之弐

初恋

 東京、江戸川区の地下神殿。
心地良い瘴気と血の香りが立ちこめる。
 無様にのたうち回るクトゥルフの邪神───いや、「それ」は決して神などではなかった。恐らく異界に住み、多少の力を蓄えただけの雑魚だったのであろう───に、外国(とつくに)から来た風使いが弾丸を撃ち込んだ。陽のプラーナを纏ったそれは、怪物の体内に吸い込まれ、内部から暴発する。
かくて、奇怪で矮小な異界の生物は、元の通り「異界への関門」へと追い返された。
 そして─── 洞窟がその体内を激しく震わせ、永き役割から解き放たれようと瓦解し始めた、その混乱の中。
「雑魚」が落としたらしい一冊の古びた本に、唯一人気付いた裏密ミサは艶然と微笑んだのだった。
(うふふ〜。これは〜、間違いなく、ネクロノミコン〜。うふふふふ〜。う〜ふ〜ふ〜ふ〜)

 今年の春休みのことだった。
休日には学園に来て、旧校舎の磁場の歪みを調べていた裏密は、ある日、その超知覚ゆえか、ある種の予感に囚われ、その「造られたる混迷の建屋」の未来を覗き見ようと思い立った。
 軸となる星の軌道もなく、自身の眼となる媒介もないためか、漠然とした映像しか視えてこない。手にしていた水晶を棚に戻し、タロー───タロットカードに手を伸ばした。
これは半年前、とある会のミサで知り合った男から入手したものだったが、微弱な(裏密にとっては)呪いがかかっている。無論、カードに縛り付けられていた使魔は強制的に解放し、現在は裏密の使魔となっていたし、カードを押しつけた男への復讐も済んでいたが、永く<<陰気>>を取り込んできたそれは、触れるたびタナトスの快感を以て指先に刺激を与える、裏密のお気に入りとなっていた。
 ゆっくりとカードを繰り、集中した神経を指先からテーブル全体へ広げてゆく。半分トランス状態となるこの瞬間が、最も好きだった。「将来は占い屋サンでもいいわね〜」と思うのは、こんな時である。
 意識と無意識が別たれぬ狭間でカードを開くと、興味深い結果が現れた。
(…The TowerのReverse〜。破壊と窮地〜。僅かな希望〜。…妙ね〜。)
破滅の予知なら、今年は有名な予言詩が既に謳い上げられている。しかしこの場合、結論へ至るまでのカードが奇妙だった。
The Hierophantが示す、協力者の暗示。
Wheel of Fortuneは、新しい何かの兆候。
そして、キーとなるカードにThe Fool…ゼロからの出発と可能性。
裏密の超感覚が、このカードが指し示すものは人間である、と告げた。
 少し考えて、今度はThe Foolのカードのみ残し、円状に広げた大アルカナから一枚、カードを取り上げる。
The Star…希望? …未来?
 益々分からなくなって、その上に水晶をかざしてみる。
大して期待はしていなかったのだが、水晶の中にはぼんやりと人影が映り出された。
(…この場所は〜…校長室〜。)
 部屋の隅に常に用意してある、清水を張った瓶をテーブルの上に置いて、今度は遁甲盤を使用してみる。盤は、ピタリと鬼門の方角を───北東を指して止まった。
 これらの表すところは…
(…東北からの〜、転校生〜。災いと〜、可能性を引き連れてくる〜。長年の謎〜、旧校舎の秘密も〜。…うふっうふふふふ〜…)
 うっとりとした笑顔を浮かべ、裏密は窓辺に立ち、暗幕を少しめくって旧校舎の方角に目をやった。
(何だか〜、ミサちゃんの野望が〜、達成されるような〜、ステキな予感〜。うふふふ〜)
クマのヌイグルミが、後ろで怯えたようにキイキイと泣き喚いたが、裏密は意を払うことなく、手にしていた人形をしっかりと抱きしめたのだった。

 そして。
裏密の読んだ通り、東北から来た転校生、緋勇龍麻に関わったお陰で多くの超常現象を目にすることが出来た。旧校舎の謎はまだ解けないが、時々内部を調査する機会が増え、裏密は幸せな毎日を送っていた。
更に、今。
(狂えるアラブ人〜、アル・アジフの書〜。間違いなく〜、ネクロノミコンの〜、原書だわ〜。)
解読には少々の時間を要したが、そこに描かれた「古の支配者」も魔方陣も正確なものだった。
(…折角だから〜、ちょっと試してみよ〜かな〜。うふふ〜。)
どうせなら支配者たるアザトースを召喚してみたかったが、裏密は己の力量を過信するほど愚かではなかったし、何より時節が悪い。
かといって、地下で見た「盲目の暗愚の蕃神」の出来損ない程度しか召喚出来ないのでは面白くない。
(…今〜出来そうなのは〜…燻香の作成くらいね〜。ま〜いいわ〜)
 それから一週間、毎晩同じ時刻に、霊研で怪しい呪文が繰り返されたが、それを聞き届けた人間は誰もいなかった。
「…ズイムウルソウエト〜ノイム〜ザウアホオ〜…クエハイ〜アバウオ〜ノクエトナイイ〜……うふふふ〜……

