熱砂ノ午

箱根

 あつはなつい。・・・ベタだ、ベタすぎる。
 マンションを出てからまっすぐ真神学園を目指して、約十分。道のりで言うなら半分しか来ていないはずなのに、心漫才は絶不調。脳裏には「暑い」という二文字のみが明朝体から勘亭流まで様々な字体で乱舞している今日この頃、皆様いかがおすごしですか。
 ようやく思い浮かんだネタがこの始末・・・こんなんじゃ夏、乗り越えていけない(泣)。
 
そうなのだ。今日は七月二十日、世間様は海の日で、高校生以下は夏休み、高校生以上も全国的に祭日休みのはずの今日、オレはなぜか、昨日終業式を迎えたはずの学校へ向かっている。
 都庁を見上げる真神学園へと続く道は、普段ならビジネスマンやOLのお姉さんでごったがえしているんだけど、さすがに今日は、正午に近いのも手伝って人っ子一人見当たらない。
 ほぼ風はなく、ここの所まるで雨が振ってくれないせいか、乾燥しきったアスファルトが降り注ぐ直射日光を受けて、雪焼け並にオレの視覚を奪っている。霞む視界の中、聞こえるのは俺の足音だけ・・・って、何か嫌だ!!
 中学三年間、「あいつの通った後は雑草も生えない」って、登下校中半径十メートル以内に誰かいてくれた記憶ないんだよね・・・あの時もこんな風に、ざっしゅ、ざっしゅ、ざっしゅって足音だけが耳に木霊して・・・しくしく。
 暑い上に、そんな過去までがぐるぐるしてきて、オレはふと来た道を振り返った。
 せっかく今日は、夏休み初日ってことで布団干しや大掃除に精出してたのに。京一が遊びに来るっていうから、特製冷麺作ろうと思ってたのに。高三の特権で、宿題ナッシングな夏休みを満喫しようと思ってたのに。チョット聞いてよ!生○話見放題なのにっ・・・って見とるんかい。
 オレが何かしましたか、犬神先生!!
 ・・・そうなのだ。犬神先生が、「ちょっと学校まで来い」なんていきなり電話寄越すから、オレはこの夏真っ盛りに制服着込んで、学校行くはめになったんだー!!
 だいたい担任でもないのに、なんで犬神先生がオレんちの電話番号知ってるんだ!?
 そして何の用事なんだ!?オレ確かに補習は受けたけど、生物はセーフだったよね!?それとも期末試験で「すまん、前の奴と点数つけ間違えて、本当はお前赤点なんだ」なんて言われたりするわけ!?
 電話を切った直後のパニックが再び去来して、オレはいよいよ肩を落とした。すると、足元の影までが「オレ、へこんでまーす」ってポーズでゆらゆらと揺れて、強すぎる日射しに霞んでしまっている。
 ・・・・・・早く行かなきゃ。学校にたどり着くまでに、日干しになっちゃいそうだ。

 ようやく着いて、正門をくぐる。門は開いていて、グランドからは運動部のらしい大勢の声が聞こえてきた。
こんなに暑いのに、日射病とかにならないのかな?
 そんなことを考えながら、校舎に入る。職員室に向かおうとすると、昇降口を出た所で、
「あれ、緋勇じゃん。どうしたんだ?」
練習から戻ってきたらしい野球部員の一人が、声をかけてきた。
確か同じクラスの・・・原田だっけ?名前、覚えててくれたんだぁ。転入してきてから五ヶ月になるのに、オレ未だに京一や美里たちの他は数えるくらいしか話した人いないんだよね。
 実はさー、犬神先生にいきなり呼び出されて。それより暑いのに大変だな、大会とか近いの?確かもう、甲子園の予選って始まってなかったっけ?
「・・・・・・ああ。」
 フレンドリーなんだよ、野球好きなんだよー、ってアピールするつもりだったのに、口から出てくれたのはそれだけだった。何やねん、「ああ」って!答えにもなっとらんやないけ!!
「・・・そ、そうか。じゃあ、またなっ!」
『失礼しまーっすっ!!!』
 あわてて、野球部の皆さんは行ってしまった。ああ~、待って!オレ、またやっちゃった~!!オレ怖くないよ、皆と同じ青春まっただなか、花の十七歳なんだよ~って十分怪しいやん(びし)。
 多分一年なんだろう、最後の方の何人かが振り向き、こそこそ何か話してる。その顔が耳まで赤いのは何でだろう。ひょっとして、完全に怯えられてる(泣)?


