オレの精神的事情

 ふと、窓の方へ目をやると、水滴が一つ二つ付着しているのに気付いた。
(荷物が多い日に…ついてねぇな)
傘も持ってないしと思いつつ、体操着やら辞書やら、学校に置きっ放しの道具を全部詰め込んだ紙袋を抱えて、学生鞄を取り上げ、もう一度空を見上げる。
重くよどんだ雲が、「これから降る雨はちょっとやそっとの量じゃないぞ。覚悟しやがれ」と言っているような気がする。
 …言うわけないやろ。
軽くはない荷物を両手にぶら下げ、オレは心の中で溜息をついた。
 まだ教室に残っていた幾人かが、オレの大荷物を見て怪訝そうにしていたが、特に声をかけては来ない。
明日から春休みだ。自分の所有物を持ち帰るのは不思議でも何でもないだろう。
普通は数日前から少しずつ持ち帰るものだが、それをしなかったのは単なるオレのミス。それだけのことだ。
だが、オレはもうこの校舎に足を踏み入れることはない。忘れ物をしたらそれっきりなので、一応机の中とロッカーをもう一度点検して、教室を出た。
 …いくら無愛想で通っているオレでも、もう二度と会えないだろうクラスメートたちだ。別れの言葉の一つも言った方がいいかな。
突然そう思いついて振り返ったが、言葉が出てこない。
………。」
 今までお世話になりました。って別に世話にはなってねぇな。皆さんお達者で…さらば皆の衆…いや、ウケ狙ってどないすんねん。最後くらい気の利いた台詞が浮かべ、オレ。
 混乱してきたので、結局何も言わずに出ることにした。
いつもこうなんだ。
何だか気が重くなりつつも、最後の挨拶のために職員室へと向かう。

 職員室の中に入ると、担任の有間は自席でオレを待っていた。
「緋勇クン…。本当に、みんなの前でお別れの挨拶しなくて良かったの? 先生、やっぱりちゃんと話せば良かったと思って後悔しているのよ。」
………
 仲の良い友達いなかったしなあ。連中にしても、影の薄い同級生がいなくなったって「へー転校したんだ」くらいにしか思わない筈だ。いや、怯えてた連中はホッとするかも知れない。大体、どうせまた混乱して言葉が出てこないんだから、挨拶なんて出来ません。
…といった事を言いたかったのだが、うまくまとめられなくて沈黙が続く。
 オレの心の内を知ってか知らずかイヤ確実に知らないだろう、有間はフゥーッと盛大に息を吐いた。
「これだからなあ。…緋勇クン、先生心配なのよ。あなたってスゴク無口で無愛そ…いえ、愛嬌振りまくタイプじゃないでしょ? 転校先でのコトを思うと…」
などと言いつつまたも溜息。
あんたの言いたいことは分かるよ、先生。オレもすごく心配だ。オレの将来が。
「最初は先生もあなたのこと誤解してたのよね。ずーっと黙ってるし、笑ってくれないし、不満があるのかなって。でもあなたは学校行事とか先生の手伝いとか、頼まれたことは何でも丁寧に、積極的にやってくれてたよね。だから先生もようやく、緋勇クンは単にものすごーく無口なだけで、とっってもイイコなんだって分かったんだけど…」
…………
そう。その通りだよ先生! オレのこと分かってくれて有り難う!
オレは「ほんのちょっと」人より口が回らなくて、ついでに顔にも出ない「だけ」なんだ。

 元からこうだったわけじゃない。
養父母が、オレの本当の両親が亡くなった時のショックが原因じゃないか…などと二人でこっそり話しているのを聞いてしまったことがあるが、物心つく前の出来事がそんなに影響を及ぼすわけないじゃねぇか。あんたらも呑気だなあ。
 と、つまらないことまで思い出してから、そんなこと考えている場合じゃない、先生に「分かってくれてありがとー」と言わなくちゃ…と決意したところで、相手が先に口を開いてしまった。
…しまった。また間に合わなかった。
「でも、そんな風に分かってあげられるまで、随分かかったわ。クラスのコたちも誤解したままでしょう? 緋勇クンを何も感じない冷たいヤツだって思ってるコ、多いのが先生悲しいの」
………
 何も感じていないわけじゃないぞ。
面白ければ笑うし、怒れば怒鳴るし、悲しければ泣く、オレだって。
ちょっと…いや…かなり、遅いのだ。反応が。
大きくなるにつれて、そのズレが他者とのコミニュケーションを取るためには致命的な欠点だと理解出来るようになり、いつの間にか気持ちを表に出せなくなっていた。
 実はオレってかなりのバカなのかもしれないな。
反射神経が狂っているのかも、と悩んだこともあるが、否応なく巻き込まれた喧嘩沙汰ではひどくやられた覚えもないし、体育の授業で赤恥をかいたような記憶もない。格ゲーとかも適度には勝てる。(ただゲーセンには行くと確実に誰かに絡まれるので、あまり行けないんだけど)
この転校の原因…鳴瀧先生に、数ヶ月ほど古武術ってヤツを教わったのだが、そこでも特に苦労しなかった。
第一、ちゃんと「その瞬間」に思ったり感じたりはしているのだ。
それを表現すべき口と顔が、なんかやたらと遅いだけで。

