───目醒めよ
うる…さい………………
───目醒めよ
…黙……れ…………
───目醒めよ
………………………うるせェッ! ! !
あの男を見たのは、いつだったろうか。
死にかけた蝉の鳴き声が鬱陶しかったから、夏だったんだろうか。
東京ってヤツは、暑苦しくて臭せェ、汚ねェゴミ溜めのような街だ。
生きている連中も死んでいる連中も、みんな同じように濁り、腐ってやがる。
男は、涼しげな顔で歩いていた。
このゴミ溜めで、何があっても自分だけは正しい道を歩いているッてな顔をして、すまして歩いてやがったのだ。
あの女を従えて───。
九角家を再興するだとか、天下を取るだとか。
そんなことはどうでも良かった。
遠い昔、時の権力者ってヤツに負けたのも、九角の力が弱かっただけのことだ。
未だに、産まれるか産まれないか分からねェ女のために、ひっそりと生きている。
それくれェ弱かった。
「九角様───!」
俺を九角家頭領として敬い、慕い、付き従い、護り、…諫めようとする奴ら。
こいつらは、生まれる前から俺のものだった。
そして君主と仰ぐこの俺に、繰り返し語って聞かせた───九角家の使命と、宿命を。
「うるせェな! 俺はやりたいようにやる!」
「しかし、九角様…」
「誰が決めた? 何で俺達が、モグラみてェに息を殺して生きていかなきゃなんねェんだ? 誰が怖えェッてんだ!?」
「…………。」
「いいじゃねェかよ。ここまで弱くなった血を、一体何のために守るッてんだ。俺達は、俺達の思うままに生きりゃァいい。好きなだけ生きて、殺して、手に入れて、女を抱いて、死ぬときゃ死ねばいい。何百年も前のことなんざ、この俺には関係ねェよ!!」
「……九角様…。」
そうして、「奴」が現れた。
知りたくもねェ話を。
小さい頃から繰り返し聞かされてきた、下らねェ昔話。
───「前世」を。
現実に引きずり出して、俺の中に、埋め込んだ。
───膨大なまでの怨嗟の念と共に。
下らねェ。
下らねェ「現実」。
だが、その下らねェ現実を作り出したのは、一体誰だ?
誰を恨めばいい? 誰に復讐すればいい? 誰が一番悪い?
このどうしようもねェ憎悪の念を、どうすればいい───?
「<東京>だ───」
「この街に未だ息づく、江戸の守護者だ───」
「お前達を抹殺してまで生き延びようとした、愚かな奴らだ───」
「生き延びて腐り続ける、この世の中のもの、全てだ───」
…だったら全部、この俺が変えてやりゃァいい。
「調べさせたところ、菩薩眼は既に、現世に現れている。」
そうかよ。
それならその女を捜し出す。そして───
「…どうするのだ?」
決まってんじゃねェか。言わなきゃ分かんねェのか、てめェはよ。
「…九角様。あの男をあまり信用なさっては…」
「信用…? 俺が誰を信用するってんだ。」
「………。」
「いいじゃねェか…ヤツが何をしてェのか、俺に本当は何をさせてェのか知らねェがよ。お互い利用するもんを利用すりゃいいのさ。お互いの目的のためにな。」
そう。
「奴」のお陰で、穴ぐらから這い出て、俺達は目的を得たんだからな。
…この世に在る理由、ってヤツをよ。
女は見つかった。
ことごとく俺達の邪魔をする連中の中に。
あの男と共に。
…ああ、全く同じだな。
「前」と。
あいつも、嫌な眼をした男だった。
真っ直ぐ見据えてくる。余計なことまで思い出させる。
あの女は俺達を裏切ったきり戻っては来なかった。
それが一番良い方法だと思ったのだと、泣きながら叫んだ。
…俺が言われたんじゃねェ。
前世なんてものは、俺のものじゃねェ。関係ねェんだ。
なのに、昨日のことのように、繰り返し繰り返し俺の頭に閃き続ける。
…うるせェ。
何だってこんなことになっちまってる? 何で俺はこんなものを背負ってなきゃなんねェ?
「この世の中を変えねば、お前の背負う宿星も変わらぬ───」
だったら変えてやりゃァいい───!!
