之六

斜影

川原雅様に捧ぐ

 その日も、朝から茹だるように暑かった。
午前いっぱいのバイトを終えた京一は、龍麻のマンションへと向かっていた。
(今から行くと、大体昼メシも出てくんだよな。別に放っといてくれてもいいのに、ホント律儀なヤツだぜ…。そんなんだから、アランだの雨紋だのにつけ込まれて、毎日のように出入りされちまうんだ。いくら夏休みだからって…ちょっとアイツらにも、そろそろ灸を据えてやんねェとな。)
自分のことを完全に棚に上げながら、マンションの外玄関をくぐり、インタフォンで龍麻の部屋の暗証番号を押す。二重のドアをくぐると、外気から半分遮断されているせいか涼気すら感じて、我知らずホッと息をついた。
 エレベータに乗って5階を選ぶ。
7階建ての、防音完備を謳ったワンルームマンションは、いつの間にか京一にとっても居心地の良い場所になりつつあった。
両親と確執があるらしい龍麻には言えないが、親元を離れて一人暮らしというのは、やはり羨ましい気がする。京一の親はかなり放任主義であったのだが、一緒に住んでいるというだけでも、何となく窮屈に感じるものだ。
 俺も一人でのんびり暮らしてみてェな、などと心で呟きながら龍麻の部屋のドアに辿り着くと、いつものように軽く二度チャイムを押す。
ほどなくチェーンが外れ、いつも通り龍麻が淡々と迎えてくれる…
という京一の予想は裏切られた。

「ハイ…どちらさまでしょう?」
 ぎょっとして、京一は身構えた。
───女の声!?
 美里は勿論、舞子や藤咲の声でもない。細く開いたドアの向こうから聞こえたのは、落ち着いた、大人の女性の声だった。思わず緊張する。
ドアの向こうで、ボソボソと何やら話す声がした。どうやらそれは龍麻のようだ。
ようやく扉が開かれる。
京一を出迎えたのは、小柄で大人しげな中年の女性だった。

 年の頃は四十後半といったところか。
短く、ゆるやかにウェーブした髪も、伏せ気味な目元も、地味な茶系のツーピースも、浮かべた寂しげな笑みと相俟って、上品さと気弱さを示すようだった。
 直感する。
この人が、龍麻の母親なのだと。
「は、はじめまして。俺は蓬莱寺京一、コイツ…た、龍麻クンのダチ…クラスメートです。」
「まァ…そうですか。いらっしゃいませ…私は龍麻の母でございます。いつも龍麻が、お世話になっております…。」
 ゆっくりと話し、深々とお辞儀をする仕草に、礼儀正しい龍麻の姿が重なる。
(シツケの良いおぼっちゃん、てのはあながち間違いでもないみてェだな。)
 中へ招かれると、布団でも干していたのか、ベランダに出ていた龍麻も部屋の中に入ってきた。
京一を見て、軽く頷く。
「…あー…その…お袋さん来てるなんて、思わなくてよ。…す、すぐ帰るから。邪魔して悪かったな。」
「…構わん。…居ろ。」
首をはっきりと横に振ると、龍麻は強い口調でそう言った。少しギクリとしてその顔を見ると、普段なら殆ど合わせようとしない視線が、まっすぐ京一を捉えている。
 そんじゃァ遠慮なく…などと言いながら、いつものようにベッドを背にして座り込むと、龍麻の視線が和らいだ。二度、三度と軽く頷く。
「…少し…待ってろ。」
 そのままスッと玄関へ向かったのを見て、母が声をかけた。
「龍麻さん? どこへ行くの? そろそろお昼だし、私が…」
龍麻は首を振り、冷蔵庫の方を指差して、そのまま何も言わず出て行ってしまった。
…………。」
(おいおい。初対面だってのに、いきなり自分の母親とダチを二人きりにして出ていくか、普通?)
居心地の悪い思いを禁じ得ない。それでも京一は、龍麻の過去について知るチャンスでもあることに気付いたので、愛想笑いを浮かべた。
「へ、へへッ。すいません、俺が突然押し掛けたんで、昼メシの材料足りないみたいッスね。いや〜悪いことしたなァ。…あ、すぐそこに店あるから、アイツすぐ戻ってくると思いますよ。」
 龍麻の母は、驚いたように目を見張った。どことなく枯れたような雰囲気を醸し出す彼女だったが、その表情は随分幼く見える。もしかすると、見かけよりずっと若いのかも知れない。
「…蓬莱寺さんは、…あの子のことを、よく理解していらっしゃるんですね…。」
そう言って作られた微笑は、しかしひどく寂しげだった。

