怪異

「ねッ。昨日あの後どうなったの!?」
 アン子が目を輝かせつつ質問をする。緋勇は表情も変えずに、ただ首を横に振っている。
(何考えてるのか掴めねェ野郎だな。ポーカーフェイスにも程があるぜ。)
 昨日の一件───佐久間との乱闘───について、語りたくないのか、どうでもいいのか、その表情からは何も解らない。
取材等と言いながら帰路の同行を迫っていたアン子は、自分と京一を交互に見て黙っている緋勇の様子から、迷っていると判断したらしい。余計なことを言いながら、更に食い下がった。
 そこで強引に「緋勇がオレの誘いを断るワケねェだろ」と決めつけながら、また首に腕を絡めて引き寄せてやった。
抵抗はない。だが、制服越しにビクッと身を固くするのが伝わる。
 …やっぱりな。先刻もそうだった。
アン子が呆れて立ち去った後も、京一はそのままの姿勢で適当なことを語りかけた。
緊張に漲る筋肉に、殺気じみた気が徐々に広がっていく。
 ───油断のならねェ奴。
「…へへへッ」
そのくらいの方が面白ェけどな。
 ピリピリとした殺気を触れた腕に感じながら、京一はわざと空いた方の腕も緋勇の首にかけ、負ぶさるような格好を取った。
背後を取られて気にいらねェか。
息を呑み、更に身を固くするのを感じて益々腕に力を込める。
続けたらどこかで爆発するだろうか?
昨日の吹き飛ばされた佐久間の姿を思い出した。

「京一。ちょっと、緋勇を借りていいか。」
 ちッ。つまんねェタイミングで割って入ってきやがるぜ。
仕方なく腕を解くと、緋勇は醍醐に向かって軽く頷いた。
 醍醐がこの男に興味を持つのは当然だ。
昨日の割り込み方の、あのタイミングの良さといい、一瞬だったあの技を、しっかり捉えていた事といい、どうせ最初から様子を見ていたに違いない。
それを指摘すると、醍醐は笑いながらあっさりと認めた。
 昨日の一撃だけでは良く分からなかったし、この二人の闘いは相当面白そうだ。
緋勇の実力がはっきり分かるだろう…と考え、京一もレスリング部の部室まで付いていくことにした。

 物見遊山で、ロープに肩肘を付きながら、マットの中で対峙する二人を眺める。
「行くぞ!」
醍醐が吼えると、おそらく古武道とやらの流儀なのだろう、両脇に拳を引き下げながら浅く、しかし長めに礼をして、緋勇も戦闘態勢に入った。
 殆ど自然に立った状態。僅かに腰を落とし、左足を少し引いてある。
合気道に近いのかな、と京一が首を捻った次の瞬間。

 素早さに関しては自負があった。俺に敵うものはそうそう居ないと。
だが。
不意をつかれたとはいえ、突然地を蹴って、間合いを計っていたらしい醍醐の脇に回り込んだ緋勇の動きを、捉える事が出来なかった。
「な…」
驚愕して一瞬防御が遅れた醍醐に、容赦ない一撃が放たれる。
左腰の辺りに溜めた両掌が軽く突き出され、衝撃で醍醐が吹き飛んだ。
「…<<気>>…か。」
昨日の佐久間、そして今醍醐を軽々と吹き飛ばしたのはこれだ。
昔、山籠もりをして「師匠」にたたき込まれた<<気>>の力を感じ取る。
目には見えない。だが、確かにそこにある力───
 ロープまで飛ばされ、それでもすぐに立ち上がろうとしていた醍醐に、もう一度同じ構えを向ける。
閉め切られた室内で風がある筈もないのに、緋勇の髪がたなびいた。
一瞬。
強烈な輝きが顕わになる。
熱く激しい光を湛えた黒い輝き。
京一がその瞳に圧倒されている間に、醍醐は倒されていた。

