拾四
ノ後

京洛奇譚 (下)

「うおォォォォォォォォッ!!」
 完全な寝坊だった。
どんなに考えても答の出ない疑問に嘖まれ続け、明け方まで寝付けなかったのだ。
(冗談じゃねェッ。これで新幹線に乗り遅れたら、修学旅行の期間中、ずっと一人で残されるんだぜ?)
美里や龍麻と顔を合わせづらい今、それも良いかとも思ったが、そんな理由で退屈な4日間を送るというのも馬鹿馬鹿しい。京一は必死でプラットホームへの階段を駆け上った。
 発車を知らせるベルが鳴り終わる。
最も近い入り口に龍麻の姿を見つけた。閉まろうとするドアを、手で押さえてくれている。
体当たりをするようにして飛び込むと、その京一の身体を支えるように中へと引き入れた。その仕草に労りさえ感じるのは、気のせいなのだろうか。
「は…は…へ、へへ。さんきゅー、ひーちゃん。」
「…ああ。」
いつもと変わらぬその落ち着いた声と、両肩にがっしりと添えられた手が、京一の心に差していた暗い陰を少し和らげた。
 龍麻が転校してきてから半年。共に闘い、護り、過ごしてきた日々は偽りではない筈だった。少しずつ積み重ねてきた信頼でこそ、自分たちと龍麻は繋がっている筈なのだ。
京一は頭にこびりついた奇妙なしこりを、一時忘れることにした。
(そうだよな、ひーちゃん。俺たちは…友人として、信頼できる仲間として、お前と付き合ってるんだよな。そうに…決まってる。)
 マリアの説教をかわして席に着くと、京一はすぐ眠りについた。寝不足のためか、先ほどの龍麻の態度に安心したためか、瞬く間に睡魔に襲われたのだ。
結局京都駅に到着し、隣に座っていた龍麻に揺り起こされるまで、全く目を覚まさなかった。
その肩にずっと寄りかかっていたのに気付いて「悪りィ悪りィ」と謝ったが、特に気にする様子もない。龍麻にとっては些事でしかないのかも知れないのに、ホッとしてしまう自分が情けなかった。

 昼食をとった後、責任をもって行動するように等と注意を受けて解散した。
今から夕食の始まる夕刻6時半まで、班単位での自由行動となる。といっても行くべきコースはいくつか用意されていて、後に班毎にレポートを提出しなければならない。どこをほっつき歩いても良い、というわけではないのだ。
 金閣寺か仁和寺のどちらかと訊かれて、いつも通り龍麻が決を下した。
仁和寺を選んだその意図は解らない。だが「どっちでもいい」と答えた京一に対して、少し咎めるような視線を送ってきたところをみると、何か縁のある寺なのかも知れない。
 美里の説明に相づちを打って、そう言われれば風情があるようなないような…などと思っていた時、あまり顔を合わせたくない人物がやって来た。
犬神は「つまらない騒ぎを起こすなよ」などと、いつもと同様に勿体ぶった言い回しで注意をしている。
小蒔が口を滑らせて、「何も騒ぎは起こらない、もう全部終わったんだから」などと宣言したときも、犬神は聞き咎めもせず、「何を言っているんだ」と言わんばかりに冷笑した。
「どうだ? 緋勇。お前もそうおもうか?」
その問いに、ずっと境内の方を見やっていた龍麻は、軽く首を振って否定を示した。
犬神がニヤリと笑うのを、複雑な思いで見つめる。
…何なんだよ、てめェは。何を知っている? 龍麻に対しても妙に含みのある言い方をするのは、もしかしたら何か関わりを持ってるってことなのか?
犬神が敵だとしたら、龍麻が黙っているわけはない。だが、味方にしてはあまりにも言動が奇妙だ。
 本堂に向かって手を合わせる龍麻の横顔をそっと伺う。
何事かを念じるように眼を閉じた様は、何故か鬼気迫るものさえ感じさせる。
 ───何を願っているのだろうか。
これから起こる事件の解決。仲間の無事。東京の平和…それとも、自分の知らない何か。
犬神の皮肉めいた笑みと、昨夜からの疑いとを忘れ、京一は眼を閉じた。
神仏に頼る趣味は持ち合わせていないが、今は、コイツのために。
(神様、仏様。もし聞き届けてもらえるんなら、…頼む。コイツの願いを、叶えてやってくれ…。)
この寺にどんな因縁があるのかは分からないが、恐らく何か事情があるのだろう。
冗談交じりに何を願ったのかと尋ねても、龍麻は頑として口を割らなかった。

