水を被ってしまった人物を見つめる犬神。
誤爆に気付いてそのまま固まってしまった京一。
 そして───
…………ひ…ひーちゃん…。」
……………。」
髪とシャツから水を滴らせて立ち止まっているのは誰あろう、緋勇龍麻であった。
 驚いているのかいないのか、普段のポーカーフェイスを崩すことなく、じろりと京一の方を睨むと、ぐっしょりと濡れてしまった上半身に目線を落とす。
「…緋勇。大丈夫か?」
思わず───という形容がしっくり来るような、ちょっと慌てた様子で───犬神が声をかけた。
首だけちょっと振り向いて、軽く頷くと、そのまま教室の方へ歩き出す。
「ひ、ひーちゃん、悪リィ! お前狙ったんじゃなかったんだ、俺…」
 焦って言い訳をする京一には構わず、龍麻は歩き続けていたが、ふと、何か思いついたように立ち止まった。
そして何と突然、シャツを脱ぎ出したのだ。
……!!」
 再び固まる廊下の人々。
その視線には全く気付く様子もなく、脱いだシャツを軽く丸めて小脇に抱えると、その均整の取れた上半身を惜しげもなく晒したまま、また歩き出す。
3−Cの教室へと入っていく後ろ姿を、廊下の全員で見送る。
中から聞こえていたざわめきが、一瞬にして静まるのが解った。

北斗に捧げました!

画・サーノ(原画はこちら

 やっと呪縛が解け、京一は慌ててまたその後を追おうとしたが、その肩をガッシと掴んだのは、犬神の手だった。
……で、だ。狙ったのは緋勇じゃなくて、誰だったんだ?」
「…へ? あ…い、いや、俺ちょっと今忙しいからよ…」
「お前には一度、徹底的に話をした方が良さそうだな。」
「げッ…いや〜、え、遠慮しとくぜ! そ、それより早く俺…」
「いいからちょっと来い。」
「ちょ、ちょっと待てよ犬神てめえッ! …ひーちゃん! ひーちゃあああんッ!」
 首根っこをガッシリ掴まれて引き摺られていく京一の悲鳴は、何となく顔を赤くした生徒達がまだヒソヒソと囁きあう廊下に、無駄にこだましただけであった…。

10/13/1999 Release.