 似てねェな。ひーちゃん、父親似なのかな。
そんなことを考えながら、キッチンコーナーに立つ彼女の様子をそっと伺う。
どこがどうだとは言えないが、くっきりとした顔立ちで、良きにつけ悪しきにつけ印象的な龍麻に対し、彼女は全体にぼんやりとした、地味なタイプである。眼がどう、口元がこうといったことより、とにかく雰囲気が全く異なっていて、奇妙な違和感を京一に植え付けた。
「あの子は…学校で、ちゃんとやっていますか?」
 麦茶を差し出しながら、彼女はそう尋ねてきた。
「ええ、まァ。ひーちゃんは俺と違って真面目だしね、へへへッ。」
そう言ってみると、また目を丸くして京一を見つめる。
………。そう…ですか。…まァ…。」
一体何に驚いているのか。真面目にやっている、と言ったことに?
 京一は更に、カマをかけるように続けてみた。
「いや〜マジでアイツには頭上がんないんス。ノート借りたり、ここでメシ食わしてもらったり。しょっ中入り浸っちゃってるんですよ。お世話になってまっす。」
………。」
 おどけて、大袈裟に頭を下げてみせる京一を、唖然としたような表情で見つめていた彼女は、ふとまた疲れたように微笑み、京一に向かって深々とお辞儀を返した。
「…あの子と親しくつき合って下さって、有り難うございます…。」
 今度は京一が驚く番だった。
「あの子は…ああいう子ですから。自分からは殆ど連絡も寄越さないし…。お盆にも帰って来なくて。…東京で一人きりで、万が一病気をしたり…何か事件に巻き込まれりして、そのまま倒れてはいないか、誰にも気付かれずに苦しんではいないかと…心配だったんです…。」
………。」