 小蒔に自分の分の団子を分けて、悠然と茶を口に運んでいる龍麻を見つめながら、ぼんやりと考える。
「事件は終わった」という言葉をはっきりと否定した龍麻。「仲間」となる人間を次々見いだす力といい、どのような能力を以てどのような未来を見つめているのだろう。そしてなお、祈りを神仏なぞに捧げるのは何故だろう…。
 じっと見ていたのに気付いた龍麻が、視線を返す。慌てて目を逸らそうとした京一の前に、ひょいと食べさしの団子の串が差し出された。
「…食うか。」
「…あ? あ…お、おう…?」
「やっだなー京一! 人の食べてるものまで物欲しそうに見てさ、全く意地汚いなァッ。」
「お前にだけは言われたくねェぞ、小蒔ッ!」
疑いの眼差しを向けていたのを、軽くいなしたということか。複雑な気分で手渡された団子にかぶりつくと、何故か醍醐が「うう…」と唸った。

 宿へと向かう途中で、今度はちょっとしたトラブルがあった。
道に、一人の老婆が倒れていたのだ。
幸いにも大したことはなかったらしく、助け起こして水を飲ませると落ち着きを取り戻した。
美里の提案に従い、家に送ってやることになったのだが…
そこで山の開発を巡る問題と、それに伴う最近の事件について、道々話を聞かされたのだった。
 京一にとって、余所の山がどう開発されようと関係はない。
ただ、開発を妨害する「天狗」の話には、妙に引っかかるものを感じた。
天狗伝説の山に出没する天狗。これ程うさんくさい話があるだろうか。
 無事に老婆を家に送り届けた後、京一はそれを口にした。
「それにしても天狗、ねェ。どうも、引っかかるな…。」
単純な小蒔などは、何にしろ山を護ろうとしているのには違いない、などと言い張ったが、別の可能性もある。
伝説を利用し、山を護るという名目で悪事を働こうというのかも知れないのだ。
「…どう思う? さっきの話…」
龍麻に尋ねてみると、少し考えてからぽつりと答えた。
…………面白いな。」
その返答に、京一はニヤリと笑った。
「事件」の匂いを感じ取ったのか。それとも、これが龍麻の予想していた事態なのだろうか。

 宿に着き、夕食が終わると、間を置かずに入浴の時間となった。
このような山奥のホテル、しかも村の人間が細々と経営する程度だからと高をくくっていたのだが、料理もそれなりに豪勢だったし、大浴場に至っては、ここまで必要だろうかと思われるほど広く立派だった。
「ふィーッ。やっぱ温泉は、疲れがとれるねェ。」
「年寄りじみたことを…まァ、確かに良い湯だがな。」
 風呂から上がると自由時間となる。適当に友人と遊ぶなり、土産を買うなりして2時間余りを過ごすことが出来るが、勿論外出は禁止されている。
…ヒマだしな。さっきの「天狗」とやらを確かめてくるか。
 村の人間の仕業であれば、それでいい。後は村と開発側の問題だ。
そうではないとしたら…
 龍麻を誘うかどうかちょっと迷って、京一はとりあえず様子をみることにした。まずは「偵察」だ。龍麻のことだから、誘えば一緒に来るだろう。だが、無駄足は少ない方が良い。それに…
この旅行が楽しみかと尋ねたときの、龍麻の反応を思い出す。
これが…「天狗」の出現が、本当に龍麻の予期していたものだとしたら。
(…ちゃんと説明してくれたっていいじゃねェかよ…)
少し離れた位置で湯に浸かっている姿に目を向ける。のんびりと、片手でちょっと湯を掬って見つめる仕草に、益々決意を固めた。
それは、いつも何も語らない龍麻への仕返しでもあり、旅先でも平和に浸ることの出来ない龍麻の運命への反抗でもあった。
………京一…。頼む…頼むから、人前では…人前では止めてくれ…」
「…んあッ? 何だ? 醍醐。」
俯いて、何やらブツブツと呟く醍醐が、どうやらのぼせかけているらしいと気付いて、京一は立ち上がった。
「ひーちゃん、そろそろ上がろうぜ。大将が限界だ。」

