之壱

兆候

 うららかさが、瞼に不必要な重力を与える。
食事時でなかったら眠っていたことだろう。
 五月、良く晴れた日の昼休み───
屋上に吹く穏やかな風が、少し汗ばむほどの暖かい日差しを和らげる。
「いー天気だなァ。あーッ。午後中ずーっとのんびり昼寝してェー」
金網に頭を凭れさせ、上空を見上げ、悪友は続けた。
「出来れば柔らかーいおネエちゃんの膝枕でよお」。
冷たいコンクリートの床の上に、無造作に投げ出された足には、食べ終わった菓子パンの袋がまとわりついている。
「全く、お前はいつでもそれだな。」
呆れたように呟く醍醐は、京一のすぐ隣で、金網の足台に腰をかけていた。
食べ終わったばかりのサンドイッチの袋をクシャッと丸め、もう一人の級友を見やる。
 自分と京一の対面に端座した緋勇は、コンビニのおにぎりを手にしたまま、京一につられたのか、空を見上げていた。
 穏やかに吹く風が、彼の髪を軽く跳ね上げていく。
(…一度、注意したいと思っていたのだが。)
少し躊躇った後、醍醐は改めて彼に呼びかけた。
「…なあ、緋勇。お前、その…邪魔にはならんのか? その髪は…」

 緋勇の実力を我が身をもって知ってからというもの、醍醐は、彼には一目を置くようになった。
勿論、単に武道に通じているから、武術に秀でているから、というだけではない。

 醍醐が初めて古武術を目にしたのは、高一の頃だった。
少しずつ、自分が求めているものの形が見えてきた頃。
龍山という得がたい師を得、ヤケになり自分を見失っていた状態から、ようやく抜け出そうとしていた頃のことだった。
 その日も、特に用ということもなく龍山邸に足を運んだ醍醐は、そこで賊に襲われる龍山を目にすることとなったのだ。
師を救おうとした醍醐の身体は、しかし途中で金縛りにあったように動かなくなった。
 突然現れた男が、これまで見たこともない技で賊を撃退してしまったのだ。
男は、流れるような独特のリズムをもって賊を翻弄し、吹き飛ばし、地に叩きつけ、数刻のうちにすべてを沈黙させ、去っていった。

 何故襲われたのか。龍山の来客であったらしい、その不思議な技を持つ男は誰なのか。
龍山は「お主が関わるべき話ではない」と何も語らなかったが、一つだけ、男の使った技が古武道と呼ばれる、特異な武術の一つであることを教えてくれたのだった。
 目が覚める思いとは、正にこれを指すのだろう。
力でねじ伏せ、自らと相手とに歪みを生じさせる闘い方しか出来なかった己とは、根本的に異なる何かを、醍醐は感じ取ったのである。
 自分にも、目指すことが出来るだろうか。
自らの肉体の限界に挑むこと。技と技を競い合い、己の力を高めていくこと。
傷つけるためではなく、救うために。何かを、得るために。

 改めて、目の前に居る男を注視する。
───似ているな。
記憶は随分薄れてしまったが、印象に残る技と、隙のない立ち居振舞い。醸し出す雰囲気。それらが総て、この転校生に重なって見える。
 同じ武道を嗜んだ者だからか、それ以上の関わりがあるのかを確かめるつもりは無かった。
訊こうにも、名も知らず、容貌も曖昧になってしまっている人物について、知己か否か確認できよう筈もない。
 それに、そんなことは重要ではない。
自分が、武道を極めたいと考えるようになったきっかけの一つ。いわば、憧憬のようなものが、醍醐の心には在ったのだ。そのままそれが緋勇に向けられたのは、当然の成り行きであったのかも知れない。

 緋勇は、空いた方の手でちょっと前髪を引っ張るような仕草を見せた。
表情は変わらない。
どんな時でも、この男は決して感情的になることはなかった。それも醍醐を唸らせる原因の一つだ。
思うに、これも古武道の教えの一つなのだろう。常に感情に流されず、冷静に行動する基本理念があるに違いない。
「つまらんことを言うようだが、武道を嗜むものとしては、その前髪は邪魔にしかならんと思ってな。」
 風紀委員かっての、と京一が短く笑う。
普段も、戦闘時も、特に不自由をしているようには見えない。むしろ、視力はかなり良いと思われた。
だが激しい動きを要求される際、髪が長いために、思わぬアクシデントにつながらぬとも限らない。
スポーツ選手や武道家が短髪にしたり束ねたりしているのはそれなりに理由があるのだ。
 知らず説教口調になるのに気付き、慌てて咳払いをする。自分の悪い癖だ。
「あー…コホン。まァ、何か理由があるのでなければ、注意するにこしたことはないと…」
 クッと、左肘が引かれた。
驚いて振り向くと、京一が醍醐の腕を掴んだまま、緋勇をじっと見つめている。
 (黙れ。醍醐)
滅多に見せない真剣な顔が、言の葉を使わずに語る。
(少し…待ってろ)
緋勇に視線を戻したが、特に変わった所はない。少なくとも醍醐には、そう見えた。