「…あ、ごめんね。今更こんなコト言うつもりじゃなくて…。先生が言いたかったのはね、緋勇クン。先生はちゃんと分かってるからね、ってコト。そして、先生に分かったんだから、ちゃんと理解してくれる人がきっといるってコト。だから…諦めちゃったり、ヤケになっちゃったりしないでね? 折角緋勇クン、優しい気持ちを持ってるんだから。」
………
 有間先生。こんな風にオレを解った上、心配してくれていたとは。全然知らなかった。
そんならもっと早く言って欲しかったぜ。なんてのは贅沢か。
 感謝とか、感激とか、別れるのが寂しいとか…また色々出てきて混乱してきたので、とにかくオレは首をブンブン縦に振った。
「うん、うん。分かってるよ。」
有間先生は丸眼鏡を軽く押し上げながらニッコリ笑った。元々若いが、笑うと幼くさえ見えるひとだ。
今までビビらせるかと思って、目を合わせないよう顔を見ないよう遠慮してたんだけど、…結構可愛かったんだな先生。
「それでね、先生一つ緋勇クンにお願いがあるのよ。聞いてくれる?」
お願い? この期に及んで? デートとか!? ンなわけないだろう。
オレが心の中で一人ボケツッコミを楽しんでいると、有間はオレの両腕をガシッと掴んだ。うおっ?
「上手く言葉に出来ないなら、態度で示そう! 今みたいに首を振ってくれるだけでも、ちゃんと分かるんだから! ねっ?」
そ…そういうもんか?
 何故か必死の形相で、有間は更に続けた。
「例えばね、同じクラスの人が「よろしくね」って笑いかけてくれたりしたら、こう! ささっと右手出して握手! とかね。ぺこっとお辞儀しちゃう! とかねっ」
大げさなジェスチャー付きで色々例をあげる有間。
…それはちょっと恥ずかしいだろ。心の中でしかツッコめないけど。
 しかし、オレの心のツッコミは聞こえてしまったらしい。
「今、緋勇クンそんなの出来ないって思ったでしょ!? でもね。あなたみたいに顔に出なさすぎるコは、大げさなくらい行動して丁度イイのよ。全然オーバーじゃないわよ!」
…………
なるほど、一理あるような。オレは感動した。
そこでまた首を大きく振る。振りすぎて首が痛い。大げさな態度ってのも大変だ。
「もう一つ、これは提案なんだけど…あの、ひどいことを言うようで先生も迷ったんだけど…ううん、緋勇クンの楽しい学生生活のためだもんね! 言っちゃうね!」
 なんだか勝手に迷いを振り切って、有間はまたオレの両腕を掴み、正面から見据えて続けた。
「あのね。前髪のばして、その目、隠しちゃおう。」
………
オレは驚愕した。顔には出なかっただろうが。
なんじゃそりゃ。それが思い切って言うことか?
「はっきり言っちゃうけど…緋勇クン、ちょっと目がね。その、ちょっと怖いのよ。いっつも睨んでるみたいってゆーか。それでよく余所の学生さんとかにも絡まれてるでしょ? 「ガンつけてんじゃねえー」とか言いがかり付けられてるでしょ? クラスのコたちもそのせいで怖がってるのよね。」
 …ああ。確かにそうだよな。
ボーッと「あー腹減った」なんて考えながら歩いてるのに、突然「何か気に喰わねえコトでもあんのか?」などと前方から歩いてきた不良さんに因縁付けられたりするのだ。
教室でも、「緋勇、今日日直なんだけど…」と声をかけてきた学級委員に「おっと忘れてたぜ。悪い悪い」という気持ちを込めて振り向いても、ビクッと後ずさって「あっ…や、やっぱオレやるから、いいや」と真っ青な顔で走り去られたりするのだ。
「真神学園…って言ったっけ? ちょっと調べてみたんだけど、あそこは髪型とかの校則ないみたいなの。だから、もう思い切って隠しちゃったら、トラブル減るんじゃないかしら? どう? 先生の提案。」
流石は有間。わざわざ転校先の校則まで調べてくれたのか。ちょっと天然ボケ入ってるけど、良い先生なんだよな。
 髪か。あんまり気にしたことないからボサボサで、今でも充分目にかかるくらい長い。
だが新しい学校に通い出す前に、母の「床屋へ行きなさい」攻撃があるだろう。
そいつをかわせば、目の2つや3つは隠れるだろうな。3つもないっちゅーねん。
 オレがまたも心漫才(今、そう名付けた)に気をとられて首を振るのを忘れていたので、悩んでいるとでも思ったのだろう。
「えーと、まあ、それは半分冗談だけどね。大体、目に悪いもんね。あはは。…変なコト言ってゴメンね。」
と、慌ててうち消した。いやいやオレは「ナイス提案!」と思ったんだぜ先生。

 オレがブルブル首を横に振ったので、有間は安心したようだった。
「最初は大変だろうけど、焦らないで、態度で分かってもらうようにしよう。少しでも、緋勇クンの友好的なところを分かってもらえるように、頑張ってね。」
………はい。」
ようやく言えたのがこれだけか。情けねぇ。
 先生の提案で、すっかり諦めていた「楽しい学生ライフ」をちょっぴり堪能出来るかも、あわよくば、いくつかのオレの「野望」を達成できるかも、なんて希望が湧いてきたのだ。先生にはすごく感謝している。何か、感謝を表す気の利いた台詞を思いつきたいところだが…。
「それじゃ、元気でね。」
はい、先生もお元気で。という挨拶さえ喉に引っかかって上手く出てこないので、とりあえず一つお辞儀をした。
………
…………
………
 いつまでも突っ立っているオレを見て、言葉に詰まっていることを察してくれたのか、有間は一つ頷いて待っている。
おかげで少し楽になったような気がして、ようやく口をこじ開けることに成功した。
「…あ…あり…がとう…ございました。」
これが、今日オレが発した中で一番長い台詞だった───

05/22/1999 Release.