之伍

宿業

草壁水穂様に捧ぐ

 暦の上では「残暑」と呼び表される、八月下旬の東京の気温は、その日もあっさりと「真夏日」を記録していた。
僕はいつも通り、買い物をしに来ていた龍麻とあれこれ話しながら、店の在庫を確認していた。
 どんなに暑かろうと、龍麻は殆ど汗もかかず、だらしなく服装を乱したりもしない。
これは龍麻の精神力・忍耐力・集中力の高さを示すものだ。「心頭滅却すれば火もまた涼し」という格言があるが、それだけの精神修養が出来ていなければ、そう簡単に達せられる境地ではない。
飛水家の血を継ぐ僕は当然としても、一体龍麻はどうやってこれだけの修業を積んだのだろうか。
 彼に出逢ってから二ヶ月近く───
僕は一つの疑問を抱くようになっていた。いや、疑問と言うより、緋勇龍麻という人物についての仮説、というべきだろうか。
 如月家に生まれ、四神・玄武の加護を受け、東京を護る使命を背負ったこの僕の「宿星」…。
横に立って古伊万里の絵皿をじっと見つめている龍麻に、思い切って声をかけた。
「…龍麻。一つ聞きたいことが…いや、聞いて欲しいことがあるんだ。僕の家に伝わる、大事な話だ…。」
こちらを振り向いた龍麻に、とりあえず奧の座敷へ落ち着こうと誘ったその時、邪魔が入ってしまった。まるでこの話を僕にさせまいとしているかのようなタイミングだった。

「こんにちは、翡翠く〜ん。アラお客様? いいわねェ、最近結構繁盛してるみたいじゃな〜い? お祖父様まだお戻りにならないんでしょ、それなのに大したものねえ〜、きっと商売の才能があるのねェ、まだお若いのにねェ〜、アラ同級生なの? 見掛けない制服ねェ、あらまご丁寧にど〜も、こんにちはァ、可愛いわねえ、ぎゃはははッ、お友達なのねェ、あ、おばさんは隣の家なのよ、ヨロシクね、文房具屋あるでしょ? 今度ウチにも寄ってちょうだい、翡翠くんのお友達なら少しサービスしてあげるからねー、アラまァ本当に礼儀正しい子ねェ〜、ウチの子にも見習わせたいわァ、全くあの子も高校生だってのに店番一つしやしないんだからねェ、今日だって折角出店の場所もらったのに、商店街のお祭りなんかツマラナイとか言ってちっとも寄りつかないしねェ、如月さんの爪のアカでも煎じて飲ませたいわよ、え〜アラおばさん本気よ〜ぎゃはははッ、ま〜こんな綺麗な坊やに爪のアカなんて言うのも似合わない話だったカシラね、ぎゃはははッ、ああそうそう、違うのよ回覧板渡しに来ただけなのよ、す〜っかり忘れててゴメンナサイねェ、そうそう、翡翠くん参加しないの? お祭り、残念ねェ、そちらの坊やと一緒に後で観にいらっしゃいよ、おばさんトコ輪投げやってるのよ、ウチの商品大したモンじゃないけど、一等はプラステンだかプリクラだかいうオモチャ、ほら今流行っててね〜、アレ男の子たち好きでしょう? 良かったら遊びにいらっしゃいよ〜、それじゃあね、ゴメンナサイ何だかまたおばさん一人で喋っちゃったわネ、ぎゃはははッ、それじゃ〜ね、はいゴメン下さ〜い。」

 …一応近所づきあいも大事だからと、営業スマイルは決してくずさなかったが、フジヤマ文具の奥さんが店から出ていった途端、つい口から溜息が漏れてしまった。…いかんな。やはり修業が足りない。
それにしても、どうしてここの商店街の奥さん達は、機関銃の一斉掃射のような喋り方をする人が多いのだろう。御主人方は寡黙な人が多いのに。もうみんな機関銃に撃ち殺されてしまったのだろうか。
……祭り…なのか。」
龍麻の問いかけに、逸れた意識を慌てて引き戻した。
「あ…ああ。町内の盆踊り大会だよ。ここの商店街をもう少し奧に行ったところに、神社があってね…まあこれは、ここの商店街の人たちが商売繁盛を祈願して建てた、何の由来も由緒もない小さな所なんだが、ここで毎年この時期に盆踊りをやるんだ。…ホラ、微かに聞こえるだろう。これは東京音頭だね。」
…………。」
そんなことより、先程の話の続きを…と言いかけて、僕は慌てて口を閉じた。
龍麻は、天を仰ぐようにして、祭りの囃子に耳を傾けていたのである。

 元来僕はこのような祭りなど好まない。
古来からの伝統をないがしろにするつもりはないが、この町内の祭りなどは、単に商店街の連中が在庫を片づけたり、祭りの雰囲気に酔った子供から小遣いをむしり取る目的で行っているに過ぎないのだ。先程のフジヤマさんのように。
「祭り」とは、神を祀るものだ。こんなものは祭りではない。だから、僕は毎年形ばかりの「奉納」として日本酒の寄贈をするくらいで、顔を出したことはなかった。周りには「一人で店をやっているから顔を出す暇がない」と言い訳をしてある。
だが───