 一週間後、完成したズカウバの燻香を眼前にし、裏密はあれこれと使い道を考えた。
これを使えば、あらゆる儀式がやりやすくなる筈である。折角なので、何か召喚してみることにした。
 少々高位の魔を呼び出すためには、生け贄があった方が良い。そう考えながら霊研を出ると、丁度階段を下りてくる京一と龍麻に出逢ったので、裏密はニッコリと微笑んで声をかけた。
「…うふふふふ〜。京一く〜ん、龍麻く〜ん。補習かしら〜」
ぎゃッ! と叫んで龍麻の後ろに隠れる京一。特に表情も変えず、涼しげに立ち止まっている龍麻。相変わらずのコンビである。
「なッ、何だ裏密ッ。そ、その怪しげな瓶は…お前、またおかしな呪いとか、かける気じゃねェだろうなッ!」
「うふふ〜。『また』だなんて〜。ミサちゃん、そんなことしない〜。うふふ〜」
怯えながらも、京一は必ず何か言わないではいられないらしい。以前は、他の無理解な連中と同じでつまらない男だと思っていたが、今は、そんな京一も可愛いものだと思える。
自分が手にした小瓶を見つめる龍麻に気付いて、裏密は声をかけた。
「何なら〜、龍麻く〜んも、付き合う〜?」
………いや。」
首を振ると、すっと踵を返して立ち去る。
その背中にへばりついていた京一も、そのまま一緒に引きずられるように階段を下りていく。
「休み中にアヤシイことばっか、やってんじゃねェぞ〜〜ッ…」
語尾が階下に消えたとき、裏密は決意した。
手にした小瓶の蓋を開け、階段の手摺りの隙間から、中の粉末を無造作にぶちまける。
待つこと10分。
降りてみると、期待した通り階段の下で京一と龍麻が倒れている。
「う〜ふ〜ふ〜。よく効く〜催眠薬でしょ〜?」
裏密は二人の可愛らしい寝顔を見下ろし、またニッコリと微笑んだ。

「…う…こ、ここは…ッ!? あッ、ひ、ひーちゃんッ!」
目を覚ましたらしい京一が、後ろで喚き始めたが、裏密は意に介さず、作業を続けた。特殊な封呪を施した裏密特製のロープで縛ってある限り、どうせ立つことも出来ないのだ。
「てッてッ、テメェ裏密ッ! ひーちゃんに何しやがるッ!!」
「何って〜、ちょっと〜生け贄になってもらうだけよ〜」
「…いッ…イケニエだア〜!?」
 霊研の床一面に書き込まれた魔方陣の中央に、龍麻は横たえられていた。
左右にしつらえた炎台が赤々と、その整った顔を照らし出している。
チラチラ揺れ動く炎に、作ったばかりの燻香を放り込むと、パッと火花が散り、扉や窓が一斉にガタガタと鳴った。
「なッ何だアッ!?」
ひっくり返った京一の悲鳴を背に、裏密は儀式を続ける。
 緋勇龍麻の持つ<<力>>は、どの人間にも属さない特殊なもののようだった。
何度か、その性質を見極めよう、遠い未来を覗こうと占ってみたが、尽く失敗した。こんなことは初めてだった。ずば抜けた存在であることは分かっているのに。
この男を使えば、相当な階級の魔も喚び出せるのではないか。喚び出した魔を以て、逆に龍麻を推し量ることが出来はしないか。そう裏密は考えていたのである。
 魔物の召喚は手慣れたものだった。程なく異界とコンタクトが取れる。
空間がぐにゃりと歪む感覚と耳鳴りが始まった。後ろで京一が呻くのが聞こえる。
 しかし、現れたのは、交渉に応じる魔のものではなかった。

……これは〜、アークデーモンね〜」
口調は変わらなかったが、裏密は一瞬にして失敗を悟っていた。
「多少は高位の魔物を喚び出せるだろう」程度に思っていたが、今魔方陣の上空に上半身だけ覗かせている巨大で奇怪な悪魔は、段違いの魔力を放出している。そして、通常これ程の高位の悪魔は、交渉に応じて「こちら側」に現れることなど、まずあり得なかった。
第一、交渉に応じて現れたなら、龍麻の身体に降魔された筈だ。
 龍麻の<<力>>に惹かれたのか。燻香の効き目か。或いはその両方が強く作用したのか。
そのデーモンは<敵>であった。
「こんなの〜、ミサちゃんじゃ〜、斃せない〜」
「…なッ…何イ〜〜ッ!? ば、馬鹿野郎、解け、これを解きやがれ!」
京一がじたばたと暴れているが、目をデーモンから逸らすわけにはいかない。今となっては特製ロープが恨めしいが、仕方のないことだ。
デーモンが、龍麻を見下ろして、ニタリと嘲笑った───ようだった。

