拾伍
之四

発現

Me様に捧ぐ

「じゃ、邪魔だッどけーッ!」
 真神学園3Fの廊下を、必死の形相で走る男が一人。
「な…何だ?」
「蓬莱寺じゃねェか。まァた何かアホやって、犬神にでも見つかったんだろ…」
バカだよなーと笑いながら後ろを見た、クラスメートその1の顔が引きつった。
一緒に笑っていたクラスメートその2も、何事かと振り向いた姿勢のまま固まる。
廊下で束の間の休憩時間を満喫していた最上級生たちが、その地点から廊下の端まで順番にピキピキッと凍り付いていく。
 ……そこには、現実の世界とは別の空間があった。
例えるなら、今年降ってこなかった「恐怖の大王」を具象化したような、アメリカ人なら「キャスリーン台風」とか名付けそうな、キューティー○ニーが空中元素固定装置を作動させているような…ってそれは凄いのかどうか解らないが、とにかく人間から生じているとは思えない、ものすごい量の<<気>>が、新聞部室の前辺りから発せられている。
 <<気>>の中心にいる人物は、周囲に全く意を払うことなくゆっくりと歩いてきた。
…………京一。……止まれ。」
決して大声ではないのに、長く延びた廊下中に響き渡る…正に「恫喝」としか言えないような命令が飛んだ。
必死で逃げていた筈の京一の足が、思わずもつれる。
「…ひ…ひ…ひーちゃん…ちょ、待っ…」
顔を引きつらせ、時々振り向きながら、それでも京一はそのまま階段を転がるように駆け下りていった。
……………。」
普段無表情で、あまり目立った行動を取らない筈の男の背に、何やらどす黒いオーラが立ち上る。
ゴオオッ…という、空気の唸る音を、人々は聞いた。(ような気がした。)
京一を追って階段を下りていく、その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、全員ようやく詰め込んでいた息を吐き出す。
……ブラックホールは存在するんだ…。」
「あたし…仁王様が見えた…。」
「…何にしろ、緋勇をあそこまで怒らせるとは、何やったんだろうな京一のヤツ。」
人々は、見てはならないものを見た気がしたので、忘れることにした。
どうせ悪いのは蓬莱寺だろう、緋勇の怒りも親友をちょっとイタイ目に遭わせれば納まるに違いない───
近くにいなければとばっちりを喰わないであろうことを、一般生徒達は本能で察したのである。伊達に魔人学園に属してはいないのだった。

◆ ◆ ◆

「うふふッ。精が出るわね、龍麻クンッ。はい、ジュースどうぞ。」
……………ありがとう。」
 それは、穏やかで平和な日常の一コマだった。
龍麻に紙コップを渡したのが、アン子でなければ。
「…ちょっと待て、アン子。それは何だ?」
「な…何だとは何よ。ただのジュースじゃないの。」
「ただの…だと? お前が無料で人に何かやるワケがねェ! どういう魂胆なんだよッ。」
「人聞きの悪いこと言わないでよ! あたしは単に、資料整理なんて面倒なこと頼んで悪いなーと思ったから、ねぎらいの意味でサービス精神を発揮してんじゃない。これ以上失礼なこと言うなら容赦しないわよ!」
「…ッてェ…殴ってから言うな、殴ってから!」
 アン子の言うとおり、今日は授業が終わってすぐ強引に新聞部部室に連れ込まれ、強制的に古新聞のスクラップや雑誌の整理を手伝わされている二人だった。…といっても当然京一は、几帳面に新聞の切り抜きをファイリングしている龍麻の後ろでぶつぶつ文句を言うだけで、何もしてはいなかったのだが。
「…ッたく…おい、ひーちゃん。アヤシイから飲まねェ方がいいぜ。コイツのやることは…」
 しかし、頬をさすりながら振り向いた時には、既に龍麻は紙コップに口を付けてしまっていた。
「うっふっふ、さっすが龍麻クン! 些細なことなんか気にしないわよねッ。京一みたいな小人物とは出来が違うのよ、出来が。」
「うるせェなッ……?」
アン子の、妙に嬉しそうな様子。奇妙な台詞。…やっぱりどうもおかしい。
「アン子…お前やっぱ何か…」
 しかし京一が何かを問う前に、事件は起こった。
ぱしゃん、と軽い音を立てて紙コップが落ち、続いて龍麻の持っていた新聞の束がバサバサと落ちた。
…………う…」
滅多なことでは声を上げない龍麻の口から、一瞬苦しげな呻きが漏れる。
「…えッ…た、龍麻クン…?」
胸元を軽く押さえて屈み込んだ龍麻の肩を支えながら、京一は叫んだ。
「ひーちゃんッ! …アン子ッてめェ! 何入れやがった!?」
「え…い、いやその…ど、毒じゃないわよ? そのう…み、ミサちゃんが…」
「裏密!?」
 アイツが絡んでるならじゅーぶん毒だろうが! と怒鳴る京一に、困惑しながらアン子が続ける。
「いや…何てのか…その、び、媚薬みたいなのの実験だって…だから…」
「ビヤク…? って何だ…?」
「まあ、一種の惚れ薬みたいな…で、でも…」
「ほッ……惚れ薬だァッ? …………ってことは…」
 イヤ〜な予感に囚われたその時。
タイミング良く、京一の両腕がガシッと掴まれた。
京一の顔が凍り付く。アン子の笑顔もひきつる。
「…ま、まさか……。」
「ひ…ひーちゃん…?」
怯えながら腕の中の男を見下ろすと、ゆっくり見上げてくる視線にぶつかった。
その瞳には、普段より強い…いや、普段とは違う異常な光がある。
……………キョ…ウイチ。」
 腕を掴んでいる両手の力と、その激しい光に。
京一は生まれて初めて、真の髄から恐怖に駆られた。
………ッッッッギャーーーーッ!!!」
悲鳴を上げ、部室のドアを蹴破らんばかりに逃げ出した京一の後を追って、龍麻もゆっくり出ていく。
 後に残ったアン子が呟いた。
「…変ね…。惚れ薬みたいなものだとは言われたけど…ミサちゃんのことを好きになるような言いぐさだったのにな。…まァいいわ、これはこれで…」
そしていそいそと、二人の後を追う。当然、手にはしっかり一眼レフ・連射OK400mm望遠レンズ付カメラが握りしめられていた───