「…龍麻。行ってみたいのか?」
ゆっくりと龍麻が僕を振り向き、少し考えてから、小さく頷いた。
多分、君の考えているような立派な祭りではないと思うけれどね…。
ちょっと苦笑してしまったが、龍麻のことだから何か理由があるのかも知れない。
僕は初めて町内の夏祭りに足を運ぶことにした。まあ、龍麻と一緒なら、そんなに捨てたものでもないだろう。
 帳簿類を手早くしまい、戸締まりをする。特に持っていくべきものはないだろうが、念のため財布と…やはり団扇くらい持つべきだろうか。
「そうだ…。折角だから、浴衣も出そうか。こんな時でないと着られないからね。」
 浴衣を仕立てたのは、やはり商店街の付き合いだった。伊勢屋さんは、店に飾る大壺を三つまとめて買ってくれたのだ。お礼代わりに注文をするのは、商店街で生き抜く不文律である。
柄や色など面倒だったので、お任せで同じものを二着作った。龍麻の身長なら、それ程自分とは違わないし、多少幅が違っても着物なら問題はない。
「はい、浴衣と帯だ。自分で着られるだろう?」
……。」
閉店後や休日のゆっくりした時間には、和服を着ることの多い僕だが、簡素で無防備な浴衣はあまり着ることがない。予定外の行動ではあるが、こういうことでもなければ、この浴衣は一度も袖を通さず捨てられる運命だったかも知れない。そう思えば、少しは有意義に感じるというものだ。

 さっさと帯を締め、龍麻の方を見ると、彼はまだ帯絞めに悪戦苦闘しているところだった。
ちょっと吹き出しつつ、龍麻を振り向かせる。
「意外だな…。君は器用だと思っていたんだが、着物は着慣れないのかい?」
……あまり…着ない。」
まあ普通はそうだろうなと思いつつ、彼の帯を一旦ほどく。
はらりと浴衣の前がはだけ、ちょっと慌ててしまった。
 人前で肌を晒すのは何だか無防備な気がして好きになれない。龍麻の方は別に気にしていないようなので構わないのだが…そういう感覚は、龍麻にはないのだろうか。やはり僕のような、忍びの修業をしている者とは違い、他人に対する危機感が薄いのだろうか。
 襟を直し、着崩れないように型を整えてやる。
帯を回すために一瞬龍麻の身体に抱きつくような恰好になっても、彼はじっと大人しく待っている。
…僕が気を回し過ぎるのだろうか。それとも単に、龍麻が僕を信頼してくれている証なのだろうか。

 奇妙な気分のまま支度を終えた。
濃紺から黒への微かなグラデーションを描くこの浴衣は、適当な付き合いのつもりで作ったにしては非常にセンスの良い品だ。着てみて初めて、伊勢屋さんの心遣いに気付いた。今度またお礼をせねばなるまい。
「よく似合うよ、龍麻。」
それは世辞ではなかった。「抜けるような」とまでは言わないが、男としては少々色素の薄い龍麻の肌に映える濃紺。足元に向けて濃さを増す黒は、彼の黒髪と相俟って美しいコントラストを描いている。すっきりと伸びた姿勢には、やはり和装の方がしっくり来るようだ。
……翡翠こそ。」
「フッ、僕は普段から着慣れているのでね。…まあ、男同士で誉め合っていても仕方ないな。早速行ってみるか。」
……ああ。」

 小さな神社の境内から溢れ出した出店には、どこから沸いたのか不思議なほど人が集っていた。
中の方からは迷惑なほどの音量で、東京音頭が流れてくる。太鼓は実際に誰かが叩いているらしい。子供の泣き声や喚声が混じる。…煩わしい。
全く、龍麻はどうしてこんなものに参加したかったのだろう?
 彼はゆっくりと辺りを見渡している。普段通り、その表情を崩してはいない。
ごった返す人いきれの中、縫うように中へ進む。盆踊りの輪にでも入るつもりだろうか。…それはそれで見物な気もするが。
 突然、龍麻が立ち止まった。僕もギクリとして耳を澄ます。
今、煩い音楽と人々の声の隙間に聞こえてきたのは、悲鳴ではなかったか?
…聞き間違いではない。子供の悲鳴とも違うその声は、盆踊りの会場となっている境内とは反対側の方から聞こえたようだ。
僕は走り出した。龍麻も後ろから付いてくる。嫌な予感がする、これは…。
 予感は的中した。
社務所の裏手の小さな林の中、掠れた悲鳴を上げ続けている浴衣姿の女性が、あられもない恰好で座り込んでいる。その連れと思われる若い男が倒れている。そしてその二人の向こうに…
「…鬼道衆かッ。」
鬼面の者どもが三人。こちらに気付いて、一瞬戸惑う様子を見せている。
どうしてこんなところに、何の目的で…と思ったときには、龍麻はもうその一匹に殴りかかっていた。出遅れたことに少し反省しつつ、別の一匹に向けて刀を抜く。
雑魚でしかなかったらしいそれを屠り、残りの一匹はと振り向いたときには、龍麻の拳から繰り出された強烈な<<気>>が、あっさりと全てを終わらせていた。

