邪神街

 この十日ほど、龍麻はおかしかった。
ぼんやりと窓の外を見ていることが多くなった。授業中も、何も聞いていないのか、答えられないことが続いた。話しかけても、一度で振り向くことがない。
何かに苛ついているのか、机をトントンと指で弾いてみたり、溜息をついたりする。いずれも、以前の龍麻には見られなかった行動である。
 何より。
あの目が。龍麻の双眸が、その輝きを弱めていた。
前髪で覆っていてさえ、強く周りに影響を及ぼすようだった光が、今はあまり感じられない。
 ───比良坂紗夜が炎に飲み込まれてから、二週間。
(そんな、簡単に整理がつくとは思ってなかったけどよ。)
 京一の理解する限り、龍麻の、紗夜に抱いていた気持ちは、少なくとも「恋」ではなかった。
だからといって、あっさり忘れられるものでもないだろうが、普段およそ感情を表に現さない龍麻だけに、こんなに自分を乱すほど衝撃を受けたのかと思うと、複雑な想いに駆られる。
何とかして、立ち直らせてやりたい。
「こんな時、『鬼道衆』が襲ってきたら、ひとたまりもないな。」
醍醐が言う。
そういう問題じゃねェだろ、という言葉を飲み込む。
 龍麻が苦しんでいる。
友人として放っておけないだろう。鬼道衆なんか関係ねェ。
京一は、何か気を紛らわせられることを、と色々考えた。
だが…
(何も、知らねェんだ。ひーちゃんの好きな事、やりたい事、何一つ。)
 窓の外を見やり、京一は目を細めた。
じりじりと紫外線を吐き出す太陽が眩しい。
暑くなってきやがったな───

「ひーちゃん。ひーちゃんッ!」
 声を掛けると、閉じていた目をゆっくりと開く。
普段なら、席に着いているときも、頭の先まで伸ばされた姿勢が保たれているのに、今は僅かに首を垂れて、疲れ切ったように動かない。
………なァ、明日俺とプール行かねェか?」
反応はなかった。
 内心溜息をつきながら、龍麻の横に回って肩を抱く。
明日は休日───
学校にいる時はともかく、あのマンションで独り、何をして過ごすのか。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなったのだ。
何も思いつかなくて、結局自分の行きたいところに連れ出してしまえ、という結論に達した。
気が晴れるかどうかは、行ってみなけりゃ分からねェけどな。外に出て、思いっきり汗をかいて、疲れるまで泳いで、そうすりゃ少しは…。
 龍麻が、ようやく京一の方を見た。
少しは脈があったかと、嬉々として続ける。
「俺さあ、い〜とこ知ってんだよ。ちょっと、耳貸せッ。」
龍麻の耳元に顔を寄せ、内緒話をするように声をひそめた。左手は肩においたまま、さり気なく右手も龍麻の右腕に添える。これで、少しでも変化があれば、すぐ分かる筈だ。
 龍麻が、ナンパだの女子大生だのに興味を持つとは思っていないが、そういう京一の目的に付き合わされる方が、ヘタに気を遣われるよりもマシだろう。京一はそう判断して、適当なことを話し続けた。
 ゆっくりと───龍麻の目が伏せられる。四肢から力が抜けていくのを、両の手から感じ取る。
興味がないからか? …それにしても、緊張が解かれていく様が伝わってきて、京一は混乱した。
 長く、色濃い睫毛。閉じられた瞼が前髪の奧で見え隠れする。
聞いてねェのか? くつろいでんのか? …ったく分かんねェ!
耳に噛み付いてやろうか、と苛立っていたとき、突然真後ろから声がした。
「…ふ〜ん。誰に内緒なのかな〜?」
「うわっ!!」
驚いて振り向くと、小蒔がすぐ後ろで、大げさに耳を側だてるような格好で立っていた。
「げッ!! こッ…小蒔ッ。」
 …実行しなくて良かったぜ。
「へえ〜、ふ〜ん。男ふたりでプールねェ〜。」
『男ふたりで』を強調された気がして、益々顔が熱くなる。
違うッ。俺は、ヘタにみんなで行くと大げさになるから…別に、コイツと二人で、とかそういう意味じゃねェッ。
 そーだ、どうせならみんなで行こう、と小蒔が言い出し、美里や醍醐に声をかけた時には、龍麻はもう、いつも通りの無表情で京一たちを眺めていた。
また逃げられてしまった。不可解ながら、いつもと違う反応をした龍麻の真意を、掴み損なった。
 (恨むぜ、小蒔ッ。)