 …桁が…違う。
掌が汗ばむ。鼓動が早い。震える息をようやく吐き出す。
 緋勇は何の感動もない様子で、大の字に倒れた醍醐を見、そして固まってしまっている京一を見やった。
そして、始めたときと同じく浅い「礼」をとると、何事もなかったように立ち去ってしまった。
「…おい、醍醐。生きてるか。」
 ようやく興奮を抑え、醍醐の面を覗くように屈み込む。
妙に満足気な男の顔が、そこには在った。
自分の動揺を悟られないよう、わざとなじるような台詞を口にしても、気にならないようだ。
「どうだ、お前も…」
 闘ってみるか、と醍醐が問う。
冗談だろ、俺は見物で充分だとうそぶく。
<<気>>を溜め、高め、練り上げ放出するのにどれだけ時間がかかるか。
実戦で無意識に出ることがあっても、意識的に、あれ程素早く連続して撃ち出すなど俺には出来ない。
力、実力の差などというレベルを超えた全く異なる世界を見せつけられ、いっそ小気味良い程だ。
「久しぶりに…いい気分だ」
醍醐が嬉しそうに呟く。不本意ではあったが、分かる気がした。
 久々に…本当に久々に、気恥ずかしくなるような想いが強まる。
強くなりたい。アイツに匹敵するくらいに。
熱血なんてガラじゃねェが…。
抗いがたい引力が自分を捉えていることを自覚する。
「上等だ」
 立ち上がる醍醐に手を貸しながら、誰に挑むでもなくそう呟いた。
それが「宿星」と呼ばれる運命の力である事など、今はまだ知らずに───

◆ ◆ ◆

 翌日の放課後、屋上に醍醐を呼び出し、緋勇を誘ってラーメン屋にでも行く事を提案してみた。
「アイツが良ければ、な。」
と醍醐は苦笑した。
「相手にされていないかも知れん。」
 確かにな。
冷ややかなまでに感情を映さない顔。
突き放すような短い言葉。
目を決して合わせないのは、眼中にないという事か。
「あれは…、『合気』の気と同じようなものか?」
「…さァな。」
適当に相づちを打つ。
「物凄い衝撃だった。…だが、俺はあの時、清々しいような…清浄な何かを感じたんだ。」
一瞬見せた苛烈な目の光を思い出した。憎悪でも激怒でもない、激しい色を。
「憎しみとか、そういった感情と違う拳…すまん、上手く言えんな。」
「…何となく分かるぜ、大将。」

 しかし教室に戻ると、既に緋勇の姿はなかった。
「しまったな。話し込んでいる間に帰ってしまったか。」
机をみると、鞄もない。
「なに? 京一、緋勇クンに用なの? さっきマリアセンセに呼ばれて職員室行ったみたいだよ。」
振り向くと、小蒔だった。
「そっか。んじゃあ間に合うか。校門ででも待ってようぜ。」
「そうだな。俺はちょっと部室に顔を出して行くから捕まえといてくれ。…済まんな桜井。」
「ううん、たまたま聞いてたからね。それより京一、緋勇クン連れてどっか行くの? あんなカッコイイ人にバカ移すようなマネしないよーに! クラス中の女子を敵に回しちゃうからねッ」
「うるせェなッ」
 どうして俺の周りの女どもは、こう一言多いのばっかりなんだ。
お前と緋勇を足して2で割ったら丁度良さそうだな。
 そう言ってやろうと思った時には、小蒔はさっさと教室を飛び出していた。

 校門の上にひょいと飛び乗って、緋勇が出てくるのを待つ。
程なくして、生徒用昇降口から出てくる姿を捉えた。
そのまま、ゆっくり近づいてくる緋勇を観察する。
 何で歩くだけでこんなキレイかな。
男相手に綺麗もないが、すっきりと背筋を伸ばし、流れるような所作でゆったりと歩いてくる様は、そうとしか表現出来ない美と緊張感がある。
これも古武道とやらで身に付いたものなのか。
 そんな事を考えながら、京一は緋勇の前にひらりと飛び降りて声をかけた。
「よう。お前のこと探してたんだぜ。どうだ。一緒に帰らねェか。」
 一瞬、伏せられ続けていた目を上げる。視線がぶつかり、強い光が双眸から放たれる。
だがそれは、気のせいかと思える程短い時間だった。
 視線を外すと、緋勇は首をブンブンと大きく縦に振った。
仏頂面さえ見なければ、子供染みているとさえ感じられる仕草。
(…う〜ん。これって、カワイイ…のか?)
思わず困惑してしまう。
 その後醍醐がやって来ても、緋勇は顔色一つ変えず、躊躇うことなく右手を差し出した。
流石の醍醐も面食らっていたが、すぐ吹っ切ったらしく、差し出された手をガシッと握った。
しっかりと力強く握り返す緋勇の手と、特に何の表情も浮かべていない顔とを見比べ、困惑は更に深まったが、京一は「ま、そういう奴なんだろ」と、深く考えるのを止めた。