「・・・緋勇・・・、来たか」
 廊下の向うに消えた背番号の群れをじっと見つめたままのオレに、犬神先生が声をかけてきた。職員室の隣にある給湯室へと、白衣を着た長身が翻る。
 給湯室とつながった、四畳半ほどの和室に通されて、犬神先生はコーヒーを入れていた。
・・・ホットですか、先生。
 今、空きっ腹なので、何か胃に入れるならもっとマイルドなものがいいです、先生。お腹の小鳥さんが別の生き物に化けてしまうかも知れないです。「ぎゅるっ、ぎゅごごっ」って叫ぶ生き物にってわかりづらいわ自分。
 どちらも無言のまま、窓の外にセミの鳴き声だけが響く。湯気を立てるマグカップに手を出す気にはなれなくて、煙草の煙越し、犬神先生へと視線を向けた。
 こんなに暑いのに、きっちりと白衣を着込んで涼しい顔をしている犬神先生は、オレに見つめられても平然としている。京一が呼び出されるのに付き合うことはあっても、一対一になったことなんてないから、ちょっとドキドキだ(何でやねん)。
 こうして向き合っているだけで、何となく先生が他の人とは違う、一筋縄じゃ行かないってことがわかる。
 
やっぱり教師歴が長いと、オレのガンつけくらいじゃビクともしないんだろうな~。
 だってすごかったんだろ、八十年代って。リーゼントとか長ランとかゴロゴロしてて、裏番とか闇の生徒会長とか学園四天王とかが、毎日暗躍しまくりだったんだろ?それに比べたら、たかが補習や早弁で呼び出される京一なんで、赤子の手をひねるようなもんなんだろ?
 思わず尊敬のまなざしを向けたオレと目が合い、先生はフッと笑ってくれた。
「フ・・・お前の目はごまかせないということか」
 やっぱりそうなんですか!?生物教師とは仮の姿、その実態は「正義の仮面教師・イヌガミン」!!後楽園球場で僕と握手!!
来週からの新番組予告とテーマソングが高らかに流れる(もちろんオレの内でだけだ)中、犬神先生は懐から何か小さいものを取り出し、オレへと突きつけた。
 ひ、秘密兵器ですかっ!?
「・・・ほれ、コイツがお前を呼んでたぞ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ・・・なんですか、これ?
 茶色くて小さくて、フワフワしてて・・・耳がふたつに目がふたつ、ヒゲが生えてて尻尾があって。
 ・・・猫ですよね?って見てすぐわかるやろ、それくらい。
 犬神先生に掴まれて、苦しそうにジタバタしてるそれは、間違いなく本物の子猫だった。
 茶トラの毛並みに、同じく茶色の目をキラキラさせて、必死で先生の手から逃れようともがいている。爪や牙が当たって痛そうなのに、相変わらず表情も変えないまま、先生は猫を差し上げて見せた。
 ちょっと待って下さい。ってことは、今までその猫、先生の懐にいたんですか?
 全然気づきませんでした!!さすがイヌガミン!!って、そんな場合とちゃうやろ(びし)。
「受け取れ」
 えっ、あのでもオレ、動物とはとことん相性が悪いんですけど。実家にいた犬はもちろん、ご近所の猫でも警戒されて、唸られるわ吠えられるわな思い出しかないんですけど。おまけにそんな気の立ってる子猫なんてってわー!投げるのやめて下さいっ!子猫がコーヒーかぶって火傷するっ!!
 とっさに噛みつかれるのを覚悟で抱きとめた。・・・・・・・良かったー、今放してあげるからねー、オレ怖くないよー。
 ・・・・・・あれ?
 すぐに逃げて行くと思ったのに、子猫はオレのシャツにしっかり爪を立てて、てこでも動かない様子だった。子猫と思ったけど、思ったより大きい。しなやかな、バネみたいな身体がしがみついてくる。
 恐る恐る両手で支えてやると、小さく喉を鳴らすのがわかった。
「やはり、安全な場所はわかっているようだな」
「・・・・・・あの」
 ニヤリと笑って、犬神先生は出ていこうとする。ちょっと待って下さい、オレの住んでるマンション、確かペット駄目でっ・・・じゃなくて、今日の用事って、もしかしてこの猫のことなんですか?
第一、この猫どうしたんですか?
 一気に湧き起こった疑問に、当然ながらオレの口はうまく動いてくれなかった。かろうじて、「どうすれば・・・」とだけが音になって零れる。
 それに振り向いて、先生は一言しか答えてくれなかった。
「お前にしか、こいつは懐かん。面倒を見てやれ」