 待ち合わせ場所に来てみると、その小蒔はまだ来ていなかった。
龍麻がただ一人、壁に背をもたれさせて立っている。
…まただ。
感心してしまうほど、姿勢を崩すことのない龍麻が、今は首を深く傾け、目を閉じて壁に身を預けている。
 正面まで近づいて、声をかけた。
焦点の合わない目が京一の姿を捉え、また逸らされる。
 …間が持たない。
あいつら遅えよな、などと愚痴を言っても、聞いていないようだ。
「幸い誰も来てねェし、この際、当初の予定通り、ふたりで行っちまうかッ?」
ヤケになって言ってみると、一瞬目をさまよわせ、唇が一度だけ開閉した。
これは、龍麻が迷っているときのサインだ。
ホッとした。何もかも分からなくなった訳じゃない。
「なんだよ、いいじゃねェか。」
嫌々来たのでもなさそうだ。それならいい。
 気が楽になったところで小蒔達が顕れ、早速港区の芝プールへ向かった。

 全く、何を考えてるんだ。
同じ東京で、観光でもしようッてのか。東京タワーだの増上寺だの、行っても気晴らしになんかならねェだろ。
 醍醐が、龍麻にどうしたいかと聞く。俺はどこかに寄るのも構わんが…などと付け加えつつ、少し龍麻の顔を覗き込むようにしている。
(…たいしょー…お前の気遣い方は、露骨すぎるんだよッ。このバカッ!)
………プールに行こう。」
決断が下る。ホラみろ、やっぱプールだろうが、とホッとした。
「緋勇クンの頭の中も、結局、京一と一緒か…。」
小蒔の言葉にカッとなって、つい言い返す。
「お前なァ───!」
ぎょっとした小蒔の顔を見て、慌てて声のトーンを落とした。
…冗談に決まってるじゃねェか。
小蒔は自分のことには相当鈍いが、仲間に対しての気遣いは、時々京一ですら、救われる思いがすることもある。龍麻が今どういう状態なのか、小蒔なら分かっている筈だ。
 俺も気を遣いすぎだな。軽く深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
その時───その男がやって来たのだった。

「こいつ…新手の宗教かナンかか?」
 さあ、と小蒔が応える。
小蒔が美しいだの髑髏の上に座るだの、不気味なことを呟く男が、有名な詩人であると判明したところで、京一の評価が変わる筈もない。
「ところで、そこの君───
しかも、美里と小蒔にばかり話しかけていたくせに、突然後ろにいた龍麻に声を掛けた。
(おいおい、見境無しか!?)
また意味もなく苛ついてくる。
 何を言いたいのか、海が好きかと訪ねる水岐に、コクリと頷く龍麻。それは、いつもと同じように、子供っぽさを漂わせる仕草だ。少しは警戒しろ、と余計腹が立つ。
「今度君のために詩を作ろう」だと!? 完全に口説きにかかってるじゃねェかッ。
 京一や醍醐を無視し、龍麻にだけ妙な質問をする、水岐という男───
突然、嫌な予感が閃く。京一特有の勘が、危険を告げたのだ。
こいつの言うことは、何かに───誰かに似ている、と。

 強引に話を断ち切って、その場から離れる。
人間の犯した罪。
美しい世界を壊した報い…
もうすぐ世界は、海の眷属によって支配される───
 京一は思い出した。アイツだ。唐栖と似ているのだ。
何事もなかったように振る舞いつつ、龍麻を振り向く。龍麻は、去り際に水岐からもらった蒼い宝珠を見つめていた。
「そんな気味悪リィの、捨てちまえよッ」
何故、唐栖と同じようなことを語り、世界の破滅を唱う男が、よりによって「龍麻」に、こんなものを渡すのか。益々不安が大きくなる。
しかし龍麻は首を振り、珠をポケットにしまった。
呪われてっかも知んねェぞ、と食い下がろうとしたとき、醍醐が腕を引っ張った。
身をかがめて、ヒソヒソと囁いてくる。
「…お前…そんなものにまで妬かなくても、いいんじゃないか?」
………………ッッ!!
「だ、醍醐ッ! な、お、俺はただッ」
「いや…別に構わんのだがな、あまりに不自然だぞ、京一。」
………。お前に言われたくねェぞ。
どうも妙な誤解をされているのは具合が悪いが、今の不安を説明しても仕方がない。
 …もういい。とにかくプールに着いて、それからだ。今のことは、ひとまず忘れておくことにした。
(しかし、醍醐…てめェも恨むぞッ。)

「いるいるッ、若いおねーちゃんたちがいっぱいッ」
 わざとはしゃぐ。それが、京一の日常だから。
素早く着替えを済ませ、残りの二人を促す。
「全く、子供か。お前は。」
「うるせェッ、麗しいおねーちゃん達が俺を待ってるんだぞッ!」
呆れて首を振る醍醐の陰で、脱いだ服をキチンと畳んでロッカーにしまう龍麻が見え隠れする。
あのとき、紗夜の兄に付けられた傷は殆ど残っていない。
引き締まった体躯には似つかわしくない、肌の白さ───
(仙台美人、てヤツか?)
自分の発想に思わず吹き出しそうになりつつ、もう一度京一は二人に声をかけた。
「オラッ、とっととしねェと置いてくぞッ!」