 何故か乱入してきた小蒔も含め、4人で京一の行きつけのラーメン屋に入った。
小蒔の奴「緋勇にバカを移さないよう」に、見張りにでも来やがったのか?
まあ、単に食い意地が張ってるだけかもな。こいつの単細胞なアタマからするとよ。
 自分を棚に上げてそんな事を考えつつ、旧校舎の幽霊話などで盛り上がる。
我関せずといった風の緋勇は相変わらず背筋をピンと伸ばしたままで、器用にラーメンを啜っていた。
「旨いだろ?」
「…ああ。」
スープまで残さず啜っているところを見ると、実際旨いとは思っているらしい。
 何故こんなに表情に出さないのだろう。
無関心なのか、それとも心が動く程の事が起きていないというのか。
(なんかこう、泣いたツラとかビックリしたツラとか拝んでみてェよな)
小学生のガキ大将みたいなこと考えてるな、と自分に苦笑した時、アン子が飛び込んで来た。

 美里が危ない───

最初に立ち上がったのは醍醐だった。
「お前も来てくれ。」
緋勇は黙ったまま小銭をカウンターに置くと、醍醐に一つ頷いて見せた。
 美里の身は心配だが、それ以上に、何かが起こることへの期待感が京一の心を躍らせた。

「…何だよ、こりゃァ!?」
 薄暗い室内に光る、無数の赤い光。
どう見ても普通とはいえない、巨大コウモリどもの眼だ。
 美里とアン子を逃がし、木刀を袱紗から取り出す。だが掌が汗ばみ、構えが収まらない。
醍醐も呆然とした様子で立ち尽くしている。
無理を言って残った小蒔が気丈にも弓を構えていたが、吐き出す息の震えが伝わってくる。
 一人、動揺する素振りも見せない緋勇が、無造作に一歩踏み出すと、待ち構えていたように一斉に赤い目が襲いかかってきた。
「緋勇! 下がれ!」
だが緋勇は京一の警告には耳も貸さず、顔を目掛けて突撃してきた敵に拳を繰り出すと、そのまま床に叩きつけた。
 その所作に吹っ切れたのか、気勢を上げて醍醐が鋭いキックを叩き込む。
小蒔の弓が鳴り、遠くの赤い光が小さな悲鳴をあげて消える。
 京一は自分を目掛けて飛来した連中に突きを食らわせて、最も敵が密集している緋勇の元へと走った。
いくら奴が強くとも、あの数と早さには耐え切れないのでは───
「…危ねェッ!」
 一瞬遅かった。
横から突進してきたコウモリを避けられず、緋勇が少しよろけたのだ。
だが、すぐに何事もなかったように攻撃を続けている。
 大した事はなかったようだなと、脇に立って同じく木刀を振るおうとした京一の顔に、何か液状のものが飛んできた。
(げッ。コウモリの血か!?)
拭った手についた、どす黒く見える赤。
嫌な予感がして緋勇を振り返ると、その右腕が制服ごとぱっくりと裂けているのが見えた。
─────ッ!!」
 技を振るう度、少なくはない血が周りに飛び散る。

 ………痛みを、感じないのか!?

