変生・前編

 終わってみれば、ひどく忙しい休暇だったように思える。
バイトの合間に、龍麻の部屋に行ったり遊びに連れ出したりした。特に、補習が終わってからの十日間ほどは、宿題を一緒にやるという名目で入り浸りだった。専ら龍麻のノートを写しただけではあったが。
 雨紋やアランがちょくちょく遊びに来たり、如月から頻繁に電話が入ったりするのを知って苛立ちつつも、これだけ賑やかなら、独りにしてしまう心配は要らないか…と少しホッとする。
 学校さえ始まってしまえば、無理に時間を割かなくても龍麻の様子を見ていられる。生まれてこの方、これほど新学期を待ち望んだことはなかった。

 ところが。
始業式から数週間が過ぎると、龍麻の様子が少し違うことに気付いた。
どこがどう、とは言えないが、一学期の頃より距離を置かれているような、どこか余所余所しさを感じるのである。
 ある時、いつも通り五人で帰ろうとしていたのに、ふと気付くと龍麻がいなくなっていた。
慌てて教室に戻ってみると、自分の机に戻ってぼんやり座っている。早く帰ろうと声をかけたら、微かに「済まん」と囁いた。その時のことがひどく気になって仕方がない。
何か気がかりでもあるのだろうか。
一つ、理解できたと思うと、また一つ分からなくなる。もどかしくて堪らない。

 以前と違うことは、もう一つあった。
「葵ッ、あーおーいーッ!!」
これから練習試合だと言って張り切っている小蒔。
その左腰に下げた御守りを時折撫でているのはとうに気付いていたし、それが元々誰のものであったかも覚えていた。
わざと訊いてみると、あっけらかんとした答が返ってくる。
「醍醐クンに借りたんだ。」
(…少しは照れるとか、隠すとかねェのかよ。こりゃあ、まだまだ先が長そうだぜ…)
思った通り、醍醐の方が赤くなって冷や汗をかいているので、揶揄混じりに声をかけた。全く、この二人は放っておいたらいつまでたっても進展しそうもない。
 呆れつつ、半ば無意識に振り向いて、京一はまた龍麻の不可解な行動を目の当たりにした。
龍麻はこのところ、じっと京一達を見つめていることが多くなった。何を見ているのか解らないが、それ自体は不快なことではない。しかし、振り向くと眼を逸らすのが、解せなかった。
一時期、はっきりと視線をぶつけてきていたのが嘘のようだ。だいぶ近づいたと思っていたのに、どうしてまた距離をおかれなくてはならないのか。
関わってはいけないとでも言うような龍麻の態度が、益々京一を混乱させた。

「へへ。小蒔のヤツが勝つか負けるか、賭けねェ?」
 ゆきみヶ原高校に向かう道すがら、いつものように軽口を叩くと、龍麻は京一を横目で見ながら首を横に振り、そして醍醐の方に視線を飛ばした。醍醐に聞こえるだろう、とでも言いたげに。
 …そうか、あの二人に気を遣っているのか。
納得しかけて、それだけじゃないことにすぐ気付く。もしそうなら、京一や美里とまで距離をおく必要はないのだ。では、一体何があるのだろう。
 京一が口を閉ざすと、ふいにその龍麻が前方の醍醐を呼んだ。立ち止まり、脇に並ぶのを待って、醍醐が何用かと尋ねる。狭い歩道だったので、必然的に京一は前に出て、美里と並ぶ形で歩き出した。
…………
聞き耳を立てても、話し出す気配がない。
「…京一くん。気付いているわよね。」
 ふいに、美里が前を向いたまま声をかけてきた。眉を顰めた横顔が美しい。
「…アイツのことか。」
後ろに聞こえないように京一も囁き返す。頷いた美里が、京一を仰ぎ見た。
彼女も全く同じ事を悩んでいたのだろう。
プールで笑顔を見せてくれた龍麻に、心から喜んでいた美里。ここに来て、急に転校当初に戻ったようなぎこちない態度をとられ、どれ程傷ついたことか。
「…休み中は、普通だったぜ。二学期が始まった途端、だ。」
「何か…あったのかしら。私達では、力になれないのかしら…。」
後ろから、龍麻の声が聞こえてきた。
「何でも…ない。」
何か醍醐に言うべきことがあったのだろうが、結局その言葉は飲み込まれてしまったようだ。
(何でもないワケねェじゃねえかッ。どうしてまた一人で抱え込んでるんだよ!)
 思わず振り向くと、龍麻は首ごと背けるようにして俯いた。その唇が微かに動く。
…済まん。…
 何故詫びるのか。何を詫びているのか。
不安が膨れ上がり、吐き気すらしてくる。