「先に水に入ってようぜッ。」
 首を振ってとどまる龍麻に、無理にでも引きずって行きたい衝動を抑え、「義理堅えなあ」などと言って笑って見せる。
「それじゃ、俺たち二人で行こうぜ、醍醐」
「あ、ああ…」
しかし…と言いかけて、心配げに龍麻をまた覗き込もうとする醍醐の腕を掴むと、無理矢理歩き出す。
「ひーちゃんは早く美里の水着姿が見たいんだろうよッ。」
「…? おい、京…」
「しッ」
醍醐をプールに突き落とし、自分も飛び込む。
「ぶはッ。お、おい京一! 何だと言うんだ、一体!」
「…喚くなッての。お前、あれじゃ気ィ遣いすぎだぜ。」
言葉を詰まらせ、醍醐が眉をひそめる。
「…そうか? だが、一人で置いてくるというのは…」
「やり過ぎちまうと、重荷になんだろーがッ」
…………
 水に揺らめく太陽光の反射が眩しい。
頭をグシャッと掻きながら、醍醐が苦笑した。
「…ふッ…。全く…。京一、お前は余程、龍麻が好きなんだな。」
「そーゆー解釈はヤメロッ! 大体さっきのだって、全然違うんだからなッ!」
破顔一笑、醍醐が豪快な笑い声を立てる。
「分かっているさ。それに龍麻もな。お前に感謝していると思うぞ。」
どこまで「分かって」いるというのか。腹立ち紛れに、思い切り水をぶっ掛けてやった。

 思いがけず、高見沢や藤咲に会ったり、恐ろしいことに裏密の水着姿を拝んでしまったりして、なかなかゆっくり遊んでいられない。
しかし、舞園さやかの撮影会を見ることが出来た京一は、既にご機嫌だった。
遅い登場の美里と小蒔が、それぞれ龍麻と醍醐に水着姿を見せている。美里が微笑んでいる。
その、少し頬を染めた恥ずかしそうな笑顔が、ふとあの光景を思い起こさせた。
 …今度、どこか行きませんか…
 …ああ…必ず………
慌てて頭をブルブルと振る。
俺が引きずっていてどうする。一番辛いのは龍麻なのに。
 その後、偶然ルポライターの絵莉に出会った。彼女が何の事件を追っているのかは気になったが、とにかく今は、腹が減るまで遊ぶことだ。
 ようやく5人揃ってプールに飛び込んだ。
小蒔に水をかけられ、屈託無く笑う美里。小蒔も嬌声をあげている。
そんな二人を眺めやりながら、満足そうに醍醐も笑っている。
後ろを見ると、少し離れた場所に龍麻が立っていた。濡れた前髪を掻き上げ、ぼんやりと水面を見つめている…
「ひーちゃんッ。お前にも貸してやるから、醍醐を押さえろッ!!」
声をかけると、弾かれたようにこちらを向いた。
醍醐に背中から飛びつきながら、近づいてくる龍麻の腕を掴み、「ホラッ、手伝え!」と引っ張る。
「ばッ、馬鹿ッ!! やめろ、お前らッ!!」
「いいぞッ、京一、緋勇クン!!」
更に小蒔が参戦して、既に大騒ぎになっている。
醍醐のうめき声。水飛沫。小蒔の哄笑。少し離れたところから、美里の、鈴の音のような笑い声も聞こえる。
早く手伝えよ、と龍麻を振り向いた。

 ……………

 恐らく…全員が、殆ど同時に、龍麻を見たのだろう。
京一の肩と、醍醐の頭に掴まっていた、小蒔の手が外れた。
醍醐の首を絞めていた京一の腕の力が抜けた。
そして、京一の腕を引き離そうとしていた醍醐がその手を離し…
三人まとめて、後ろにひっくり返ってしまった。