 午前中で閉まってしまうらしい校舎から追い出されて、オレは途方に暮れてしまっていた。
 犬神先生はあのまま何処かに行ってしまって、詳しいことは何もわからない。コイツの素性どころか、名前も・・・、あ、ひょっとして野良ネコなんだろうか。
 学校に迷い込んだ猫を先生が見つけて、自分が面倒見るわけにも行かずに生徒を呼び出したってとこかな。でもそこでオレを選ぶってのがわからない。
 それに「お前にしか」って・・・「お前には」ならともかく・・・本当に、この子どうしよう。
 あれから結局、猫はオレから離れようとしない。肩に顎を乗せ、器用に尻尾でバランスを取りつつ、ちょうど襟巻きの感じでくるんとオレの首を覆っている。
 小さな頃から、捨て猫とか見つけても絶対触らせてくれなかったんだよねー・・・オレ自身はつい動物王国チェックするくらい動物好きだから、暑いことは暑いけど、すっごい嬉しい。
 耳元の身体を通して、トクントクンと鼓動が聞こえてくる。撫でてやると、その指先をなめられた。オレがこのまま連れ帰ってくれるんだろう、と言うように、「にゃあ」と鳴く。

 ・・・・・・本当に、信頼してくれてるんだな。
 声から伝わった実感が、胸の奥をふわりと包む。それはあっという間に全身に染み渡り、オレをくるんでしまった。
 ・・・わかったよ。オレがお前の面倒を見る。いつまでいてくれるかわからないけど、責任持って可愛がって、大切にする。管理人さんには、ちょっと顔向けできないかもしれないけど。しょうがないよな。
 そうと決まれば、早く帰ろう。京一がもう来てるかも知れないし、お前にもご飯あげないとな。
 校門を出るオレに、ちょうど同じく帰る所だったらしい野球部員の皆さんがぎょっと足を止めた。
今度こそ『怖いヤツ』と思われないように、自分から声をかけてみる。
 結果は・・・うう。皆、顔を真っ赤にして逃げるように去って行ってしまった。やっぱりオレなんかに「頑張れよ」なんて言われたら、気味悪いってか?我ながら緊張して、震えた声しか出なかったし。

 少し風が出てきた道を引き返す。ペット同伴じゃスーパーに入れないから、一度この子を置いてから牛乳とか買出しに行ってこよう。
ひょっとしたら京一、玄関辺りで待ちくたびれてるんじゃないかな。
 急がなくちゃと歩みを速めると、それまでずっとしがみついていた猫が、するりと飛び降りた。身軽にアスファルトへ着地すると、まるで道案内をするように、先に立って歩き出す。
 マンションの前まで来たけど、京一の姿はなかった。管理人室の前をこっそり通り過ぎ、てっきりもう玄関にいるものかと思ったけど、やっぱりいない。その代わりというように、猫がもう座っていて、「早く入れて」と見上げてくる。
 何か、京一に似てるな。ふてくされたような、その表情。鍵を開けてやると、さっさと中に入ってしまう所まで似てる。
 どうしよう、このままスーパー行ってこようかな。
 迷っているうちに、奥から「にゃあ」と呼ばれてしまった。
 ・・・・・・しょうがないか。京一が来たら、事情を話して留守番しててもらおう。

 とりあえず着替えよう。汗かいてる上に、何となく全身が埃っぽい。そう言えば、あいつも結構汚れてたよな。一緒にお風呂入ろうか?
 部屋の奥でもぞもぞやってる猫を抱き上げると、きょとんとしたように鳴き声を上げる。
 可愛いなあ、お前。わかりました、お父さん!必ず幸せにします、だからお嬢さんをオレに下さい!・・・って本当ベタだなあ。今日は駄目だ、つくづく。
 そんなことを考えながら、ふと猫を覗きこむ。・・・あ、オスだ。ん?やっぱり見られるのなんて嫌だよな。ごめんごめん。
 猫は水嫌いっていうから、てっきり抵抗されると思ったけど、割とすんなり洗わせてくれた。両手でちょうど支えられるくらいの身体だから、スポンジをすすぐ要領でできるだけ優しく扱う。
ていねいに泡を流してやると、茶色がいっそう鮮やかに、オレンジ色の光沢を放ってとっても綺麗になった。
 濡れそぼって随分と人相(猫相っていうのかな?)が変わった猫を膝の上に乗せて、温めに入れた浴槽に入る。実家が古い作りで、シャワーは確か中学の時にようやくついたから、夏でもやっぱり湯につからないと落ち着かないんだよな。