 風呂から出て、これからどうするかと尋ねる醍醐に、ちょっとした悪ふざけのつもりで、女風呂を覗きに行くと言ってやった。
当然渋い顔をしたので、内心苦笑しながら龍麻にも誘いをかけた。だが、返答は予想外のものだった。
………ああ。」
…ひーちゃん。解ってんのか? の、覗きに誘ったんだぞ!?
またしても、自分の意図を察知されてしまったのだろうか。
 とりあえず醍醐の手前、「俺とお前はパートナーだ」などと言いながら、この場を立ち去ることにした。天狗の件がハッキリした後、醍醐には説明すれば良いだろう。
その醍醐は、真っ青な顔を引きつらせて立ち尽くしている。
「…俺は…どうなっても知らんからな。」
軽く混ぜ返して応えたが、少なからず京一も混乱していたので、醍醐の心痛の度合いまでは解らなかった。

 中庭から裏道を抜け、風呂の脇の裏庭に回ってきて、京一は少し逡巡した。
本当に、京一の真の目的を汲み取ってついてきたのだろうか。まさか、本当に女風呂を覗きたがるとは思えない、この龍麻に限って。
しかし、自分は一言も言っていないのだ。天狗の偵察に行くなどと。
(それだけ、俺の行動を見切っているってことか? 信用してるのか? …どっちだ?)
 立ち止まって、龍麻を見つめる。
相変わらず何を考えているのか解らない。想像してみても、どうせ苛つくばかりである。
 …そっちがそう来るなら、俺も試させてもらうぜ。
京一は、偵察の件を諦めることにした。
「…いいか、ひーちゃん。俺が先に行くから、お前は後ろを見張れよ。」
言った通り、覗きを敢行するのだ。そして、龍麻がどういう行動に出るかを見てやろうというのである。
偵察に行くんじゃないのかと咎めたら、龍麻は京一の行動を読み切っているということになる。
自分の読みと異なることに慌てたとしたら、ある程度京一に信頼を置いていて、その上で予測をしていると考えて良いのではないか。
 だが、その企みは不発に終わった。
「いッ、犬神………………センセー。」
どこまで邪魔をすれば気が済むんだ! と叫びたいのを我慢する。第一、風呂を覗こうというところを見つかっては、文句の言いようもない。
 フン、と京一を一瞥した後、犬神は意外そうに龍麻を振り向いた。
「蓬莱寺はいいとして、お前もか、緋勇。」
絶体絶命の場面だというのに、涼しげな顔で犬神を見つめ返している度胸には内心舌を巻く。
龍麻自身は覗きに参加する気はなかったのだから、罪悪感がないのかも知れないが。
「どうした? なにかいうことはあるか?」
「…済みません。」
案の定大して悪びれた様子もなく、さらりと頭を下げた龍麻に、却って犬神は面食らったようだった。
「正直だな、お前は。」
 今度見つけたら東京に送り返す、との脅しに内心舌打ちしながら、その場を離れた。
…気が収まらない。
風呂覗きなどという行為は、元々目的ではなかったが、犬神の態度と、龍麻の真意を掴み損ねたことが、京一を脱線させた。
───こーなったら何が何でも覗いてやるぜッ! 見てろよ犬神ッ!!
「お前なら俺の気持ち、分かってくれるよな、ひーちゃん。」
少し迷った末、龍麻はこくりと頷いた。
益々真意が掴めないが、自分の気持ちを汲み取ったのかも知れない、などと都合良く解釈した京一は、嬉々として龍麻をボイラー室に連れ込んだのだった。

 ボイラー室は、浴場に沿った横長の半地下室になっている。
二つの浴場の様子を見るための小窓は、先ほど入浴時にチェックしてあったものだ。案の定女風呂の方にも、同様のものがついている。
(覗いてくれと言わんばかりの造りだよなァ。)
ふと、京一は龍麻に「どちらの窓か」と尋ねてみた。
さきほど、女風呂を右手に見ながら左側の入り口をくぐったのだから、尋ねなくても左の窓だということは解っている。
 しかし、少し小首を傾げると、龍麻は右の窓を差した。
冗談なのだろうか? それとも、自分が勘違いしていたのだろうか?
一瞬にして自信がなくなる。それ程自分は、龍麻の判断を当てにしているのだろうか…
 本気で心臓を高鳴らせながら、京一は右の窓を覗いた。
…だが。
………スネ毛…。」
思った以上のダメージに、京一はうっかり怒鳴ってしまった。
「ちっくしょーーーー!! ここは、男風呂じゃねェかァァァァァッ!!」
同級生たちのむさ苦しい裸で、充分見慣れている筈だったが、「覗き」というシチュエーションは思った以上に破壊力がある。
今は教職員が交代で入浴しているのだろう。教頭の背中を流すA組担任細野(体育担当)の剛毛が、瞼の裏にキッチリと焼き付けられてしまった…。
「誰だ? 騒いでるのは…。蓬莱寺か!?」
入浴していたらしい犬神の声が内から聞こえ、京一は我に返った。
「逃げるぞッ、ひーちゃん!!」