 けたたましい音を立て、水飛沫が上がる。水中で絡まった互いの身体をどけるのももどかしく、もう一度水面へと急ぐ。
「ひ、ひーちゃんッ…」
「た、た、龍麻」
「緋勇クンッ!?」
 だが、もう龍麻はいつも通りの顔で、全員を見渡している。
…………
思わず京一たちは、互いの顔を見合わせた。
(見間違い、じゃねェよな?)
(お、おう)
「…緋勇クン…あのさ…」
小蒔が、龍麻に詰め寄った。下から覗き込むようにして顔をじっと凝視され、慌てたように顔を背ける。
そして何を思ったのか、龍麻は素早くプールから上がると、小走りに脱衣所の方へ去ってしまったのだ。その背中を京一達は呆然と見送った。
「今…確かに、緋勇クン、笑った…よね?」
 小蒔が呟く。
「…見間違いでなければ、な。」
「ええ…確かに。微笑んでいたわ…」
美里が、ふふっと嬉しそうに笑う。
「はじめて見たわね、緋勇くんの笑顔。」
「…うん。うん、良かった。へへっ、ちゃんと笑えるんだね、緋勇クン。良かった。ね、葵!」
 確かに、見た。
自分たちを眺めていた龍麻が…僅かに。本当に仄かに、微笑ったのだ。
目を細め、口元を綻ばせて。愛おしむような笑顔を浮かべ、京一たちを見つめていた。
 大きな醍醐の掌が、京一の頭をガシガシと掻いた。
「少しは…効果があったらしいな。」
 大有りだ…。
全身の力が抜けた。衝撃で頭が真っ白になっていた。
決して見せようとしなかった、龍麻の素顔をかいま見たのだ…
 ゆっくりと思考が動き出す。
アイツは、俺達に、心をゆるし始めている。
………へッ…へへッ」
見ただろ? あの顔。俺たちを、「仲間」として認め、護ろうとしている者の笑顔。
「へへへッ…ハハハハッ」
ゆっくりと、だが確実に、俺たちは近づいているんだ。アイツの真実に。
充実感で、京一の身体が満たされる。水面に身体を預けながら、今日はツイてんな、と誰にともなく呟いた。

 満足のうちにプールを後にして、新宿へ戻ろうとしていた時だった。
異常なまでの、生臭い匂いが辺りに立ちこめた。
先刻までいたプールの方から悲鳴が聞こえる。
「化け物だとォ!?」
潮の香りと、腐臭。
 …もうすぐ世界は、海の眷属によって支配される───
その言葉を振り払うように、京一は飛び出した。全員が続いてプールへと向かおうとした、その時。
「だめだッ───行ってはいけないッ!」
 鋭い制止の声に、驚いて振り向くと、どこかで見たような学生が立っていた。
小蒔の言葉で、ようやく思い出す。
如月骨董品店にいた、いけ好かないヤツだ。
 ひと月も前だったろうか、ある用でその店に行ったのが始めで、それからちょくちょくと利用するようになっている。
店番にしては尊大で、皮肉たっぷりに語る、嫌味なこの男を、京一は嫌っていた。
何しろ龍麻に対する態度が、一番気に入らなかったのだ。
 その時のことを思い出してムッとしていると、小蒔が慌てて「早く行かないと」とプールに向かって駆け出した。そうだ、プールの化け物のことだった、と思い出し、後に続く。
制止の声が聞こえ、無視しようかと思いつつ振り向くと、如月は、最後に残っていた龍麻の腕を掴んで、もう一度「待つんだ」と言った。
仕方なく戻るが、腹が立つ。
 こういう輩は嫌いだ。
何か知っているらしいことを匂わせ、しかし全部を語らない。フン、と鼻で笑いながら、手を引けと言う。
いきり立って、如月に詰め寄ろうとした京一を制し、醍醐と小蒔が問う。
一体、何者なのか?
「僕は、ただ義務を果たそうとしているだけだ。それに、この一件に他人を巻き込むのは本意じゃない。」
そう言い放ちながら、傍らの龍麻の顔をちらりと見やる。
「義務って…?」
小蒔が眉をひそめて訊いた。
「義務だか何だか知らねェが、ひとりで解決できる問題なのかよッ。」
そう言い放ってから、…気付いた。
 義務。他人を拒絶。
コイツは…一体何を背負っているのか。龍麻と同じような宿命を生きている、ということではないのか?
「そんなもん背負い込んで、おっ死んじまってみろ、それこそ、くだらねェ。」
くだらないんだ、龍麻。一人で背負って欲しくないから、こうやって色々心を砕いてる。ようやく笑顔を見せてもらえるようになったが、まだ信頼されているというには程遠い。
「君達も、そう思うかい?」
 如月が、全員を見渡し、腕を掴んだままの龍麻を見て言った。
少し考えていた様子の龍麻が、自分の腕を掴んでいる如月の手に、そっと自分の手をあてた。
驚いて、如月が龍麻を見つめる。トントン、と軽く手の甲を叩く仕草で、恐らく如月も、龍麻が友愛の情を示していることを理解したのだろう。
「…僕を心配してくれるのかい? ありがとう、緋勇君。」
嬉しそうに微笑みながらも、結局その場を譲らず、パトカーのサイレンが聞こえてきたため、とにかくその場を逃げ出すことになった。
 如月という男は何者なのか。<敵>は何者なのか。
苦手なアン子しか頼れる相手がいないというのも痛し痒しではあるが、この際贅沢は言えない。
今、港区で起きている事件。それ以上に如月の正体。それを掴まねばならない。
 (それでも…今日は一歩前進したからなッ。それで良しとしよう)
多少は気が紛れたと思う。あんな笑顔を見せてくれたのだから。
 ほんの僅かでもいい、龍麻の負担を軽くすること───それが京一の、目下の望みであった。