 ぞっとして、思わずその肩を掴んだ。
「おいッ───
緋勇が振り向く。
………!」

 その顔には珠のような汗が滲んでいた。
表情は変わらないが、唇が微かに震えている。肩が大きく上下して、呼吸がかなり乱れているのが分かった。
 感じないわけがない。我慢していたのだ。
ズキンと胸が痛んだ。
(な…なんで俺が罪悪感持たなきゃいけねェんだよ!)
だが、いつもの無表情も。冷ややかなまでに少ない言葉も。避けられた視線も。
何かを…堪えて…?

 ふいに、白い影がふわりと横切った。
何とさっき逃がした筈の美里だった。
「緋勇くん!」
そう叫ぶと、その右腕を取って両手をかざす。
みるみるうちに、骨まで見えていた傷が塞がっていく。
(ウソだろ…SFじゃあるまいし。美里お前、そんなコトが出来るのか!?)
 ほんの数秒後、ある程度塞がったのを見て緋勇が美里を押しとどめた。
「すまん」と言い残して残りの敵に飛び込んでいく。
美里を狙って飛んでくるコウモリを叩き落とした京一は、先刻の、何か分かりかけて消えた想いについて考えるのをやめ、とりあえず全部倒してからだとばかりに、緋勇の後に続いた。

 最後の大コウモリをしとめた醍醐が、屈み込んで未だ痙攣しているそれを調べている。
「何だ、これは…」
うえ〜と言いながら、後ろから小蒔も覗き込んでいる。
緋勇は大人しく美里の「治療」を受けていた。
 見ると、裂傷の跡は殆ど消え去っている。
「凄ェな、美里。こんな技持ってたのかよ、お前。」
「…え、いえ…。…何故かしら…」
どうやら美里も、何故こんな事が出来るのか分からないといった様子だ。
「でも、緋勇くんたちが無事で良かった。」
吹っ切るように緋勇を振り返る。
「…ありがとう。」
呟いた緋勇に向かって、美里はニッコリと微笑んだ。
「ううん。私にも役に立てることがあって嬉しいわ。」
だが、その聖女の微笑みにも何ら反応することなく、緋勇はくるりと踵を返すと醍醐達の方へ歩み去ってしまった。
その様子を、少し寂しげに見つめる美里。
(だーもう! どうして気付かねェんだよ!)
「おい、とにかく出ようぜ、またこんなのが襲ってこないとも限んねェしよ。」
何やら気不味くて、つい大声を張り上げた、その時だった。
「ああ、そうし…!? な…に??」

 突然。
微かな鈴の音と、海鳴りに似た胸の悪くなるような地響きが、耳に飛び込む。
そして、二つのうねりの間から。
直接耳に聞こえる音とはまるで異なる、人の声とも思われぬ「声」が響いた。
─────目醒めよ」
激しい異物感と高揚感。奇妙な音のうねりに圧迫される。
 何とか目を開くと、全員が仄かに発光していた。先ほど発見されたときの美里のように。
(くっ。一体…何が…。)
頭の中も身体の中も、何かが駆け巡り、走り散らし、境界線がなくなっていく。
床も天井も、何もかも分からなくなって、京一は意識を手放した。

 気付くと、旧校舎の外にいた。
呆然と互いの顔を見比べる。理解し難い一連の出来事に、全員あっけに取られていた。
 一体今のは何だったのか。
異常なコウモリ。美里の<<力>>。奇妙な声。
どれも理屈を付けるには常軌を逸した事象ばかりである。
身体のどこにも異常は感じない。先程の出来事が単なる夢であったかのようにさえ思える、その事自体が異様だった。
 ───何かが始まっているのだ。日常とは違う何かが。
何一つ解ってはいないが、気持ちが高揚するのを抑えられない。
「…まあ、いいじゃねェか。美里も無事だったんだしよ」
「そうそう! 安心したら、お腹減っちゃったよ。」
小蒔が乗ってくる。見やると顔色が悪いのに気付く。
(コイツなりに気を遣ってんだ。そーゆうトコは良い奴なんだよな。)
醍醐も美里も、やっとホッとしたように笑った。
緋勇は相変わらず何事もなかったような顔で京一達を見ていた。

 今は考えても仕方がない。全てはこれからなのだ…。
漠然とした不安と期待とを胸の内にしまい込み、京一は旧校舎に背を向けた。

05/22/1999 Release.