 ふいに、横たえられていた美しい彫像が、眼を見開いた。
頭上の敵を認め、今覚醒したとは思えない速さで飛びすさる。
丁度、裏密をデーモンから庇う位置に立ち、「…アイツは?」と訊いた。
「龍麻く〜んを使ったら〜、高位のデーモンが〜寄って来ちゃったの〜」
………
「うッ裏密! 俺のロープを解けッての!!」
芋虫のように捩れている京一に気付き、裏密は慌てて駆け寄った。
「おめェはッ…ったく、どーしてこーゆー馬鹿をだなッ…少しは懲りろッ!!」
「…ご〜め〜ん〜な〜さ〜い」
心の底から謝罪したのだが、京一は聞いていないようだ。
慌てて木刀を手に、龍麻の横に立つ。
裏密も、呪文を唱え始めた。
とにかく追い返さなくてはならない。
これだけの魔力を持つ悪魔が、簡単に「こちら側」と「あちら側」を繋ぐ関門をくぐれはしないだろう。それだけが唯一の頼りだった。

 龍麻と京一が同時に仕掛けた。
龍麻が掌底を放つ。
京一が剣掌を繰り出す。
裏密も、アフラ=マズダの輝ける光の粉を降り注いだ。
 一瞬デーモンが怯んだように見えたが、あまり効いているようではない。
二人が連続して技を繰り出す。
その間に、裏密は首に掛けていた十字架を魔方陣の中に置き、自らの血を二、三滴垂らした。
召喚されたものでなければ、帰還の儀式も効かないが、やれることはやっておかねばならない。
「おおおおッッッ!!」
咆号と共に、烈しい気が龍麻から放出された。部屋の空気が一斉に共鳴し、ビリビリと震える。
清浄な陽のプラーナに満ちた空間は、裏密ですら気が遠くなるほどの輝きに満ち溢れた。
「円空旋ッ!!」
それに呼応するように、京一の剣から唸るような気圧が生み出され、悪魔に衝撃を与えた。
デーモンの像がそのまま歪む。バランスを崩したのだ。
不満を示すような呻声が部屋に響き、その姿が空間に飲み込まれていく。
 成功だ───
一瞬、身体の力を抜いたとき、消え去る間際のデーモンの右腕が、軽く振り下ろされた。
それだけで凄まじいまでの空圧が生じ、三人は壁まで吹き飛ばされてしまった。
「きゃ〜」
「ぐッ!」
 慌てて身構えようとした時には、既に圧倒的な魔力の源は姿を消し、周囲は静けさを取り戻していた───

 流石の裏密も、ぼんやりと座り込んで動けない。
(…凄い経験〜。アークデーモンが〜、ここに現れるなんて〜。闘うなんて〜…)
ゆっくりと立ち上がった龍麻が、足元に落としてしまっていた裏密の眼鏡を拾い、手渡してくれた。
はっとして、龍麻を見上げる。
(…そうだ〜。さっきも〜、龍麻く〜んが盾になってくれて〜、直撃を受けなかったんだ〜)
生贄にしたことも、突然災厄に巻き込まれたことも。全てを静かに受け止める闇の瞳が、裏密を見つめている。
(…あ〜。き〜れ〜い〜。暗黒の輝き〜…吸い込まれそう〜。今〜私たちのバックには〜、綺麗な花が飛んでいる気がする〜。うふふ〜)
裏密はうっとりと微笑んだ。
「龍麻く〜ん、あ〜り〜が〜と〜。うふふふ〜。う〜ふ〜ふ〜ふ〜。」
………いや。」
すっと目を逸らし、龍麻はスタスタと部屋を出ていってしまった。
二人を何やら不気味そうに見ていた京一も、慌ててその後を追う。
「…うふふ〜。照れ屋さん〜。」
 裏密は理解した。龍麻は自分の運命の星なのだと。
The Star───純粋な愛。
「道理で〜、うまく占えないワケよね〜。うふ〜。うふふ〜。」
常に手放さない人形を、ぎゅっと抱きしめる。
「うふっうふふふ。うふふふふふふ〜。うふふふふふふふふふ〜。」
 いつまでも裏密は幸福に酔いしれ、立ち尽くしていた。
怯えたクマがキイキイと泣き続けても、棚の上の髑髏がカタカタ震えても、彼女の幸せそうな笑い声は途絶えることなく続いたのだった───

06/29/1999 Release.