◆ ◆ ◆

 港区で起きている失踪事件と、青山霊園で目撃されている化け物の噂。アン子の「記者」としての勘は確かに認めざるを得まい。
京一は既に確信していた。この事件は鬼道衆が絡んでいる。「化け物」なぞ、そうそう現れて良いものじゃない。相変わらず目的は分からないが、如月が洩らした、増上寺の『門』というのが気にかかる。
あいつらめ。何をしたいか知らねェが、紗夜ちゃんのような犠牲者を、増やさせるわけにはいかねェ。
「鬼道衆とはケリをつけなきゃならねェけどな。なァ、ひーちゃん」
あくまで軽く聞こえるように留意しながら、龍麻に声を掛ける。
龍麻は大きく頷いた。久々に、前髪の隙間からくっきりとした意志の光が覗いている。
 …ああ、吹っ切れたな。お前はそうじゃないと、な。
「正直言うと、おれは腕が鳴るんだ。あんな奴らを相手に、思う存分ウデを振るってみたい、ってな。」
思わず、口から出てしまった。これは京一の本音だ。何かに飢えていた日々が嘘のような現状。
 決して、人に明かすまいと思っていた渇望を、つい洩らしてしまったのは…
龍麻が、理解している…というように京一の方を向いて、一つ、頷いた。

 今回の事件がつながっているのなら、港区のプールから青山霊園へのルートが在る筈だ。それは、人目に付かず、プールに直結していて、化け物どもが大量に移動できる道。
…下水道。
多少、場当たり的ではあったが、他に情報もないため、先日訪れた芝プールの近くのマンホールから、下水道に侵入した。
 しばらく歩いてみる。足場が濡れていて視界も悪く、壁にはところどころカビや得体の知れない物が張り付いている。水の濁った匂いが漂う。美里のような女子が歩いて良い場所ではない。
 突然、頭痛がしてくるような腐臭が鼻をついた。下水道など入ったことはないが、これは明らかにおかしい。醍醐を振り向くと、それに気付いたらしく、京一に頷いた。
腐臭の出所はすぐに分かった。前方で気配がさざめき、異形の影が現れたのである。
 ───頭部は魚そのもの。大きく飛び出した眼球に、くすんだ灰緑色の光る皮膚。長い手には水掻き───
アン子の説明を思い出す。
確かに、化け物としかいいようがねェな。
 化け物は攫ってきたらしい女を抱えて、のっそりと支水道へ折れ曲がっていく。
後を追って入ると、そこには奴が───水岐涼が立っていた。

 自分の勘が当たったことには、何の感慨も湧かない。京一は水岐を睨め付けた。
どいつもこいつも、「世界は間違っているから滅ぼす」などと短絡的なことを言う。
京一には、「世界を救う」だとか「人類は間違っていない」などという思考はない。ただ、「だからどうした」と思うだけだ。何様になったつもりなのか、自分の力量を遙かに超えたことを、他人に強制する人間が嫌いなだけだ。
 人間には持って生まれた器というものがある。運命などというものは信じていないが、己自身の枠、というものは存在すると思う。その枠を超えるだけの努力をした人間のみ、先に進むことが出来るのだ。
だから、神だの裁きだのという連中も嫌だった。己の道を決めるのは己のみ。それ以外、何が存在するというのか…。
 水岐の身体から、凍り付くような<<気>>が発せられる。まさしく、鬼道衆によって覚醒させられたものの<<気>>。
唐栖や嵯峨野らと同じく、自分の弱い心に負けた者だ。京一は躊躇することなく、木刀を構えた。

