拾参
之弐

醍醐の憂鬱III

 紫暮家の朝は早い。
「お早う!」
大声で宣言しながらリビングにノシノシと現れた兵庫の前には、細い身体で大鍋と格闘する母・真理子と、既に食卓について、新聞を読んでいる父・筑梧の姿がある。
「うむ。」
「お早う、兵庫。」
こちらを振り向かず、朝食の準備に勤しみながら応えた母の横で、手製の糠漬けを取り出していた祖母・志摩が、ヨイショと立ち上がりながら兵庫に声をかけた。
「お早う、兵庫や。今日は学校、休みなんだろ?」
「ええ。道場の方、お手伝いしますよ。…ただ、10時に友人が尋ねてきますので、午前中の部はちょっと…」
「アラ」
 兵庫の言葉に反応したのは母の方だった。
大鍋から取り分けた豚汁を、大どんぶりに均等に分けながら尋ねる。
「もしかしたら、龍麻くんかしら? それとも、湯川くん?」
春に知り合った龍麻と、学校の空手部の後輩である湯川とは、母のお気に入りであった。
「ああ、龍麻の方だ。…そんなに気に入ってるのか。」
思わず苦笑しながら訊くと、真理子はにっこりと微笑んだ。
「あなた方みたいに暑苦しい子達ばかり見ているとね、普通のサイズの子がとっても可愛らしく見えるのよ。」
 兵庫は豪快に笑って席に着いた。暑苦しいだとか大きすぎて邪魔だとか、そんなことは言われ慣れている。自分と同じ大男が4人もいたこの家では、言われて然るべき文句だったのだから。
 上の二人の兄が独立し、ようやく涼しくなったなどと言い放つ、気性の強い辛辣な母であったが、家に連れてくる友人・後輩達にはひどく受けが良かった。優しく綺麗な理想的母親に見えるらしい。
(余所の「可愛い」子供達には優しい、というだけなんだがな。)
見た目とは異なり芯のしっかりした母と、厳格ながらその母には頭の上がらない様子の父。更に「主婦というものは、そうでなくてはね」と宣言する祖母のせいで、紫暮家の男達はこぞって女に弱かった。

「…龍麻くんは、道場の方には顔を出さんのか。」
 ボソリと、しかし居間に響き渡るズシリとした声で、筑梧が尋ねた。
無口なこの父も、やはり龍麻を好いていた。
最近の若者には珍しく、武道家らしい立ち居振る舞いがしっかり身に付いていると言って、初めて家に呼び入れた日にいきなり他流試合を申し込んだのだ。
 結果、古武道というものの勝手が分からず苦杯を嘗めさせられたのだが、それ以来、龍麻が遊びに来る度に道場へと誘い、立ち合ったり、ただ座って睨み合ったりしている。
兵庫はよく知らなかったが、気の交流とでもいうものか。対座して、ただ気のみで相手を押し合う、合気道の練習法の一つである。
元来、空手にも相手の持つ気を読むことが重要だと説いてきた父にとって、龍麻は恰好の相手であったのだ。
「えっ、龍麻さん来るの?」
 元気、というものを音に変換したような胴間声が、突然後ろからかかる。弟の徳史は、顔を洗ったタオルを首にまいたまま、飛び込むように入ってくると、冷蔵庫に直行しながら続けた。
「先に闘(や)らせてよ。俺午後から補習なんだー。」
「徳史。」
テーブルをコツコツと叩きながら、筑梧がじろりと睨む。
取り出した1リットルの牛乳パックに直接口を付けながら、徳史は首をすくめ、「おはよーございます」と付け加えた。だが気に留めることなく続ける。
「こないだは結構惜しかったと思わない? あとちょっと、あそこで左にかわしたのがまずかったんだよなあ。もう一歩…」
「悪いが、今日は話があって呼んだんだ。」
話を遮るように、大きな声で兵庫は言い放った。そう、今日は大事な話をするためにわざわざ家に呼んだのだ。早めに済めば、その後手合わせを願うつもりではあったが。
「何だよそれー。つまんねェの。」
口を尖らせたのを見て、大の男が変な顔をするもんじゃない、と祖母が叱りつける。
はあい、と頭を掻く姿に呆れつつ、それでもこの天真爛漫な弟には父も祖母も甘いのだと、少し複雑な気持ちになる。
 だが、その弟さえも夢中にさせている男に、忠告をするのが、本日の兵庫の為すべき仕事だった。

