雨が降っている。
こんな日は、ショパンの雨だれが良く似合う。
鍵盤に指を滑らせ、弾く。
繊細な旋律。
でも、最後まで弾くことが出来ない。
胸が痛くて、指が動かなくなってしまう。
僕は一体、どうしてしまったんだろう?
教室に帰る途中で、九龍君を見かけた。
なんて偶然。
塞いでいた気持ちが、急に晴れていく。
どう、声をかけようかな。
こんにちは、九龍君。
偶然だね……いや、学校で会うのに、偶然というのも変かな?
どうしよう、話題なんて何も持っていない。思いつかない。
何の用もないのに、話しかけたりして、変に思われないだろうか。
いや、九龍君は優しいから、それでもきっと、にっこり微笑ってくれる、きっと
前方から歩いてきた皆守君が、声をかけた。
…何だ、教室に戻るのかお前。
…勿論です、もう5時限目が始まります。皆守サンもご一緒に……
…俺は屋上で寝るんだから、お前は一人で教室にでもどこにでも行けよ。
…駄目ですよ〜ッ! どうしてもと仰るなら、私も参ります!
…ったく、しょーがねェな。人をサボる口実に使うなっての。
…エヘヘッ。
皆守君の手が、九龍君の頭をポン、と叩く。
嬉しそうに笑いながら見上げる、九龍君の横顔。
胸が苦しい。
「
「……はい……でも……」
「話したくないのなら、それでもいいのさ。話したいことだけを話し、黙っていたければ黙っているといい。私はずっとここに居る。焦る事はない」
保健室で、いつもの心理療法を受けても、どうしたら良いのか解らない。
何からどう話せば、楽になれるのだろう?
瑞麗先生は微笑みを浮かべ、煙管をくゆらせている。
「ピ……ピアノが……弾けないんです」
微かに首を傾げるようにして、僕の話を黙って聞いてくれている。
僕は先生の言う通り、思いつくままに並べた。
少し前
なのに今は弾けない。
何故なのか、自分では解らない。
胸の奥が痛むような。
息苦しいような感じもする。
弾いているうちに、苛々としてきて、鍵盤に手を叩き付けてしまった。
何か、何かがとても、こう、もどかしい……
「そうだ……もどかしいんだ。何かが上手くいかなくて、もどかしいんです。どんな曲を弾いても、もどかしい。違う、こんなんじゃ……ないって」
「ふむ、成る程」
先生は口元に手を添え、少しの間だけ僕を見つめていたけれど、「もしかしたら、」と言って、提案してくれた。
「取手。自分で曲を作ってみてはどうだ?」
「えッ……!?」
「どんな曲を演奏しても『違う』のなら、『正解』は恐らく、君の心の中にしか無いのかも知れないな」
「僕の……心の中……」
「ああ。君の姉上が作って下さった曲には、君への想いがたっぷり込められていたのだろう? 姉上にしか作れない、弟への想いを込めた曲だ。君も、今の言葉に出来ない想いを、曲に込めることが出来るかも知れんぞ」
考えたことが無かった訳じゃない。
でも、僕なんかに出来るとは思えなくて、諦めていた。
僕の思いを込めて、曲を創る。
こんな僕にも、そんな事が出来るだろうか?
姉さんみたいに
音楽室のピアノの蓋を開ける。
ポーン、と白い鍵盤を弾く。
オクターブ上げて、アルペジオ。
九龍君の笑顔を思い出した。
明るくて、優しくて、強くて、可愛くて……
そんな彼のイメージで曲が創れたら、僕はこの苦しさから解放されるだろうか?
長調の和音を軽く鳴らしてみる。
彼に似合うのは、テンポの速い、軽快な音。
一ヶ所に落ち着かない、じっとしていられないような、誰もが聴いて微笑んでしまうような。
そう、彼の笑顔みたいに。
誰にでも向けられる、あの
皆守君を見て幸せそうに微笑った横顔。
「
反射的に指が動いて、身勝手な不協和音を奏でた。
嫌な音。
正にこれが、今の僕の気持ちなんだ。
嫉妬。不安。悲嘆。独占欲。憎悪。
九龍君は僕だけの友達じゃないと思い知る、そんな事は当たり前なのに寂しくて悔しい、皆守君に嫉妬する、この音が。
僕だ。
嫌な弟だよね、姉さん。
貴女の音は、あんなに優しくて綺麗なのに。
僕はこんな情けない音ばかり垂れ流すんだよ。
こんな感情、捨ててしまいたい。
捨てられたらどんなに良いだろう?