 倒れていた若い男は失神しているだけだった。女性の方も、僕らが闘っているうちに気絶してしまっていた。
二人の衣服の乱れは、どうやら鬼道衆どものせいではなかったようだ。つまらないことに気付いてしまう自分の観察眼に顔をしかめつつ、龍麻に声をかけた。
「とにかく、人がこちらに集まってこないうちに向こうから林を抜けよう。社務所に居る人たちが気付いたかも知れない。」
「…この…二人は?」
「…放っておこう。外傷はないし、こんな所でデートしているのも悪いんだ。少しは薬になったろう。」

 商店街とは反対側に抜けたため、かなり遠回りをして店に戻ってくる羽目になった。
「鬼道衆か…あんな所で何をしていたんだろうな。」
……。」
龍麻は道々ずっと何かを考え込んでいるようで、僕の問いかけには首を振るだけだった。
 もしかしたら、龍麻には何らかの予感があって、僕を祭りへと誘ったのかも知れない。
そう考えてみると、元々あまり人付き合いを楽しんでいるようには見えない彼が、祭りへ行きたがったことといい、鬼道衆を見つけたときの、僕を凌ぐ素早い反応といい、色々納得がいくことばかりではないか。
 隣を歩く龍麻に笑いかけた。
「こんな小さなお祭りを台無しにする目的だったんだろうか。全く下らない連中だな。」
すると彼ははじかれたように顔を上げ、僕の顔をじっと見つめた。強い視線が、何かを咎めているようで、この僕ですら一瞬気後れしてしまう。
「…龍麻?」
……許せん。…奴ら…。」
 こんな小さな町内の祭りでも、楽しんでいる人々がいる。
それを邪魔し、壊そうとしていた鬼道衆への怒りなのだ。
「…そうだな…。龍麻…君の言うとおりだ。」
胸が熱くなるようだった。
やはり…
やはりこの人は、僕の…

「あ゛ーーーーーーーッ!! きッき、如月ッ…!! てめェ…!」
 下卑た怒鳴り声に、僕は龍麻の肩に置いた手を放しかけ、それから思いとどまってしっかりと掴み直した。
そしてその蛮声をあげた人物に、ニッコリと笑いかけてやる。
「やァ…京一君じゃないか。どうしたんだい、店はちょっと臨時で閉めていたんだが。」
いつから店の前にいたのか、こちらを指さしワナワナと震えているのは蓬莱寺だった。どうせまた龍麻の尻を追いかけて来たのだろうけれど、毎度毎度こんなところまでご苦労なことだ。
「き…て…てめ…な…な…」
「何だい、京一君。そんな猿語を使われても、僕には通じないよ。英語かフランス語くらいなら解るんだが、僕は残念ながら人間の言葉しか習得してな…」
「…ッせェんだよッいちいち!! てててめェ、そ、そ、その浴衣は何だよッ!」
「何って…ほら、そこの斜め向かいの、『伊勢屋呉服店』で作ってもらったものだよ。それがどうかしたのか?」
「んーなーコト訊いてんじゃねェッ! どっ、どーしてひーちゃんとペアルックなんだーッ!!」
 …………大体そんなところだろうと予想はしていたのだが。
男同士なのに、しかも浴衣なのに、「ペアルック」に見えてしまうほど視点が歪んでいるのだろうか、彼は。
いつもならもっとからかってやるところだが、店の前でペアルック云々と絶叫されては、流石の僕も精神的疲労に耐えられない。
「…龍麻、とりあえず着替えようか…。」
……ああ。」
「おいコラ! 人を無視して話進めてんじゃねェよッ! 大体お前は少しおかしいぜ、いつもいつもひーちゃんにベタベタ…」
それは君の方だろう、と言いかけたとき、彼はまたも大声を上げた。
「…ひーちゃんッ! 怪我してんじゃねェかッ!」

 林を抜けるとき木の枝にでも引っ掛けたらしい、微かに頬についた傷に気付き、何があったのかとわめき立て、大したことはないと遠慮する龍麻に無理矢理回復薬を飲ませ、着替える間中「こっち見るんじゃねェッ!」と僕を押さえ続け、果てには「この変態野郎のところには絶対一人で来るな!」と約束させながら、龍麻を抱きかかえるようにして去っていく、赤毛の背中を見送りながら、僕は溜息をついた。
 彼が、僕の考えている通りの人物であるなら、蓬莱寺の異常な執着心も理解出来ないわけではない。
だが、それにしても…。
「龍麻…僕ははじめて、心から君に同情したよ…。」
これからは、からかってばかりではなく、少し蓬莱寺から助け出すようにしてやった方がいいかも知れないな。
 何しろ君は、僕にとっても重要な人間なのだから…。
思わず笑みが零れる。
 龍麻にはそれをいつどうやって告げようか。
その日のことを考えると、時には重すぎるように感じた宿命も、誇らしく輝くようだった。

10/25/1999 Release.