「ワシも好きじゃよ、あの坊主はの。今時の子供にしちゃァ、背筋がピン、と伸びて立派なもんだ。死んだ爺さんを思い出すよ、フホホホ」
「えっ…爺ちゃん…」
 全然似てねェよう、と呟く徳史も、流石に大声で祖母に反論は出来ない。しゃもじが飛んでくるに決まっているからだ。
「魚の食べ方がキレイなのよね。それでお母さんはとっても気に入ったのよ。何だか最近の子達、身体は大きいのにお箸もろくに使えないんだもの。」と母。
「何だよ、俺らなんか骨ごと口に放り込んでんじゃん。」と徳史。
「…それは、行儀が悪いんだ。」と父。
 低血圧だの寝不足だのといった不健康な空気が一切排除された紫暮家の食卓は、朝から賑やかで豪快だった。
 分厚く切られたサイコロステーキ(と、紫暮家では呼んでいるが、一口サイズというには余りにも大きな肉のかたまり)を口に放り込み、兵庫は言った。
「龍麻の家も、旧くて躾にはうるさかったらしいな。」
「そういう家の子は、一目で分かるものよ。あなた達もちゃんとなさい、兵庫、徳史。」
普通サイズの茶碗に糠漬けを乗せながら、真理子が言う。
「だーいじょぶ大丈夫。俺らなんか全然マシじゃん。髪も染めてないし、タバコも吸わないし。」
「…『じゃん』などと言うな。」
「へーい。」
「…とにかく、今日は龍麻が来たら、部屋に入れてくれ。親父、勝手に道場に連れ込まないでくれよ。後で時間があるようなら連れて行くから。」
……うむ。」
 いかにも渋々、という様子で頷いた父に、思わず噴き出す。
同じ事を思ったらしい弟も、どんぶりを母に差し出しながら、けたけたと笑った。
「親父も懲りねェなー。あんだけこてんぱんにされても闘りたいかあ?」
「…何をいう。お前こそ、六度やって一度も勝っていないだろう。」
「だから! こないだは惜しかっただろ? あの時つい左にさあ〜」
「馬鹿を言え。あの時どう動いても、龍麻には余裕があったぞ。あれもお前の完敗だ。」
「ええーッ!? 兄貴どこ見てたんだようッ!」
「…兵庫の言う通りだ。」
「うそおッ。だって、こう取って前に出てれば…」
「違う。その場合、龍麻は恐らく身体を左に退いて、こう…」
「お前達ッ! 食事中にお止めッ!」
 祖母の怒号に慌てて席に着く。
いつも通りの、紫暮家の微笑ましい団らんである。
 とにかくこの家の人々は、こぞってあの無口な青年を愛してやまなかったのであった。

「いらっしゃい、龍麻くん。兵庫が部屋へそのまま来るようにって言ってるから、上がって頂戴。」
「…お邪魔します。」
 きっちりと頭を下げ、真理子に向き直ってから丁寧に挨拶をする。
この礼儀正しさが、彼女や志摩にとって好ましく映るのだ。
「階段を上って右が兵庫の部屋よ。」
「よく来たね、坊や。後で冷たい麦茶でも持って行くよ、フホホ」
志摩にも深々と頭を下げた後、階段を上る。
言われた通り、右の部屋の扉をノックしているのを下から見上げながら、二人は呟いた。
「…本当に、普通のサイズの子はいいねェ…」
「階段がギシギシ言いませんものね…」