徳川の奴らが使ったのと同じ手を用いた。
案の定あの女はやって来た。
あの時と同じ───いや、逆、か。
「これで…他の人たちには、手を出さないでくれますね───」
台詞も一緒だなァ、美里葵。笑っちまうぜ。
お前も俺も。
あの男も。
みんな、何も変わってねェッてこった。
わざわざ生まれ直しても、何も変わらずただ繰り返すだけってこった。
…下らねェな。
「菩薩眼」───「<<力>>の源となる女」。
九角家に生まれ出づる、その日を待ち焦がれ、恐れ、闇の世界に生きてきた俺達───
目の前には、その「<<力>>の源」が、居る。
俺達を裏切り、死に絶える寸前まで追い込んだ女。
俺が送り届けてやった「念」がどこまで届いたのかは知らねェが、ある程度解っている筈だ。自分が前世でしでかしたことも、そのことで九角家の運命が全て狂ったことも。
自分が何を選び、何を捨てたのかも。
「───龍麻くん───!!」
引き寄せ、抱き締めてみたら、声を殺して叫んだ。そして慌てたように口元を抑える。
捨ててきた仲間だ。捨ててきた男の名前だ。
…それで? 何を期待している? 救いに来ることをか。
奴らを救うために敵の元へ単身乗り込み、そして奴らに救われることを望むのか。
なんと愚かな女。
「前」もそうだったのか。
あの時もお前は、一人敵陣に投降し、それでも九角が救けに来ることを…望んだのだろうか?
…違ったよな…。
あの時お前は、感情も理性でも、「向こう」を選んだんだよなァ。
鬼道に走りすぎ、力を持ちすぎた俺達を諫めるために。
力を恐れて弾圧を始めた徳川家から俺達を救うために。
…そして、あの男のために…。
今とは違う。
今のお前とは全然違う。
…そりゃァそうだよな。
俺は前世の俺じゃねェ。だから、お前も前世のお前じゃねェ。…そうだった…な。
…それなら今は。
何故「お前」はここに居る…?
美里葵は真っ直ぐ俺を見返した。
恐怖に青ざめた顔で、涙を溜めた瞳で。
顰められた眉に表れているのが、憐れみであることを俺は知る。
───何てツラしやがるんだよ。
何が言いてェんだ。
てめェもか。
てめェもあの男と同じだ。どこに居ても汚れねェ。
何故だ───!?
正面から闘ったって、俺は負けやしない。
俺だって間違っちゃいない、俺だって腐っちゃいない。
あの女に、それを見せなければ。
俺はお前に憐れまれるような男じゃないってことを。
そうでなければ。
手に入るものも、永遠に入らねェ。
「外法ってヤツを───見せてやるぜ───!」
本当に嫌な男だ。
自分の女を連れ去った「敵」を、どうしてそんな眼で見やがる。
あの女と同じ眼だ。
静かに。強く。残酷に。
突き刺して剥ぎ取る視線。
「もう止めろ」と、語らぬ眼が語る。
───うるせェッ!!
何を恨むか、だって? 知らねェな、そんなこと。
取り澄ました顔の男が、ようやくマジで俺を殺す気になった。激しい感情が迸り、拳に乗せて打ち出される。
「美里は…返してもらう!」
へッ。そうこなくちゃなァ。
恨めよてめェも。俺を憎め。少しは解るだろうぜ───俺の気持ちがよ!
「龍麻サン! ビシッと決めろよ!」
俺をガキの頃から可愛がってくれた男が、斃れる。
「君の実力を見せてやりたまえ。」
ただ朴訥に、盲目的に従ってきた男が、砕ける。
「ダァリ〜ン、がぁんばってェ〜。」
「うふふ…勝ったら、イイコトしてあげるわ。」
人を食った態度を最後まで変えなかった男が、燃え尽きる。
「お前の拳は、誰にも負けない筈だ!」
「龍麻クンッ! 葵のために…頑張って!」
哀しげに俺を見つめ続けていた女が…風に溶ける。
「…行けッ、ひーちゃん!」
九角の掟を、俺の宿命を、成すべきことを。俺をずっと諭し続けてきた男が、散る。
仲間がいて、信頼されて、自信があって、信念があって、ああ大したもんだな緋勇龍麻。
だから、汚れねェのか。
だったら、俺はどうなんだ。
…もう、どうでもいい。
終わったんだからよ。
これも、悪くねェじゃねェか。
何かに怯え、隠れて細々と生き続けるより。
華やかに散った方が。
生き延びて生き延びて干からびて死ぬより。
盛大に、血と肉を生々しく引き裂いて死ぬ方が。
───目醒めよ
このまま俺も、東京に巣くう闇の一部になるのか。
原形をとどめない憎悪の念となるのか。
…どうでもいいけどよ。
───目醒めよ
何もかも解っていた。
誰のせいでもない、現在の東京の姿。
こんなものを手に入れても、俺達の安住の地になんかならねェ。
誰の敵討ちにもならねェ。
…それに…
あの「前世」も「憎悪」も「怨恨」も、俺のものじゃねェ。
───目醒めよ
だったら…
何故、俺は、こんなことを……?
───目醒めよ
……………………… う る せ ェ ッ ! ! !
俺は───俺は───俺は……ッ!!
再び開いた俺の目に、暗闇に浮かぶ紅い月が視えた。
…「奴」は…何者だったんだ?
2000/05/17 Release.