拾伍
之参

紅イ月

藤間様に捧ぐ

───目醒めよ

 うる…さい………………

───目醒めよ

 …黙………………

───目醒めよ

   ………………………うるせェッ! ! !


 あの男を見たのは、いつだったろうか。
死にかけた蝉の鳴き声が鬱陶しかったから、夏だったんだろうか。

 東京ってヤツは、暑苦しくて臭せェ、汚ねェゴミ溜めのような街だ。
生きている連中も死んでいる連中も、みんな同じように濁り、腐ってやがる。

 男は、涼しげな顔で歩いていた。
このゴミ溜めで、何があっても自分だけは正しい道を歩いているッてな顔をして、すまして歩いてやがったのだ。
あの女を従えて───


 九角家を再興するだとか、天下を取るだとか。
そんなことはどうでも良かった。
遠い昔、時の権力者ってヤツに負けたのも、九角の力が弱かっただけのことだ。
 未だに、産まれるか産まれないか分からねェ女のために、ひっそりと生きている。
 それくれェ弱かった。

「九角様───!」
 俺を九角家頭領として敬い、慕い、付き従い、護り、…諫めようとする奴ら。
こいつらは、生まれる前から俺のものだった。
そして君主と仰ぐこの俺に、繰り返し語って聞かせた───九角家の使命と、宿命を。
「うるせェな! 俺はやりたいようにやる!」
「しかし、九角様…」
「誰が決めた? 何で俺達が、モグラみてェに息を殺して生きていかなきゃなんねェんだ? 誰が怖えェッてんだ!?」
…………。」
「いいじゃねェかよ。ここまで弱くなった血を、一体何のために守るッてんだ。俺達は、俺達の思うままに生きりゃァいい。好きなだけ生きて、殺して、手に入れて、女を抱いて、死ぬときゃ死ねばいい。何百年も前のことなんざ、この俺には関係ねェよ!!」
……九角様…。」


 そうして、「奴」が現れた。

 知りたくもねェ話を。

 小さい頃から繰り返し聞かされてきた、下らねェ昔話。
 ───「前世」を。

 現実に引きずり出して、俺の中に、埋め込んだ。

───膨大なまでの怨嗟の念と共に。

 下らねェ。
下らねェ「現実」。
だが、その下らねェ現実を作り出したのは、一体誰だ?
誰を恨めばいい? 誰に復讐すればいい? 誰が一番悪い?
このどうしようもねェ憎悪の念を、どうすればいい───

「<東京>だ───
「この街に未だ息づく、江戸の守護者だ───
「お前達を抹殺してまで生き延びようとした、愚かな奴らだ───
「生き延びて腐り続ける、この世の中のもの、全てだ───

  …だったら全部、この俺が変えてやりゃァいい。

「調べさせたところ、菩薩眼は既に、現世に現れている。」

  そうかよ。
  それならその女を捜し出す。そして───

「…どうするのだ?」

  決まってんじゃねェか。言わなきゃ分かんねェのか、てめェはよ。

「…九角様。あの男をあまり信用なさっては…」
「信用…? 俺が誰を信用するってんだ。」
………。」
「いいじゃねェか…ヤツが何をしてェのか、俺に本当は何をさせてェのか知らねェがよ。お互い利用するもんを利用すりゃいいのさ。お互いの目的のためにな。」
 そう。
「奴」のお陰で、穴ぐらから這い出て、俺達は目的を得たんだからな。
 …この世に在る理由、ってヤツをよ。

 女は見つかった。
ことごとく俺達の邪魔をする連中の中に。
あの男と共に。
 …ああ、全く同じだな。
「前」と。

 あいつも、嫌な眼をした男だった。
真っ直ぐ見据えてくる。余計なことまで思い出させる。

 あの女は俺達を裏切ったきり戻っては来なかった。
それが一番良い方法だと思ったのだと、泣きながら叫んだ。
 …俺が言われたんじゃねェ。
前世なんてものは、俺のものじゃねェ。関係ねェんだ。
なのに、昨日のことのように、繰り返し繰り返し俺の頭に閃き続ける。

  …うるせェ。

 何だってこんなことになっちまってる? 何で俺はこんなものを背負ってなきゃなんねェ?


「この世の中を変えねば、お前の背負う宿星も変わらぬ───



  だったら変えてやりゃァいい───!!