 濡れているのが気になるのか、肩にへばりついた猫がぺろぺろと舐めてくる。赤ん坊のように乳首に吸い付いてきて、オレは思わずドキッとしてしまった。
 多分こいつ、オレのこと親だと思ってるんだ・・・
 だけどおっぱい出ないよ、俺。そう言ってやると、それまでおとなしくしてた猫がいきなり声を上げた。
「にゃ、な、なう~・・・・」
 どうしたんだよ?俺の腰くらいまでしかお湯はたまってないし・・・あ、今頃怖くなったのか?
 じゃ、出ようか?っておいっ!どこ行く・・・
 抱いて立ち上がった途端、胸にひっつく格好になった猫が暴れ始めた。添えている程度のオレの指なんか簡単に振りほどいて、ぴょんと逃げていってしまう。
「待っ・・・」
 慌ててその後を追う。ちゃんと踏みしめたはずの床は、当り前だけどタイルで、濡れていて・・・空転した視界が、鈍い音を立てて消えた。



 それから後は、よく覚えていない。目が覚めた時、オレはベッドに寝かされていた。西日を背にした影が、覗きこんでくる。
「ひーちゃん・・・気がついたか?」
「きょう・・・」
 京一、と呼ぼうとしたら、頭がズキッと痛んだ。起き上がろうとするオレを支えてくれながら、「玄関開いてて、入ってみたらお前が寝てた」って言うんだけど・・・・・・あれ?
 不思議そうにしてるオレに気づいたんだろう、京一はちょっと顔を背けて、
「風呂で倒れてるお前見た時にゃ、マジで驚いたぜ」
って・・・。
俺、あのまま転んだのか。マヌケ~。もし京一が来てくれなかったら、あのまま夜明かししてたりして。
 ・・・って、あいつは?京一、茶色の猫見なかったか。濡れたままじゃ、風邪ひいちゃうかも知れない・・・
 ぼんやりしてた頭がようやく猫のことを思い出して、部屋中を探したけど、姿どころか何処にも『猫がいた』形跡がなかった。
 逃げちゃったのかな。
 廊下とかエレベーターの辺りまで探しに行こうとしたオレを、京一が引き止めた。
「猫なんて何処にもいなかったぜ。ひーちゃん。夢でも見たんじゃねェのか?」
 両肩を掴まれ、じっと覗き込まれる。その目がやっぱりあいつと似ていて、オレは思わず京一の頬に手を添えた。
 ぴくりと震える頬と、ちょっと濡れているような髪から、覚えのある香りがする。何の香りだろ
う、これ。考えているうちに俯いていたオレの顎に、京一の指がかかった。くいと持ち上げられ、妙に真剣な眼差しが近づいてくる。
 「お休みのキス」にしちゃまだ早いけど。あ、オレが今寝てたから?「おはようのキス」なのかな。
 問うより速く、京一の唇がそっと触れてきた。優しく、何度もキスを落とされて、何となく本当に夢だったような気がしてくる。
 ・・・そうだよな。犬神先生に猫ってのも変だし、あんなに猫が懐いてくれるってのも、随分と都合が良い気がする。転んだせいなのか、頭の心がフワフワして、ゆったり抱きしめてくれる京一によりかかってしまった。
 オレより高い体温に、また眠くなってきたオレを京一が半ば抱えるようにして、ベッドに寝かせてくれる。
「疲れてンだろ。お前、もうちょっと寝てろ。・・・俺はちゃんとここにいるから」
 吸いこまれるようにまぶたが降りてしまうオレの髪を、京一がそっと撫でてくれた。
 ・・・・・・うん。ごめん。せっかく来てくれたのに。起きたらすぐ、ご飯作るから。いっぱいご馳走作るから・・・・・・ごめんな。
 繰り返し撫でてくれる京一の指先から、やっぱりいい香りがする。何となく、この前買ってきたシャンプーに似てると思ったのを最後に、俺は眠りに落ちていった。

2001/03/24 Release.