 何とか見つからずにホテルの中に戻ることが出来た。
まだ嫌なシーンが目に焼き付いている。
「うええ…。」
 慰めようとしているのか、龍麻が背中をポンポンと叩いた。
チクショウ、元はと言えばお前がわざと右の窓なんか差すから…
そうだ。やはり、龍麻は分かっていて敢えて右を選んだのだろう。京一の悪巧みを阻止するつもりだったのかも知れない。
キッと振り向いて、…そこで、京一が怒鳴りつけようとした文句は全て霧消した。
 龍麻は、微笑っていた。
時々見せる、微かだが確かな笑顔。普段引き結ばれている唇の両端がほんの少し持ち上がり、強い意志の光を宿す瞳が、親しげに和んでいる。
 …お前。俺のこと、…からかった、のか?
 不思議と、腹立たしさは感じなかった。
むしろ、妙に嬉しさがこみ上げてくることに困惑した。
何だよ…。そんな、ガキっぽいイタズラなんか、するんじゃねェか。
いつも一人で、何もかも見抜いているような、超越しているような顔をしてるくせに。
 「本当の龍麻」は、京一が考えている以上に普通の高校生なのかも知れない。
つまらないことに泣いたり笑ったり、今のように友人とふざけたり悪戯をしたりしたいのかも知れない。
それを、色々な事情で無理に抑えているだけなのではないだろうか。
 何を言っていいか分からなかった。何を言っても、今浮かべている穏やかな笑顔は、夢のように消えてしまう気がした。
京一は結局何も気付かなかったかのように、また盛大に溜息をつき、「してやられた」というようにがっくりと肩を落としてみせた。
…ま、いいか。こんな悪戯、普段なら絶対やらねェだろう。
相手が自分だから。旅先だから。東京を離れ、束の間の平和を楽しんでいるから。
にやけてしまうのを誤魔化すように、苦虫を噛み潰したような顔を作った。
「なんだ、浮かない顔して。どうせうまくいかなかったんだろ?」
ロビーに着くと、まだ涼んでいたらしい醍醐が声をかけてきた。
京一を見て苦笑した後、龍麻の様子に気付いたのだろう。嬉しそうに笑って、こっちへ来いと手招きをする。
 その後、アン子もやって来て、覗いてもいない風呂のことで責められたり脅されたりと散々な目に遭っているうちに、いつものメンバーが揃った。

 話はいつの間にか、問題の天狗の件になっていた。
天狗の「面」。
どうしても、数日前まで死闘を繰り広げた敵のことが頭に浮かぶ。
「その面ってのがどうにも気になるんだよな。面なんか被った奴に、ろくな奴らはいねェからよ。」
つい、ポロリと本音が口をついて出てしまったため、全員がハッと身を固くした。
………鬼道衆…。」
美里が、顔を強張らせて呟く。
 とうとう、正体を確かめに行こう、ということになってしまった。
振り向くと、先ほどまで穏やかな空気をまとっていた龍麻が、いつも通り表情を消して成り行きを見守っている。
「冗談じゃないぜ、今から山登りなんてよォ。なあ、ひーちゃん?」
半分は本音だった。
先ほどまで、あんなにリラックスしていたのにと思うと、何か悔しいような、腹立たしいような気がして仕方がない。
「いくらなんでも、今日、それも今夜行くこたねェだろ? また明日にすりゃいいじゃねェか。」
しかし、もう遅かったようだ。龍麻はきっぱりと「行こう」と宣言し、全員が頷く。
なおも食い下がろうとすると、アン子が脅迫してきたので、渋々京一も従った。
(…だけど、オレは結局覗いてないんだぜ? 何でこんなに脅されなきゃなんねェんだ!)