 闘いは難なく終了したが、水岐に逃げられては意味がなかった。
龍麻の決断で、青山霊園へ向かう。
夜の霊園など、肝試しと称して遊びに来る馬鹿な学生くらいにしか縁のない場所だろう。
 いつものごとく、女性陣を帰らせようと醍醐が説得を始める。だがいつもと違い、異論を唱えたのは小蒔より美里の方だった。
「ここで、私たちだけ帰るなんてできないわ。」
普段、あまり表に出さない決意の色を見せて、美里の目が真っ直ぐ龍麻に向けられる。理解しているのかどうか、龍麻は美里を見ることなく、そっけなく頷いただけだ。ほんの少しだけ美しい眉を顰めたが、すぐに美里は微笑んで「ありがとう、緋勇君」と言った。
小蒔が「葵…まだ、比良坂サンのこと…」と呟くのが聞こえる。
 ───そういう事か。
小蒔の呟きは、醍醐にも聞こえたのだろう。ちらっと龍麻を見やり、改めて全員で行くことを宣言した。
ここにいる皆が皆、同じ事を想っているのに違いない。
そして、そのことで龍麻がどれほど心を痛めたのかを。
自分の<<力>>が何かを護るためにあるのだとしたら。自分には、彼女のように全てを賭けることが出来るのか。何かを…誰かを護り切ることが出来るのか。
 少なくとも…と京一は考える。俺は、護りたい。何もかも、龍麻を傷つけるもの総てうち砕きたい。安心して笑顔を…あのプールで見せてくれた、穏やかな笑みを、常に見せて欲しい。そのためなら、自分も紗夜のように総てを賭けられる気がする。
 昂りかけた心を誤魔化すように、京一は龍麻に笑いかけた。
「たまにはよ、こういうのもいいんじゃねェの?」

 醍醐が真っ青になって震えているのを笑いつつ、辺りに気を配る。ここは、水岐達の本拠地に近いはずだ。
案の定、墓の一つから例の怪物が姿を現した。また人間を攫いに行くのだろう。半魚人どもが去った後に用心しつつ中を覗くと、地下へ続く階段と、昏い洞窟が奧に広がるのが見えた。
「…君たち。」
 突然の声に身構える。
だが、この落ち着いた、しかしどこか険のある声には聞き覚えがあった。
如月だった。
 忠告を無視したと怒りつつ、如月の目はずっと龍麻を追っている。
何かを感じたのだろうか、龍麻も「如月…」と言い差し、そのまま見つめ続けている。
…一体、如月は何を言いたいんだ?
店を訪ねたときから、いつも妙にもの問いたげに龍麻を見ている。しかし、口に出してはつまらない皮肉や自慢話ばかりで、余計に京一を苛々させた。
何か知っているのだろうか。龍麻に関して。
 君たちを巻き込みたくない、自分は一人で行く、と繰り返しつつ、まだ龍麻から目を離さない。
そんなに引き留めて欲しいんだったら、素直に言やいいじゃねェかよッ!
カッとなって、思わず叫びそうになったとき、龍麻が動いた。
「…オレたちは…既に、友だ…。」
ゆっくりと。如月を諭すように語りかける。いつものように、右手をしっかりと差し出して。
目を見開いた如月の顔が、次第に喜びに輝くのを、京一は複雑な思いで見やった。
(…あれがひーちゃんの良いところなんだけどよ。こんなひねくれ者、一発ぶん殴って根性叩き直したほうがいいぜ。見ろよこの顔。やっぱし一緒に行きたかっただけじゃねェか。)
しかも、口に出してはまだ反発をしている。どこまで素直じゃないのか。
 思わせぶりな態度を取って、冷たく突き放す振りをしてオトコを振り向かせるなんて、勘違いした女がよく使う手じゃねェか。
京一は益々苛ついてきた。
(こんな女々しい奴と手を組んでられっかよッ! ひーちゃんも、今回ばかりは見る目ないぜッ)
それでも渋々と全員の後について洞窟へと足を踏み入れる。
 …これでは集中できないな。少し立ち止まって、深呼吸を繰り返した。

「…何やってんだよ京一ッ。」
「あ、ああ、悪りぃ。なんか落ちてねェかと思ってよ…」
適当な言い訳をしながら龍麻たちの元へ追いついたときに、それは起きた。
 突然。
ガコン、という洞窟に低く響き渡る音がして…黒い塊が落ちてくるのが目に入る。
真下には、龍麻が───
「たっ…」
声をあげる間もない。最も離れた位置にいた京一は、駆け寄ることも出来ない。
(ウソ、だろッ───
絶望的な絵図が脳裏に広がった…次の瞬間。
 足元をチョロチョロと流れていた水流が、突然生き物のように膨れ上がり、竜巻のような奔流となって落岩に体当たりをしたのだ。
落下の衝撃を飲み込み、そのまま弾き飛ばす。洞窟に反響音を残し、岩塊は龍麻の立っていた数メートル横に落とされた。
呆然として誰も動かない。何が起きたのか、理解するにはあまりにも突飛で…幻想的な光景だったのだ。
「…今の…なに?」
小蒔が声を絞り出した。ようやく身体の呪縛から解き放たれた気がして、京一も龍麻を振り返る。
…………!」
 龍麻は無事だった。命に別状はない、という意味においては。
だがその身は、今この場にいる中で、最も京一が忌み嫌っている男によって拘束されていた。
「大丈夫かい」と腕の中の男に囁きかける如月の笑顔が、京一の憤怒の念をかき立てる。
(…てめェッ。何でとっとと手を離さねェんだッ!)
如月を見つめ、「ありがとう」と呟く龍麻の仕草を凝視する。
誰にも分かるまい。如月も分かってはいないだろう。だが、龍麻は今、「心から」感謝していた。如月の目を見つめたこと、間をおかずに応えたこと、有り難うと言った後に微かに頷いたことで分かる。
今も、先ほどの「水芸」の説明を得々として話す如月を、ずっと見つめている…。
 …畜生。
龍麻の気持ちが、如月に通じていないことだけが救いだった。
そんな風に考えてしまう自分に気付き、余計に腹が立つ。
 奧がほの明るくなっていて、怪物どもの<<気>>が満ちていることに気付いたときは、却ってホッとした。
如月の自慢話の腰を折ってやると、全員が闘う前の緊張感に包まれていくのを感じる。
…とにかく、こいつが片づいてからだ。今は闘いに集中しなければならない。