 とにかく裏密だ。アイツに解毒剤かなんかをもらわないと。
ということに京一が気付いたのは、1階まで逃げてきてしまってからだった。流石はサルである。
(しまったな…まあいい、まだひーちゃんは追いつかねェだろ。真ん中の階段使って降りて来ちまったから、渡り廊下つっきって東のはじの非常階段使って2階に上って、そっから霊研…)
 そこまで考えたときだった。
びぃん、と奇妙な耳鳴りがした。
と同時に、京一の横の中庭に面した窓が、ぱん、と割れた。
外側に弾け飛んだガラスが、地面に落ちて派手な音を立てる。
ゆっくり振り向くと、階段のふもとに立つ龍麻が、こちらを睨んでいるところだった。
 ───威圧感。
30mほど離れた位置でも、気圧されるほどの。
………何故…逃げる。」
 割れ残った窓がびりびりと震える。
「…いや…その…」
思わず両手を「降参」するように掲げながら、京一はそれでも後ずさり続けた。
……止まれ。」
また「命令」が京一の耳に突き刺さった。
戦闘中ですら聞いたことがない程の強い響き。
…冗談じゃねェッ。
恐怖もあるが、とにかくこんな状態でも、龍麻の<<力>>に屈するのは嫌だ。
 まずは何が何でもこの場から逃げないと…と踵を返し、走り出そうとしたとき。
京一の頬をかすめて「爆風」が飛んだ。
ほんの数m先の壁に、瞬時にヒビが入る。表面が紙細工のように弾けるのを、京一は呆然と見つめた。
鈍い音がして、砕けたコンクリートと埃の粉塵が舞う。
「ちょ…ちょっと待てよ…」
全身からざーっと血の気が引いた。
 油の切れたぜんまい仕掛けの人形のようにギギギっと振り向いた京一の目に、闘気を立ち上らせた龍麻の姿が映る。
あまりの<<気>>の量に、もうもうと立ちこめた粉煙が、龍麻を中心に渦を巻いている。
先ほどのガラスも、今の風も、龍麻の「剄」なのだということに気付いて、京一は震え上がった。
「剄」とは、生物の発する<<気>>と<<気>>がぶつかり合い、様々な効果───相手を攻撃する力や、逆に身体を癒す力───を与える現象である。あくまで、<<気>>を持つ相手に対し効力を発揮するものなのだ。
 だが、これは。
龍麻の<<力>>は窓ガラスや壁を、易々と打ち砕いてしまった。
こんな無機物を<<気>>の力だけで破壊できるものなのだろうか。
(…いや。普段の龍麻は出来ない筈だ…少なくとも、俺がみた範囲では、そこまで化け物じみた力は持ってなかった。)
だとしたら、裏密の薬のせいで正気を失っているか、何か他のものに取り憑かれているのか。
どっちにしろ「龍麻」でないのなら、説得も不可能だ。
背にうすら寒いものを感じながら、京一は少しずつ後ずさった。何とか時間を稼いで、龍麻に隙が出来るか、薬が切れるのを待たねばならない。