 徳川の奴らが使ったのと同じ手を用いた。
案の定あの女はやって来た。
あの時と同じ───いや、逆、か。
「これで…他の人たちには、手を出さないでくれますね───
台詞も一緒だなァ、美里葵。笑っちまうぜ。
お前も俺も。
あの男も。
みんな、何も変わってねェッてこった。
わざわざ生まれ直しても、何も変わらずただ繰り返すだけってこった。
 …下らねェな。

 「菩薩眼」───「<<力>>の源となる女」。
九角家に生まれ出づる、その日を待ち焦がれ、恐れ、闇の世界に生きてきた俺達───
 目の前には、その「<<力>>の源」が、居る。
 俺達を裏切り、死に絶える寸前まで追い込んだ女。
俺が送り届けてやった「念」がどこまで届いたのかは知らねェが、ある程度解っている筈だ。自分が前世でしでかしたことも、そのことで九角家の運命が全て狂ったことも。
 自分が何を選び、何を捨てたのかも。

───龍麻くん───!!」
 引き寄せ、抱き締めてみたら、声を殺して叫んだ。そして慌てたように口元を抑える。
捨ててきた仲間だ。捨ててきた男の名前だ。
 …それで? 何を期待している? 救いに来ることをか。
奴らを救うために敵の元へ単身乗り込み、そして奴らに救われることを望むのか。
なんと愚かな女。
 「前」もそうだったのか。
あの時もお前は、一人敵陣に投降し、それでも九角が救けに来ることを…望んだのだろうか?

 …違ったよな…。
あの時お前は、感情も理性でも、「向こう」を選んだんだよなァ。
鬼道に走りすぎ、力を持ちすぎた俺達を諫めるために。
力を恐れて弾圧を始めた徳川家から俺達を救うために。
…そして、あの男のために…。
 今とは違う。
今のお前とは全然違う。

 …そりゃァそうだよな。
俺は前世の俺じゃねェ。だから、お前も前世のお前じゃねェ。…そうだった…な。
 …それなら今は。
何故「お前」はここに居る…?

 美里葵は真っ直ぐ俺を見返した。
恐怖に青ざめた顔で、涙を溜めた瞳で。
顰められた眉に表れているのが、憐れみであることを俺は知る。
 ───何てツラしやがるんだよ。
何が言いてェんだ。
てめェもか。
てめェもあの男と同じだ。どこに居ても汚れねェ。
 何故だ───!?


 正面から闘ったって、俺は負けやしない。
俺だって間違っちゃいない、俺だって腐っちゃいない。
あの女に、それを見せなければ。
俺はお前に憐れまれるような男じゃないってことを。
そうでなければ。
 手に入るものも、永遠に入らねェ。

「外法ってヤツを───見せてやるぜ───!」


 本当に嫌な男だ。
自分の女を連れ去った「敵」を、どうしてそんな眼で見やがる。
あの女と同じ眼だ。
静かに。強く。残酷に。
突き刺して剥ぎ取る視線。
「もう止めろ」と、語らぬ眼が語る。

 ───うるせェッ!!

 何を恨むか、だって? 知らねェな、そんなこと。
取り澄ました顔の男が、ようやくマジで俺を殺す気になった。激しい感情が迸り、拳に乗せて打ち出される。
「美里は…返してもらう!」
 へッ。そうこなくちゃなァ。
恨めよてめェも。俺を憎め。少しは解るだろうぜ───俺の気持ちがよ!


  「龍麻サン! ビシッと決めろよ!」
俺をガキの頃から可愛がってくれた男が、斃れる。

  「君の実力を見せてやりたまえ。」
ただ朴訥に、盲目的に従ってきた男が、砕ける。

  「ダァリ〜ン、がぁんばってェ〜。」
  「うふふ…勝ったら、イイコトしてあげるわ。」
人を食った態度を最後まで変えなかった男が、燃え尽きる。

  「お前の拳は、誰にも負けない筈だ!」
  「龍麻クンッ! 葵のために…頑張って!」
哀しげに俺を見つめ続けていた女が…風に溶ける。

  「…行けッ、ひーちゃん!」
九角の掟を、俺の宿命を、成すべきことを。俺をずっと諭し続けてきた男が、散る。

 仲間がいて、信頼されて、自信があって、信念があって、ああ大したもんだな緋勇龍麻。
 だから、汚れねェのか。
 だったら、俺はどうなんだ。


 …もう、どうでもいい。
 終わったんだからよ。

 これも、悪くねェじゃねェか。
 何かに怯え、隠れて細々と生き続けるより。
 華やかに散った方が。
 生き延びて生き延びて干からびて死ぬより。
 盛大に、血と肉を生々しく引き裂いて死ぬ方が。

───目醒めよ

 このまま俺も、東京に巣くう闇の一部になるのか。
 原形をとどめない憎悪の念となるのか。
 …どうでもいいけどよ。

───目醒めよ

 何もかも解っていた。
 誰のせいでもない、現在(いま)の東京の姿。
 こんなものを手に入れても、俺達の安住の地になんかならねェ。
 誰の敵討ちにもならねェ。
 …それに…

 あの「前世」も「憎悪」も「怨恨」も、俺のものじゃねェ。

───目醒めよ

 だったら…
 何故、俺は、こんなことを……

───目醒めよ

   ……………………… う る せ ェ ッ ! ! !

   俺は───俺は───俺は……ッ!!


再び開いた俺の目に、暗闇に浮かぶ紅い月が視えた。

…「奴」は…何者だったんだ?

赤イ月

2000/05/17 Release.