 彼女は遠慮がちながら、色々なことを尋ねてきた。
学校やお友達に、何かご迷惑はおかけしていませんか?
病気で休んだことはありませんでしたか?
良くない人に絡まれて、変なことに巻き込まれたりはしていませんか?
 ふいに立ち上がると、クローゼットから龍麻の制服の上着を取り出す。
「…こんなに制服もボロボロ…まだ半年も着ていないのに…。」
「あー…そ、それはその、仕方なくというか…友達を護るためとか、そういう理由で…大した怪我もしてないですし。その…まあ、男ですから、仕方ないッスよ、へ、へへへ。」
 適当に誤魔化しながら、京一は内心慌てた。
今の言いようからすると、龍麻の母親は「事件」について何も知らないようである。
しかし、龍麻の方は明らかに何か知った上で、東京へやって来た筈だ。
 昔から周囲には何も洩らさず、事件や敵のことも隠してきた、ということなのだろうか。だとすれば、母親に何を尋ねても解らないだろうし、下手に話してしまうのも憚られる。
 事件のことに触れずに真実を掴むには、何をどう尋ねれば良いのだろうか。
「ごめんなさいね、色々訊いてしまって…。あの子、本当に何も教えてくれないものですから。」
「あ、いえ、全然構わないです。確かにアイツって、全然自分のこと話さない奴だし。お袋さんにまで、あんな態度だとはねェ…。ま、お喋りなひーちゃんなんて、ガキの頃を想像してみても、全ッ然想像つかねェけどな。へへへッ。」
 龍麻があのように頑なな態度を取るのは、何か原因となる事件があったのだと京一は推測していた。
だから、いつからそうなったか、何か龍麻の身に起きなかったか、それだけでも聞き出そうと、遠回しに触れてみたのだ。
 案の定、彼女は零れるように語り出した。京一の冗談めかした言葉に、気が緩んだのだろう。
「…ええ…龍麻さんは昔から、周りと打ち解けようとしない子でした…。…最初は、私達に対してだけ冷たいのかと思っていたんです。それは仕方のないことですから…。」
「仕方のないこと」…? 京一は聞き咎めたが、口は挟まなかった。
「悪い子ではないんです…。反抗したり、自分から争い事に加わったりしたことはないし、優しいところもあるんですよ。でも…いつの頃からか…小学校を卒業する頃には、もう決して笑ったりお喋りをしたりしなくなって。…まるで、感情を人に見せてはいけないとでも思っているみたい…。」
…………。」
「…でも今は、蓬莱寺さんのような方がお友達になって、少しあの子も変わってきたのかも知れませんね。お友達を家に連れてくるなんて、ウチでは一度もしたことないんですよ…ふふっ」
 その時初めて京一は、彼女の寂しげな微笑の本当の理由に気付いた。
家族に…母親にも懐かない息子が、見知らぬ土地の見知らぬ友に心を開いている。
結局、自分達を嫌っていたために誰にも心をゆるさなかっただけなのかも知れない。そんな想いに傷ついていたのだ。
「…蓬莱寺さん、これからもあの子をよろしくお願いしますね…。」
 また寂しげに笑って、深々と頭を下げる。
何か慰めの言葉をと思っても、言うべき言葉が見つからない。
自分とて、貴女が思うほど信頼されているわけではないのだ…そんなことを言ったとして、母親の傷が癒えるわけもないだろう。
 それでも…と口を開きかけたとき、タイミング良く…悪く、というべきか…龍麻が帰ってきた。

「久しぶりですもの、私が作りましょうか。」
 母親の申し出にきっぱりと首を振って、龍麻は買ってきた野菜などを手際よく切り始める。
「でも…。」
……休んでいろ。」
その言葉に、母は小さく溜息をついた。
 違う。あれは、上京したばかりで疲れているだろう母に、気を遣っているんだ。
ちゃんと振り向いて、声をかけた。覗き込むように母の目を見つめていた。命令口調にも穏やかな響きが含まれていた。
実の親にも、解らないものなのだろうか…
 説明してもしなくても、母親の傷は深まるような気がする。
京一はその場を取り繕うように話を変えた。
「いやいや、息子の手料理も久々なんじゃないですか? 折角だし、ここはアイツに任せて、俺らはのんびり待ちましょう。そうそう、「のんびり」といやァこないだ、学校でヒドイ目に遭ったんスよ…なァ? ひーちゃん。」

 念を押すように「龍麻をよろしくお願いします」とまた頭を下げた母に会釈を返して、龍麻の部屋を出た。
西に傾き、赤みを帯び始めてもまだ、陽は容赦なく照りつけている。
 アスファルトから立ち上る熱気にまた汗を噴き出させながら、京一は歩いた。
親を気遣いながらも、決して口に出さない龍麻と、息子を心配しているのにその気持ちには気付かない、どこか他人行儀な母の姿を思い起こす。
以前、親とは一緒に住めないと言っていたのは、このことだったのだろうか。それとも、親に余計な心配や迷惑をかけたくない、という意味だったのか。
 いずれにしろ、互いを想いながらすれ違う親子が哀しかった。
(鬼道衆を斃したら…東京を護り全てが終わったら、お前は…心を表に出せるようになるのか? お袋さんにも、俺達にも…閉じこめてきた気持ちを、ちゃんと伝えてくれるんだろうか…)
 ふと振り向いて、出てきたばかりのマンションを仰ぎ見た。
夕映えに赤く染まった建屋が、突然何故か炎や血を連想させる。
 不安を振り切るように、京一は踵を返した。未来を暗示するかの如く感じてしまうのは、少し疲れているせいだ。ただ、それだけなのだと自分に言い聞かせながら…。

2000/01/15 Release.