「よう、呼び出して悪かったな。」
「…いや。」
「メシは良いのか?」
「…ああ。」
 部屋の真ん中に座布団を無造作に放り、座るようにと促す。龍麻が素直に従うのを見ながら兵庫は言った。
「本当は醍醐も来るはずだったんだが、少し遅れると電話があったんでな。まァ、先に話を始めておくことにするぞ。」
……。」
 少し居住まいを正し、咳払いをする。兵庫とて、お世辞にも話し上手と言える人間ではないのである。
「実は…ここ最近のお前の闘い方を見ていて、少し気になっていることがあってな。たまたま醍醐に言ってみたら、同じことを奴も感じていたというので、それで今日は二人でちょっとお前の真意を確かめてみようかということになったんだ。」
言葉を切って、顔を見つめてみたが、その表情は全く揺るがない。
 兵庫は続けた。
「龍麻。お前の闘い方は、少し…危険が過ぎないか?」

 龍麻は大抵は前衛にいて、兵庫や醍醐、京一と共に闘っている。
横にいると良く解るのだが、龍麻の攻撃は非常に積極果敢で、しかも短時間で相手を葬り去る手際の良さが光っている。
それは非常に良いことだろう。しかし、最近気になることが増えた。
相手の攻撃を、龍麻は避けないことが多いのだ。
 カウンター攻撃、とでもいうのだろうか。
相手が攻撃を仕掛ける一瞬の隙に、同時に、もしくは数刻のずれを以て攻撃する。
攻撃態勢に入っているのだから、防御は勿論不可能だ。相手に与える損害は大きいが、自分が受ける衝撃もまた少なくはない。
 敵が雑魚の場合に限られるし、恐らく龍麻のことだから、多少のダメージは計算済みなのだろう。
だが、そのような闘い方をしているため、龍麻は常に生傷が絶えなかった。

「美里や高見沢の不思議な力で癒してもらえるし、傷を塞ぐ特効薬もある。…だがな、龍麻。もう少し、その…自分を大事にしても良いんじゃないか?」
………
「『肉を切らせて骨を断つ』というのも一つの作戦だろうし、お前としては全員の安全を確保するため、早く戦闘を終わらせようという気持ちなのかも知れん。だが…俺達をもっと信頼してくれてもいいんじゃないか。多少時間がかかっても、俺達はそう簡単に倒されはしない。そうだろう?」
………
「…鬼道衆を斃し、今更このようなことを言うのも何だが、いつ何時このような事態に戻らぬとも限らんからな。うるさいだろうが、忠告の一つとして心に留めておいてくれ。」
………ああ。」
 龍麻はゆっくりと頷き、沈黙が訪れた。

「…少し喋りすぎたな。ちょっと待っててくれ、何か飲み物でも取ってこよう。」
……ああ。」
 兵庫は部屋を出ると、軽く息を吐いた。
自分の誠意はどこまで伝わっただろう。本当に龍麻は分かってくれたのだろうか。
黙っているのは理解したということか、それとも拒絶の意なのか。
どちらにせよ、これ以上押しつけの意見を述べても、頑なな彼の心を捉えることは出来まい。
 階下に下りると、リビングでは母と祖母がもめていた。
「いえ、私が持っていきます。」
「何だね、ババアの楽しみを邪魔する気かい?」
「…あのう。何か飲み物を…」
何やら二人は、麦茶のコップを乗せた盆を取り合っている。
「ああ、丁度いい。もらっていくぞ」
ひょいと盆ごと取り上げると、二人は同時に「あ…」と言って恨みがましそうな顔をしたが、兵庫は気にしなかった。そのまま階段をギシギシと登る。
「…兵庫ッ。龍麻くんにお昼食べていくように言ってね!」
階下からの、何故か少し怒ったような声に「分かってる!」と応えて、部屋のドアを開けた。