 ゆきみヶ原高前に着いたが、小蒔の地図を見ても、弓道場がどこなのか分からない。
いつもの癖で、龍麻にどうするか訊いてしまった。
「…先に行け。」
何故? お前はどうする? 一人でここに残るとでも言うのか。
(…一体何が気に入らねェんだッ!!)
思わず、そう口に出しかけたとき、校門の向こうから声がかかった。
「人のガッコの前でなに騒いでやがんだよッ。」
 気性の激しさを具現化したような女だった。
ぞんざいな男言葉と無造作に束ねられた髪。手にした長物が、更に(かつ)えた雰囲気を醸し出す。女のくせに、いっぱしの武道家を気取ったようで、あまり京一の好みではない。
美里のお陰で事なきを得、弓道場を見つけた後も、龍麻への不満と併せて苛々が募るばかりだった。

 惜しくも敗退した小蒔は、それほど悔しそうでもなく、いつも通り明るく振る舞いながら戻って来た。負けることより、人に気を遣わせることを厭う。小蒔はそういう女だった。
更には、対戦相手がライバル兼友人というせいもあろうか。男が拳をつき合わせて得る友情と同じものを、小蒔と織部雛乃も育んでいるらしい。そういった意味では雛乃も、見掛けより捌けた女なのかも知れなかった。
しかも、先ほど校門で出会った女が雛乃の姉、雪乃であったと知って舌を巻く。
正に雛人形のような美しさとあどけなさを持つ雛乃。厳しい眼光を容赦なく飛ばす雪乃。
双子どころか、普通の姉妹としても似ていない、と肩を竦めた。
「よろしければ、これからウチの方へ遊びにいらっしゃいませんか?」
可憐な微笑みをうかべ、雛乃が誘うが、ジョーダンじゃねェ、と雪乃が険阻に吐き捨てる。
だが。
「…そう言うな、頼む。」
その言葉に驚いたのは京一だけではなかっただろう。美里も、もしかしたら醍醐と小蒔も気付いていたかも知れない。このところ仲間を避けているのかと思われるような龍麻の様子からすると、信じられないような発言だった。
 このオトコオンナを気に入ったのか? それとも、雛乃の方か。
毒気を抜かれたのか、舌打ちしつつ顔を背けた雪乃を見ながら、違う可能性にも気付いた。
───彼女たちも「仲間」なのだろうか───

 その疑念が強くなったのは、神社に着いたときだ。
織部神社を調べている途中の絵莉に逢ったのだ。彼女が動いているということは、鬼道衆絡みの何かがある可能性が高い。
気を引き締めねェとな、と思いつつ、境内へと進んだ。
 普段、神社や寺などと縁のない生活をしている京一でも、織部神社の雰囲気には森厳なものを感じ取れた。 口にしては「ボロい」などと悪態をつきながら、簡素で落ち着いた空気に嘆息する。
奧の住居に通され、座卓の周りに各々陣取った。
雛乃の入れてくれた茶を啜りながら、姿勢正しき隣人を見やる。しかしその表情からは、やはり何も分からない。
「仲間」だとして、どう話をもっていくつもりなのか。
そんな詮索をする前に、小蒔が謝りだした。この<<力>>について、巫女である雛乃なら何か解るかと思い、相談していたのだという。
やはり何でもないように見せながら、心の内で悩んでいたのだろう。勝手に他人に話したとて、責める気にはなれなかった。
 雛乃の話は大体次のようなものだった。
「龍脈」───大地のエネルギーのようなものが存在し、今正に活性化している。その力が我々のような<<力>>を持つ者や、鬼道衆を目覚めさせている。
我々は、世を狂わせんとするその脅威に立ち向かう宿命にある、と。
醍醐が「責任重大だ」などと、重々しく呟いた。
 冗談じゃねェ、責任感などに縛り付けられて闘う必要なんてあるかよ。
そんな得体の知れないものに運命を決められるのは御免だ。
<<力>>を持った責任ではない。護りたいから護る。自分の生まれ育った街を、くだらない連中の好きにさせるのは面白くない、闘う理由はそれだけで充分だ。
…そうだろ? 龍麻。
 ふいに、座卓に頬杖をついて何やらじっと龍麻を観察していた雪乃が、スカートだというのに胡座をかいた膝をポン、と叩いて言った。
「決めたぜ、雛ッ。オレはこいつらについていく。」
驚いて全員が雪乃に注目する。
「オレは…緋勇、お前が気にいったんだ。オレも連れてきな。」
ちらりと京一を横目で見ながら「こんな木刀野郎より役立つぜ」などとうそぶく。しかし京一が言い返す前に、龍麻は雪乃に右手を差し出した。
「よろしく頼む。」
ニッ、という表現がぴたりと当てはまる笑顔を浮かべ、雪乃は元気良く握手に応えたのだった。
 それだけではない。
妹の雛乃までもがついて来ると言い出したのである。
いくら何でも、こんな深窓の令嬢を闘わせはしないだろうと京一は思ったのだが、龍麻はあっさり彼女をも受け入れてしまった。
姉の雪乃も、弱り果てた顔をしつつ「言い出したらきかねェからな…」などと呟いている。先ほどからの彼女達のやりとりからすると、意外に主導権を握っているのは雛乃の方らしかった。