 増上寺の地下の「門」───水岐の言う、ダゴン神のいる異次元に続く穴───が開きかけているのだ。如月が身構えながら、そう説明するのが聞こえる。異様な<<気>>が大きくなっていくのが京一にも感じられた。
奇怪な半魚人たちの群に、恍惚としながら、高らかに呼びかけを続ける水岐涼…その横手から、例えようもないほど嫌な瘴気が溢れ出てくる。
 ふいに、それまで何もなかった空間から嘲笑が生まれた。
滲み出るように、人型が造られる。
「…鬼道衆!」
水角と名乗った鬼面の女は、如月に意識を留めたとき、嘲笑をやめた。
「…おのれ…忌々しき飛水の末裔よ…」
如月の言う「飛水家」と鬼道衆の間に、何らかの確執があるようだ。
鬼道衆は江戸の時代にも、この街を滅ぼそうとしていた。そして、この飛水家とやらに滅ぼされたということらしい。
如月の、両脇に下げた拳が握りしめられるのが目に入った。
 …家の使命だの、血の宿命だの、馬鹿馬鹿しい。背負い切れるならまだいいが、如月は、この半魚人の群に一人で飛び込もうとしていたのだ。これでは単なる自殺行為ではないか。そんな使命など、あって良い筈がない。
水岐の身体が異形に膨れ上がり、醜い魚人へと変化すると、美里が哀しげな悲鳴をあげた。
 それが、戦闘開始の合図となった。

「…蓬莱寺は接近戦に切り替えろ! 桜井、援護だ!」
 龍麻の指示が飛ぶ。どうやら、京一の<<気>>と半魚人どもの<<気>>は質が近いのか、思うようにダメージを与えられない。
「応よッ」
叫びながら、半魚人の懐に飛び込み、袈裟懸けに木刀を叩き込む。
鱗が固く、突きは通じない。専ら打撃の破壊力に頼るしかなかった。
「如月は下がれッ。後方で援護に回るんだ!」
 ふと見ると、どこに隠し持っていたのか短めの日本刀─忍び刀というやつだろう─を手にした如月が、半魚人に切りかかっていた。
「…僕には僕のやり方がある。指示は無用だ」
龍麻の「命令」が効かないのか。一瞬、あの圧力に屈しない精神力は大したものだな、とつい感心する。
だが、龍麻の布陣は決して無駄がない。如月への指示も、意味があってのものの筈だ。
「「如月! 退け!」」
期せずして、醍醐と声が合う。同じ事を考えたらしい。
それも無視して如月は前線で刀を振るい続けたが、一体に止めをさせぬうちに別の二体が寄ってきて、周りを囲まれてしまった。
(…あの野郎、言わんこっちゃない!)
援護するにも、京一の前にも醍醐にも半魚人が寄ってきていてそれどころではない。忍びの者とはいえ、闘いに向いているようには見えない細身の身体が、どこまで持つのか…
 そう思ったときだった。
どこから駆けつけたものか、龍麻が一瞬にして如月の前に飛び込み、その烈しい<<気>>を怪物どもに叩き込んだのだ。三体とも後方に吹き飛び、ヨロヨロと倒れる。
「…救けてくれ、などとは…」
言いかける如月を無視して、龍麻は後方に向かって叫んだ。
「雨紋! 桜井と美里を頼む、そっちの二体をし損じた! 藤咲、醍醐の援護に切り替えてくれ!」
 そして、ようやく如月を正面から見据える。
その瞳は…思いのほか、静かだった。
「…お前の敵は、誰だ? 誰を、倒しに来た?」
 如月が息を呑むのが分かった。目の端に映る、後ろ姿が硬直している。
その返答を待たずして、龍麻はそのまま先陣を切って残りの鬼面の群に飛び込んでいった。ようやく周りの敵を沈黙させた京一も、それに続く。程なく醍醐もやってくるだろう。
 龍麻の一言が、京一のわだかまりも吹き飛ばした。
龍麻の右を護るように、左を護られるように位置を保つ。龍麻の<<気>>の律動に合わせて攻撃する。打力に頼って疲れを感じ始めていた腕も、こうすればまだ保ちそうだ。
しぶとく立ち上がろうとする、残る数体の鬼面どもに向けてもう一度構え直したとき、後方から「伏せたまえ!」という声がかかった。慌てて屈むと、烈しい水流がまき起こり、前方の敵をまとめて押し流した。
壁に激突して動かなくなったのを確認して振り返ると、そこには、先ほどまでとは少し違う…清々しいような、誇らしげな顔をした如月が立っていた。