「…うッ。」
 思わず漏らした声に、龍麻が振り向いた。
兵庫の目は、龍麻の手にしているものに釘付けになっている。
「そ…それは…その…」
……舞園、…さやか。」
「うっ。」
昨日買ったばかりの、さやかのCD。机の上に出したままだったとは迂闊だった。
 舞園さやかという、希有な歌声をもつアイドルを好きだということ自体は、恥ずべき事ではないとは思う。
だが自分は硬派であるし、周りもまたそう見ていることも承知している。
母・真理子言うところの「暑苦しい」「むさ苦しい」「見苦しい」の三拍子揃った男が、可憐な少女歌手のCDを見てニヤついているというのは、客観的に見て異常であろうという常識も持っている。
「似合わない」という自覚が、彼女のファンであると公言することを良しとしないのだった。
 だが、龍麻はあっさりと告げた。
……聴いて…みたい。」
「えっ?」
真摯な表情を崩さないのを見ると、からかっているわけではないようだ。
「き…、聴いたことがないのか?」
「…ああ。」
「は、ハハ。なんだ、龍麻、お前でもこんなアイドルなどに興味があるんだな。ま、まァ、俺も嫌いではないがな。そ、それは弟のものなんだが、ハハハ。」
言わなくても良い言い訳をしつつ、それじゃとばかりにCDをプレイヤーにセットする。
 速やかに、静かな調子のメロディが部屋に流れ始めた。

 しばらく黙って曲に聴き入る。
この新曲も良いな。明るくテンポの速いものも良いが、彼女の歌声には、こういうしんみりした曲の方が合っている。
 そんなことを考えてぼんやりしていると、正面からコトリ、と小さな音がした。
龍麻が、後ろの本棚に背を凭れさせたのだ。
目をつぶって聴いているのかと思ったのだが、どうやら寝入ってしまったらしい。
(珍しいこともあるもんだな。龍麻のような隙のない奴でも、居眠りをしてしまうことがあるのか)
 極上の音楽は子守歌、と言われる。
ヒーリング音楽とも言われるさやかの歌声に、やすらぎを感じたのかも知れないと思うと、何となく嬉しい気もする。
「おい、龍麻…」
そっと呼びかけてみたが起きないので、しばらくそのまま放っておいた。
 だが、アルバムも終わろうというくらい時間が経っても、龍麻は起きるどころか、スースーと寝息を立てて眠っている。
仕方なく、その身体をなるべく静かに抱き上げ、ベッドに運んでやった。
「よっ」
持ち上げられても目を覚まさないところをみると、余程疲れていたのかも知れない。
鬼道衆との闘いは、自分達が思っているよりずっと龍麻に負担をかけていたのだろうか。
ベッドに横たえ、頭を枕に乗せてやりながら、少しその寝顔を眺めた。
身体も軽いし、細っこいし、鬼を素手で倒す男とは思えんな。まァ、お袋の気持ちも、分からんでもないか)
 苦笑しながら身を起こそうとした時。

 ゴトッ。

 廊下から妙な音が響き、ドアが開いているのに気付いて兵庫は振り返った。
……そ、そんな…し、紫暮…」
「…? 醍醐、来たのか。」
ドアの外に立っていたのは醍醐だった。何故か真っ青になり、腹の辺りを右手で押さえている。
「ば、馬鹿な…お前は、まさかお前まで…」
「???」
「…嘘だッ!!!」
掠れた声で叫ぶと、醍醐はくるりと回転して、階段をダダンと駆け下り、そのまま玄関から走り去っていった。
「…? 何だ、アイツは。」
ふと、まだCDがかかっていることに気付き、さやかファンであることを知られたかな、と少し赤面した。
だが、そのような事で逃げるほど動揺しなくても良いと思うんだが…
 首を傾げる紫暮も、一人すやすやと気持ちよさそうに眠り続ける龍麻も知らない。
醍醐がとんでもない誤解を抱いて逃げ去ったことを。

「…龍麻ッ! 一体お前は、何人の男の運命を変える気なんだ!!」
ある意味では正しいのだが、ものすごく間違った誤解に胃を痛めつつ、よろよろと駆け続ける醍醐の未来は、未だ混沌としたままであった。

09/20/1999 Release.