 普段と同様、全員の後ろを護るようにしながら、油断無く辺りに気を配っている龍麻の気配を背中に感じながら、苛々と京一は文句を言い続けた。
「本当にいるんだろうな、その天狗はよォ…。」
小蒔が食ってかかるのを交わしつつ、これが本当に鬼道衆か、それに相当する<敵>だった場合を考える。
古都と呼ばれてはいるが、この辺りは全く拓けていない山奥である。こんなところで騒動を起こすメリットはあるのだろうか?
 その時、すぐ近くで大きなものが落下するような音と、微かな呻き声が聞こえた。
すぐに全員が走り出す。
音の発生源は程なく見つかった。
「見て、あれ───、天狗だッ!!」
天狗の面。羽団扇に一本歯の足駄。どこからみても、由緒正しき天狗の格好をした…「人間」が、わたわたと立ち上がろうとしているところだった。
「天狗が…、木から落ちたのか?」
 ほんの少し、醍醐が肩の力を抜いて呟く。
京一も軽く息をついた。
…どうやら、考え過ぎだったらしい。やはり騒ぎの元は、村の開発反対者だったのだ。
必死で威厳を保とうと演技を続ける「天狗」を、京一は嘲笑した。
「お遊びはそのくらいにして、その仮面を取んなッ!!」
こんな下らないことで、わざわざこんな山中に足を運んだかと思うと気が抜ける。何ならこの騒ぎの張本人を懲らしめて帰ろうかと思ったとき、別の人物が間に入ってきて、事態はまた別の方向へと向かった。
 朋子という少女は、昼に会った老婆の孫だと名乗った。余程詳しく自分たちのことを教えられたのか、一目で分かったという。
「昼間はばあちゃんを助けていただいて、本当にありがとうございました。」
一番後ろにいた龍麻にぺこりと頭を下げる。恐らく老婆は、家に着くまでずっと手を引いてくれた無口な学生のことを、繰り返し孫に語って聞かせたのだろう。
軽く会釈を返した龍麻は、特に何の感動もない様子で、朋子と隆の話を聞いている。
龍麻が危惧していたことは、この天狗騒ぎとは関係がないのだろうか。
 山の開発が住民の声も周囲への影響も全て無視して行われているということを、二人は切々と語った。
美里は自分のことのように胸を痛めている。小蒔も持ち前の正義感から、憤りを素直に口にした。
(話を聞いちまった以上、関わらないワケにもいかねェよなァ。)
山を救わねば、などという気はさらさらないが、こうして関わり合いになった人間が目の前で困っているのに、通り過ぎて平然と出来る程薄情ではない。
それに、折角来たのだから、ちょいと一暴れしていかなきゃ気が済まない、という心もある。
彼らに案内を頼んで、工事現場へと向かった。

 しかし、そこに待っていたのは、予想外のものだった。
「まったく、近頃のガキはタチが悪いな。」
反射的に身構えながら振り向くと、そこには明らかに堅気の人間とは一線を画する男が立っていた。後ろには、やはり真っ当な仕事を生業にしているようには見えない連中が、ぞろぞろと控えている。
台詞から察するに、どうやら彼らは開発業者に雇われた用心棒のようだ。
 自分たちを見ても一歩も引こうとしない京一達を見て、「兄貴」と呼ばれた男はスッと眼を細めた。
「どうやら、どの顔も口じゃ納得できないようだな。…いいぜ。相手になってやる。そのかわり、腕の一本や二本は覚悟しておくんだな。」
「…けッ。天狗退治にヤクザを雇うとはレジャー開発も物騒だねェ。」
挑発するように笑うと、「兄貴」は京一をちらりと見て、鼻で笑って見せた。
 確かに、この男もなかなかの手練れなのだろう。隙のない身のこなしが、その言葉と態度に滲む自信の裏付けをしている。
しかし、相手の力量が読めないようでは、所詮三下である。
既に臨戦態勢に入っている龍麻の<<気>>が、工事現場を闘いの場へと変えていた。
袱紗から木刀を引き抜いて、京一は右に飛んだ。同時に醍醐が左へと駆け込み、雑魚どもを倒しにかかるのを確認する。
 龍麻が男の蹴りを軽くかわすのを見て、あと3手も保たねェな、と笑った。