 やはり、龍麻は最初から彼女たちの持つ<<力>>に気付いていたのだ。
雛乃の話が正しいならば、我々は龍脈によって<<力>>を得た。そしてそうした人間が必ずしも正しい方向へ進むわけではない。突然得た<<力>>に振り回され、間違った方向に使ったり鬼道衆に魅入られたりする。嵯峨野や藤咲などは前者、凶津が後者だったと思われた。だとすれば、<<力>>を持ったまま、どうしていいか分からずにいる人間を放っておくわけにはいかない。
<<力>>を持つ人間を見分けられるらしい龍麻が、積極的に仲間を増やすのは、そのことを知っているからなのかも知れない。
 だが、龍麻にとって増えるのは「仲間」であって、「友」ではないのだ───
嬉しそうに微笑う織部姉妹が見つめる先の、冷たい顔。
所詮俺達も、「闘うための駒」ってことか…?
 京一は、慌ててその考えをうち消した。
違う。そんなわけはない。
戦闘中の冷徹な指示を思い出す。違う、龍麻がいなければ死んでいた仲間もいた筈だ。
プールで、江戸川で見せた笑みは、誰よりも優しく、温かだったじゃないか。
だが、それ以外で彼の心に触れたと思われる出来事はない。
最近の余所余所しさは…必要以上に馴れ合ってしまった自分を戒めている、のだとしたら。
 冷水を浴びた気分だった。
今までの事は自分の思いこみに過ぎないのだろうか。
心の中では、京一達を大切に想い、護ろうとしていると信じてきた。それも幻影だったのだろうか。
次々浮かぶ疑念を止められない。止められるほど、龍麻を知らない。
夏休みの騒ぎも、中心にいる龍麻は常に一人冷静で、見ようによっては、自分達のことなど眼中にないかのようだったじゃないか。
膝が震える。違う、違う。否定しても止まない。落ち着け、何も分かっていないのに。
そうだ。何も分かっていないから不安なのだ。勝手に邪推して、一喜一憂している。
 …まるで、恋だな。
京一は自嘲した。
そういえば、今日も一日中龍麻のことばかり考えている。少し頭を冷やした方が良さそうだ。

 新宿駅まで戻って来ると、女性陣は真っ直ぐ帰るというので三人でいつものラーメン屋へと寄る。
「いや〜、腹減ったなァ。」
「そうだな、結構遅くなったしな。」
とりとめのない話を醍醐としながら龍麻を見ると、時折頷きながら、二人の話を聞いている。遠ざけようとする感じは、今は全くない。
京一は、思い切って龍麻を見つめながら話しかけてみた。
「…しっかし、雛乃ちゃんて可愛いよなあ。雪乃の方は小蒔に輪をかけて憎たらしいけどよ、全然似てなくて、おじょーさまって感じで、いいと思わねェ? ひーちゃん。」
くだらない、とばかりに無視されるか、適当に相槌を打たれるか、試すつもりだったのだ。
 しかし返ってきたのは、予想外の反応だった。
「馬鹿を言うな。」
キッパリと、その眼に少し怒りの色さえ覗かせて、龍麻は否定した。
「…女は、生涯一人で充分だろう。」
あッ、と声が上がりそうになるのをかろうじて抑える。
そうだったのか。
あらゆる辻褄が合っていく。そうか、そういうことか───