 瓦礫を踏みしめたまま、龍麻はそんな京一の様子を見て立ち止まっていた。
諦めたかな、と一瞬安堵したその時。
龍麻はゆっくりと、その前髪を掻き上げた。
………ッ!!」
他人を圧倒する光を秘めた両の眼。
それを厭う持ち主の穏やかな心によって、普段は抑えられている筈の。
だが、今、その威力は全く隠されることなく、まっすぐに京一を貫いた。
土下座して降参したい気持ちがどこからともなくわき上がり、必死でかぶりを振って抵抗する。
「…まだ…逃げるのか…?」
当たり前だ! 正気を取り戻せ龍麻!! …という台詞は、喉が干上がって全く出てこない。
 苛烈な色を宿した瞳が、スッと細められた。
と同時に、大した構えもとっていなかった龍麻の左手から、気塊が放たれた。
空気が歪むのを感じて、咄嗟に身を伏せ、頭を抱える。
間髪入れず、壁に埋め込まれた柱と天井の梁が音を立てて崩れてきて、京一の立っていた位置の僅か50cm後ろにバリケードを作り上げた。鎮まりかけていた粉埃が、また激しく渦を作る。
 殺す気か、と一瞬ヒヤリとしたが、狙われた位置が自分のいた場所よりずっと上だったことに気付いた。
最初から、退路を断つ目的で……
 ぞっとした。
───これは、龍麻だ。
 裏密の薬のせいで潜在能力が顕れたのか、普段の龍麻が<<力>>をセーブしているのか。
いずれにせよ、この冷徹な判断力、咄嗟の機転、的確な攻撃…正気を失っている人間に出来る芸当ではない。
 逃げ場を失った絶望と混乱で、うまく頭が回らないうちに、龍麻の腕が京一の両肩を捕らえた。
………京一。」
「ま…待て、ひーちゃん…は、話せば解る、だ、だから落ち着いて…」
「京一…」
まさしく「目と鼻の先」まで、龍麻の端正な…しかし異様にギラついた顔が近づく。
「ちょ…ちょ…ちょっと待…俺まだ…心の準備が…ッ」
何の心の準備なのか分からないが、声をひっくり返らせながら龍麻の体を押し止める。
しかし、その腕も易々と捻り上げられ、抵抗の手段すら京一は失った。
「ひッ………
見目よい唇が、目の前でゆっくりと開かれる。
ゾクリと背筋に何かが走り、京一は思わず目を閉じた。

…………あつは……なつい…な。」

…………………は?」
 何を言われたのか理解できず、目を開いたそのすぐ前に、龍麻の顔がある。
普段全く表情を見せることのない顔が、何故か切なげに歪んでいるのをみて、心臓が大きく跳ね上がった。
……………ツッコめ。」
…………………へ?」
それでなくとも異常なシチュエーションで、見たことのない顔を眼前にし、聞いたことのない台詞を唱えられ、完全にパニックに陥っている京一に、その意味が伝わろう筈もない。
龍麻の顔が、一層悲しげに歪む。
………して…オレじゃ…」
 ぐん、とその顔が更にアップになった。
「ぎゃー!! 下はイヤダーーーーッ!!!」
上ならええんかい、とツッコミを食らいそうな叫びを上げた京一の肩に、ぽすん、と龍麻の頭が落ちた。
 力を使い果たしたのか、裏密の薬の効果が切れたのか、気を失ったらしいということに京一が気付いたのは、たっぷり5分ほど意味のないことを喚き散らしまくった後だ。
「たッ…助かった…」
思わず涙を浮かべて安堵する京一であった。
「へッ…ほ、埃が目に浸みやがるぜ…」

 コンクリートや木片、ガラスが飛び散り、未だ粉塵が舞い散る真神学園1Fの渡り廊下に倒れている男二人を激写し終えて、アン子は振り向いた。
「なかなか面白い見物だったわ、ミサちゃん! これも売れそうよ〜ふふふッ」
……ヘンねェ〜。ミサちゃんの計算では〜、ひ〜ちゃァんの〜隠された欲望が〜表に現れる〜筈だったのに〜…。絶対〜、ミサちゃんに〜告白に来ると思ったのにな〜。分量〜間違えたかしら〜。…いいわ〜、次こそ〜…うふふふふふ〜。」
「その意気よ、ミサちゃん! あたしは記事にさえなれば何でもいいのよ。ガンガン協力するから頑張ってね!!」
「うふふふふ〜。ミサちゃん、頑張る〜。う〜ふ〜ふ〜ふ〜。」

 気を失いながらも、(京一…どうしてオレには、ツッコミ入れてくんないんだよう…しくしく…)とか嘆いている龍麻の心など、当然誰にも伝わることはなかった。
 ついでに言うと、一部始終を見てしまった犬神が、このフロアの修理をどうやって秘密裏に処理しようかと頭を痛めていたり、裏密の台詞を聞いてしまった醍醐が人知れず(やはりアレが龍麻の真の願いなのか〜ッ)と胃を痛めていたりしたが、それはほんの余録である。

2000/08/22 Release.