 退屈しのぎにもならない戦闘は、5分とかからず終了した。
呼吸一つ乱すことなく、強烈な足技で男を吹き飛ばした龍麻は、何事もなかったかのように佇んでいる。
「なんてェガキ共だ…。」
戦意を失った手下達は、ある者は倒れ伏したまま動かず、ある者は既に逃げ出し、残りは教えを乞うように「兄貴」を見つめている。
 自分が負けるとは思わなかったのだろう。男は首を振り、苦笑いしながら身を起こした。
「あなたにだって、故郷があるでしょう? 絶対に護りたい、何かがあるでしょう…?」
朋子と隆が、必死で訴える。自分達の愛する山を護りたいのだと。
「フッ…。護りたい何か…か…。」
鼻で笑って目を逸らした男に、何を思ったのか、龍麻がスッと近づく。
そして男の側にかがみ込むと、手を差し伸べたのである。
 一瞬、驚きに身を固くした男は、差し出された手を軽く握って立ち上がった。
軽く服についた土を払って、また苦笑する。
「…ガキの感傷には付き合ってられねえな。」
 しかし、男は手下達に退却命令を出し、更には、開発の工事用機械を壊すよりも有効な手立てだと言って、開発会社と暴力団との癒着を流布しろと告げたのだった。
マスコミにでも流せば、土地の乱開発と併せて大打撃を受けることは間違いない。
山の地主との問題もあるが、破壊的な開発に歯止めをかけるには有効であろう。
「それに、この山にゃ…本物の天狗がいるかもしれねえしな…。」
龍麻を振り向き、ニヤリと笑ってみせると、男は去っていった。後を追うように、残った手下達も闇の中へ消えた。
 今の、龍麻と用心棒との一瞬の交流は何だったのだろう。
たったあれだけのことで、任侠に生きる男の心をも動かしてしまったのだろうか。
 (………天狗…ねェ。)
龍麻が予期していたのは、この闘いだったらしい。
自分達が今日この場に来なかったら、隆と朋子は非道い目に遭っていただろう。そういう意味では、天狗並の役目を果たしたと言えなくもないかな、と京一は苦笑した。
「たまにはこういうのも悪くねェよな?」
そう声をかけてみると、龍麻は軽く同意した。
その背から、先ほどまでの張りつめた様子が消えている。
これで明日からは、心から旅行を楽しめると思ったのだが───

◆ ◆ ◆

 散々な4日間だったぜ。
京一は溜息をついて、駅で買った缶ジュースを飲み干した。
第1日目の夜は、結局無断外出の罪で、夜中まで正座をさせられた。2日目の自由行動は、厳重注意を受けた上、マリアの監視付きで回ることになった。調子が狂い、奈良で過ごした3日目もろくなことがないまま慌ただしく過ぎ、今はもう東京へと向かう新幹線の中である。
(ちェッ。龍麻も結局あの後は普段通りだったしよ…面白くねェな。寝るか…)
仕方ねェなと心で呟きながら、座席の背もたれを倒そうとした時。
ふと、肩に柔らかい何かが当たるのを感じた。視線をやると、龍麻の黒髪がそこにある。
「…え?」
なんと龍麻は寝入ってしまったらしい。京一の肩に寄りかかるようにして、微かな寝息を立てている。
普段なら考えられない、その無防備な姿に驚きを禁じ得ない。
流石の龍麻もこの強行軍には疲れてしまったということなのか。それとも…
(俺の隣だから…俺が隣にいるから、安心しているのか? そう…考えていいんだよな、ひーちゃん…)
閉じられた瞼と長い睫毛。普段は硬く引き結ばれた唇が、微かに開かれ、どこかあどけなささえ感じられた。
 ───護りたい。護ってやりたい。
心の奥底から、そんな気持ちが沸き上がって来る。
これは…何だ? どうして俺は、そう思ってしまうんだ…?
皆も同じなのか? ごく自然にコイツを護りたい、コイツのために闘いたいと思ってしまうのか? まるで何かに操られているかのように…
 パシャパシャ、と軽い音がして、京一は鋭く通路の方を振り向いた。
「…アン子ッ。てめェ…」
「ふっふっふ…。決定的瞬間よ〜。この、普段は隙のない龍麻くんの寝顔ッ! 売れるわ〜絶対!」
「お、おいこらッ! 売るなそんなもん!」
一応小声で抗議するが、そんなものを聞くアン子ではない。
「あら、安心していいわよ。アンタなんか撮ってないから。」
「そーゆーこっちゃねェッ。こら、アン…」
「じゃあね〜ッ。今度の真神新聞、期待しててよね。」
「おいッ…」
すたすたと歩み去るアン子を追いかけようにも、龍麻の頭をどけるわけにも行かない。
(…まァ…いいか。寝顔撮られたくらいで、怒るコイツでもないし…)
そう結論づけてはみたものの、恐らく修学旅行特集になるだろう次号の真神新聞を想像し、また複雑な気分に陥って、溜息をつく京一であった。

12/02/1999 Release.