 何時の間にか彼を「龍麻」と呼び、心から慕っている様子の京一は、時々自分達には分からない、隠された緋勇の感情の動きを捉えている。
 軽薄に振る舞い、武道にも事件にも関心を持っていないような態度を普段は取っているが、実は自分よりもずっと強い求道精神を持っている京一の内面に、醍醐は気付いていた。だからこそ親友でいるのだ。
 格好が悪いとでも思っているのか「それ」を人に知られたがらず、表面上はどんなに親しげでも、真に打ち解けようとしない。それが、蓬莱寺京一の本当の姿だ。
そんな彼が、ほんの1ヶ月ほどで緋勇にここまで懐いてしまったのは、なかなか興味深かった。
 気が付くと、京一はいつも緋勇を観察している。一挙手一投足を見張るようでもあり、目を奪われているようでもあった。
 緋勇の所作には、独特の間合いがある。これは、体内のリズムと外界のそれを常に一定に保つためである。気を繰る類の者には重要な基本だ。
それが、動くときの舞を舞うような滑らかさと、静止したときの姿勢の無駄のなさを生み出す。
武道を嗜む者ならば、ここまで完璧にリズムを保っている姿に目を奪われるのも道理だ。京一も然り、である。
何にせよ、あれだけ観ていれば、普通には見分けられない緋勇の心も、感じ取れるようになるのかも知れない。
 醍醐は、京一に倣って、黙ったまま緋勇を見つめた。
そういう目で見れば、確かに彼は戸惑い、言葉を選んでいるようにも見えた。
 緋勇は口数が極端に少ない。自分を饒舌だとは思わないが、彼と二人きりになると一方的に自分が語る形になる。聞き上手、というものなのか。いつのまにか、余計なことまで話してしまう。
 対して緋勇は、端的に、効果的に、そして慎重に、言葉を発する。
少ない分、重みのある言葉は、その独特の響きを持つ声に乗って、心の底まで染み入るのだ───

……怖い、らしい。」
 意味が分からず、京一と顔を見合わせる。
「オレの目は…他人には…」
言いよどむと緋勇は、目を伏せてまた沈黙してしまった。
 醍醐の腕を掴んでいた手が一瞬強く食い込み、次の瞬間離れた。
京一は立ち上がり、緋勇に近づくとしゃがみ込んで、
「ンなこたねーぜ。見してみな?」
と笑いかけている。
闘いの時に時々見え隠れする、烈しい瞳が思い起こされた。
 ほれほれ、と京一が左手で緋勇の肩を掴み、右手を前髪に伸ばす。
醍醐にもはっきり分かるほど、緋勇の身体がビクッと震えたが、京一は構わず緋勇の前髪を掻き上げた。

………………。」

 深い、闇色の双眸。そこに感情は映されてはいない。憎しみも、怒りも存在しない。
だが、人を圧倒する強い光が、確かに在った。
 押しつぶされそうな程強大な、見えない波動を感じる。
怖れを感じる者も多かろう。
絶大なる力を持った王者に対する畏怖の念だ。怖れると同時に惹きつけられる。
 どこまで…底の知れん男なのだ。
知らぬうち、汗ばんだ掌を握り締めていた。
「…あ…い、いや…たッ大したことねェッて。な、なァ、醍醐?」
何故か顔を真っ赤にした京一が、口篭もりながら振り向いた。
「そ、そうだな。」
元々嘘をつける性質ではない。動揺していることを隠せたとは思えなかった。

 京一と醍醐の様子を交互に見ていた無表情な瞳が、ふと伏せられる。
前髪を抑えていた京一の手をそっと外し、緋勇は立ち上がった。
ポケットにしまってあったコンビニの袋を取り出すと、食べ終えた後の包み紙などを中に入れる。
京一が放りっ放しにしていた菓子パンの袋を拾い上げ、醍醐の元へ近づくと、何か促すように左手を差し出した。
……ゴミ。」
言われて、握り締めたままの包み紙を思い出し、機械的に緋勇へと渡す。
踵を返して、悠然と屋上のドアへと消えて行く姿を、二人はぼんやりと眺めた。

「…ふ」
 ふいに。
笑いがこみ上げてきた。
「くくッ」
先程のことをまるで気にしていないのか。素知らぬ振りなのか。
王者の瞳を伏せ、ゴミを回収して行ってしまった。
「はははは…くくッ、はっはっはっはッ」
おかしな男だ。
 耐え切れなくなり、醍醐は哄笑した。
後を追うか追うまいか逡巡していた京一が、ムッとした顔で何か言いかける。だが、結局何も言わずに走り去った。
今ごろはまた緋勇に抱きついて、あれこれ言い訳をしているに違いない。
その姿を想像して、益々可笑しくなった。
(蓬莱寺京一ともあろう者が、まるで尻に敷かれた婿さんのようじゃないか。)
そうさせている男の、また何と不思議な魅力だろうか。
 まあ、分からんでもないがな。
まだ洩れてくる笑いを抑えながら、醍醐は立ちあがった。
 緋勇に挑んで完敗したとき、言い知れぬ満足感に酔った。
今も、そのときに似た、充足感が胸に広がっている。
 悔しいとも思わんな。俺や京一などには及びもつかぬような器なのかも知れん。
大器を前にして、俺には何が出来るだろうか。何をしたいのだろうか───
 久々に前向きに、未来を想える自分がいる。
 空を見上げると、薄くたなびく雲が二筋三筋、醍醐に暖かい時間をもたらすべく、ゆっくりと流れていった───

05/30/1999 Release.