 外に出ると、声をかけようとしたのを振り切るように、龍麻は去っていってしまった。
先ほどのことに触れられたくないのだろう。
「…おい、京一。」
ただならぬ龍麻の様子に、醍醐も不安を感じたらしい。
………ああ。なんとなく、分かってきたぜ…。」
最近の態度は、よくよく考えてみれば自分と二人きりのとき、醍醐と三人のときには全く見せないものだった。
「どういうことだ?」
「…ま、オレの推測に過ぎねェけどな。」
 龍麻は恐らく、美里に好意を抱き始めているのだ。 だが、龍麻が気にしているのは恐らく比良坂紗夜───もしくは彼女に似ているらしい、過去の女。
先ほどの台詞が重くのしかかる。自分はもう恋などしない、そう言いたげな言葉が。
醍醐と小蒔に気遣いながら、自分の想いにも蓋をしようとしていた。それなら、あの五人でいるときとの態度の違いも説明が付く。
 思いついてみれば当然のことのような気がした。美里は容姿も性格も申し分ない才女だ。あまりにも完璧で、京一などにしてみれば恋愛対象になど考えるのもバチが当たりそうだが、その彼女がこれ程想ってくれているのに気付かぬ筈がなかった。
きっかけは、アランの出現だったろう。
誰もが憧れる美里ではあったが、実際ストレートにアタックしてくる無謀な男もそうはいない。本人の意識していない部分で、その完璧さのあまり、薄くヴェールがひかれているような雰囲気があるからだ。
しかし、あの遠慮を知らないメキシカンの積極的な態度で、自分の気持ちに気付かされたのではないだろうか。アランに「葵をくれ」と言われ、普通なら止めるのが自然なのに、肯定していた龍麻の不審な態度も、想いを忘れようとしてのことなら理解できる。
「…そうか。まあ…一番龍麻の近くにいるお前が言うなら、そうなのかも知れんが…。お前、それでいいのか?」
………何がだ? そりゃ、ひーちゃんと美里がくっつけば大騒ぎだろうけどよ。モテッかんな二人とも。でもよ、美男美女で絵になるじゃねェか。納得いくカップルだろ?」
………そ、そうか…。そうだな。うむ。その方がいいな、お前にとっても龍麻にとっても。」
醍醐は複雑な顔をしながら、何故か京一を慰めた。
「よし、俺は酒など嗜まん主義だが、今日は自棄酒でも何でも付き合ってやろう。」
などと言って京一の肩をバシッと叩く。意味は分からなかったが、親友の心遣いが嬉しい。
「何だかよく分からねェけどよ、ま、ひーちゃんの恋愛成就を祈って乾杯といくか。」
「京一、やはりお前はいい奴なんだなあ…。」
醍醐の言動は意味不明なままではあったが、とりあえず京一は醍醐の背中をポンと叩いて歩き出した。
(ひーちゃん、辛いのは分かるけど、美里をちゃんと正面から受け止めてやれよ。そうじゃなきゃ、お前が忘れられないでいる女だって、浮かばれない。それを必ず、俺が教えてやるからな…。)

 翌日は、醍醐が紹介したいという人物の家を訪れた。
新宿のどこにこんな場所が、と思うほどの見事な竹林に囲まれた屋敷へと足を踏み入れる。
庵、という言葉がよく似合うその邸宅は、古色蒼然とした、如何にも「白蛾翁」という通り名の人物が住まいそうな住居だった。
 白蛾翁───新井龍山は、穏やかな印象と人を和ませる雰囲気を持った老人である。しかし時折見せる眼の輝きは、成る程醍醐に師匠と呼ばわせる人物らしい。
しかし、その龍山が美里の顔を覗き込み、一瞬眉を顰めたのを京一は見逃さなかった。
龍麻の名を呼び、眼を細めた瞬間も。
このジジイ、何か知ってやがるな。
 龍麻はそんな老人の様子に気付く風でもなく、囲炉裏の前に腰を落ち着けている彼に向かい、スッと正座した。手を膝の前につき、辞儀をする。その美しい所作には、どうしても目を奪われてしまう。
「ふん。それなりの礼儀はわきまえておるか」と言いながら、老人の眼の光が和らぐのが見えた。
 ───(えにし)とは不思議なものよ───
老人の言葉が、何故か耳に残った。

 龍山は昨日雛乃が話した風水や龍脈の説明をしている。京一にとって、既に原因などはどうでも良かったので、殆ど聞いていない。そんなことよりも、妙に訳知り顔のこの老人が知っているらしい、美里と龍麻に関する話を聞きたかったのだが。
 鬼道五人衆を斃した際に出現した宝珠は、東京各地にある不動尊に封印すると良い。龍山はそう言って、醍醐が手渡したそれを、帰り際に龍麻へと返した。
その際「また、ここに来る事があれば、お主には話しておきたい事がある。」と龍山が声をかけるのが聞こえた。
やはりそうだったのか。ジジイめ、何を勿体ぶってやがるんだ。
 龍麻も訝しんだのか、微かに眉を寄せて「あの…」と言い差した。それをどう捉えたか、龍山は、今は語れぬとばかりに立ち上がる。代わりに何か持たされたようだが、龍麻も納得がいかないらしく、外へ出ても何度も龍山邸を振り返っていた。

 明日早速、目白不動へ行くことを約束し、全員と別れる。
多くの謎が少しずつ解かれ始めているのを感じた。一つずつ片づけないと、疑惑の渦に巻き込まれる。
まずは、珠を封印してから考えよう。龍麻のことも、美里のことも。龍山のことも───
これらがいずれ一本の線に繋がることを予感しながらも、京一は帰途についた。

 だが、翌日から待っていたのは、更なる謎と新たな悲劇であることを、京一は知る術もなかったのである。

07/06/1999 Release.