 断末魔の絶叫を残し、水角の身体が崩れ去る。後には不思議な光を湛えた珠が一つ残され、静けさが戻った。
醍醐が珠を拾う。よく見ると、うっすらと龍の模様が浮き出す。どんな効力があるものかは全く分からないが、<<力>>が封じられているのが京一にも感じ取れる。
珍しく興味を示して、龍麻がその蒼い宝珠を受け取り、眺めていた。
龍麻には、分かるのだろうか。その宝珠の持つ意味が。
 少し離れたところで美里が、人間の姿に戻った水岐の回復を続けている。だが、救かる見込みのないことは明白だった。
この男も鬼道衆の犠牲者だったのだ。ほんの少し、未来を憂いる繊細な心を持ったために。自分の無力を嘆いたために。
洞窟に不気味な振動と地鳴りが響き、脱出をしようとの声が上がっても、美里は水岐の元を離れようとはしなかった。
 そして───
それは、奇跡…だったのだろうか。
美里の身体が暖かい光に包まれると、その腕にいだかれていた水岐の身体が、大気に溶けるようにして消えていく。
硝子のような、淡い光の粉が、天へ上るように舞い散る。
水岐の魂が救われたのだ…その場にいた者全てが、そう悟っただろう。
美里の頬に、一筋の光がこぼれ落ちた。
「自分の道を…信じて進みなさい…か。」
呟きながら開いた瞳には、ある決意のようなものが輝いている。
 美しい、と思った。もし「菩薩」というものが在るならば、この美里のような存在なのかも知れない。神も仏も信じない自分にしては随分殊勝なことを考えているな、と自嘲する。だが、人間の力が到底及ばない「何か」が確実に存在するのだということは、京一も理解し始めていたのだ。

 何事もなかったかのように、静けさを保っている霊園に戻った面々を見る。
美里はもう泣いてはいない。寄り添うようにして立った小蒔は、目を真っ赤にして唇を噛みしめている。
「…とにかく、今は俺たちが生き延びることを考えよう。生きていれば…無念に散った者の敵も討てる。」
脱出するときの醍醐の台詞を思い出す。凶津のことを想ったのかも知れない。醍醐も何かを決意したかのように、厳しい面を崩れた洞窟の入り口に向けていた。
そして…
「緋勇君。僕も、この地を鬼道衆から護る手伝いをさせてくれないか。」
 振り向いた龍麻は、いつもと変わらない静かな顔で如月を見つめた。
「…喜んで。…頼む。」
差し出される右手を両手で握りしめた如月が、心から嬉しそうに微笑う。
「君になら、僕の命を預けられるよ。」
如月の心にあった、総てを拒むような壁は無くなったようだ。
先程の戦闘で、重い宿命を一人で背負うなど、愚かなことと悟ったのだろうか。言葉を飾ることなく、ただその行動を以て誠意を示す龍麻に、心を許したのだろうか。皆がそうであったように。
 ニヤニヤした笑みを浮かべ、頷いている雨紋を見やる。
呆れたように首を振りつつも、嬉しそうな笑顔の藤咲を見る。
自分も例外ではないのだと思いつつ、龍麻に好意を持つ者たちを見渡し、当の本人に京一は視線を戻した。
………いつまで手ェ握ってんだッ如月!」
 笑顔が戻り、空気が和む。「おかしな勘ぐりをするな!」と言い返す如月も、どことなく楽しげだ。
鬼道衆の魔の手は、また悲劇を生みだしていくだろう。それでも───
今ここにある暖かな絆を護ることが、自分に出来る最大のこと。それは、龍麻の負担を軽くすることにもなる筈だ。
ふと見れば、龍麻は空を見上げている。つられて頭上を仰ぐと、星が一つ美しい尾を引いて消えるのが見えた。
(流星に願をかけるなんてガラじゃねェが…)
 護らせてくれ、この俺に。ここにいるかけがえのない人の心を、救ってくれ…

 京一の願いは聞き届けられたのだろうか。控えめに瞬く星々は何も語らなかった。

03/06/1999 Release.