僕が≪黒い砂≫に魅入られた理由、負の感情ばかり満ちている汚れた心を。
DとE、Aの鍵盤を同時に叩く。
吐き出してしまえば、少しは軽くなるだろうか。
欲しいものを独占出来なくて泣きわめく、この汚れた感情のままに弾いたら。
ふと我に返ると、鍵盤も、自分の手も、床も壁も、何もかもが夕日の色に染まっていた。
そんなに長い間、一心不乱に弾き続けていたのか。
唐突に始まった≪曲≫は、終音を見つけられないまま唐突に打ち切られた。
でも、こんな禍々しい曲には、そんな終わり方が似合っているのかも知れない
パチ、パチ、パチ……
後方のドアの方から、遠慮がちな拍手が聞こえ、僕は飛び上がって振り向いた。
……九龍君!?
どうしてここに!?
一番聴かれたくない人に、こんな曲を聴かれてしまった?
「か……勝手に入って、ごめんな、さい。と……通りかかりましたら、ピアノの音が聞こえ、たので、つい……」
小さな声で、途切れ途切れに話すその理由は、夕焼けに照らされた姿が、ずっと近寄ってきて初めて理解った。
九龍君は、泣いていた。
「どうして……泣いているんだい?」
「…………」
目の前まで近づいた、僕を見上げる濡れた瞳に、また胸が痛んだ。
でもこれは、さっきまでの痛みとは全然違う。
何があったの? 九龍君。どうして君が泣くんだ。そんなに辛い目に遭ったのかい?
可哀想に、もう泣かないで。僕に出来ることはないかい。何でもするよ、君のためなら。
そんな想いが溢れて、胸が締め付けられる。
「解らない、のです。私はただ、……取手サンのピアノを聴いていたら、とても、とても悲しくなったのです……」
「え?」
「胸が、痛いのです。ええと……ごめんなさい、こういう気持ちを何と言うのでしたか……冷たい、じゃなくて、拙い、でもなくて、ええと……ええと……」
九龍君は、しゃくりあげながら、言葉を探している。
僕が彼を悲しい目に遭わせてしまったんだろうか。嫌な気持ちにさせてしまったんだろうか?
「あッ、思い出しました! 切ないのです……切なくて、涙が止まらないのです」
そう言うと、彼は僕の手を取り、両手でしっかり握りしめた。
「取手サン……何かお困りのことがあるのですか? 辛い、悲しいことがあったのですか? 私に出来る事は何かありませんでしょうか!?」
「えッ……」
「私、音楽には疎いので勘違いでしたら申し訳ないのですが、先程の曲には、何かこう……助けて欲しいとか、こうしたいといった願いがあって、それが叶わなくて、悲しんでおられるような……ぜ、全然違うかも知れませんが、もしそうなら、私は取手サンの力になりたいのです。どうか何なりと仰って下さい。貴方は私の、大切なお友達なのです
真っ直ぐ僕を見つめる瞳と、涙に濡れた頬、真剣な決意を示す噛み締められた唇を見て、やっと、衝撃の余り止まってしまっていた頭が動き出した。
何という奇跡だろう。
僕は今、君に全く同じことを想ったというのに、君も僕を、そう想ってくれたなんて。
僕の嫌らしい負の感情が弾かせた、洪水の後の汚泥と化した河川のように醜い曲を。
切ない、と言ってくれるなんて。
こんな曲に共感してしまう想いが、君の中にも存在するなんて。
けれど真実を映す鏡のような大きな瞳に、醜い僕が映る。
醜い僕が言う。
尺度が全然違うのだと。
元々の器も。相手への想いも。その汚さも。
だって、僕なら。
僕がこの曲を聴かされたとしたら、切ないなんて思わないだろう。
自己嫌悪で気が触れそうになるだろう。
「それなら……お願いだよ。君を……君のことを、……『はっちゃん』って……呼んでも、いいかな?」
僕だけのものに出来る君じゃないから。
僕だけのものになった君は、もう君じゃないだろうから。
せめて、僕だけの、誰も使わない、僕だけの呼び方で、君を。
後ろから声をかけた時に、振り向くことなく君が僕を意識する、僕の存在を解る呼び方で。
微かに残る赤い日差しに瞳を輝かせた君は、とても優しい微笑みを浮かべて、答えてくれた。
「とても……嬉しいです。私も、もし許されるのなら、どうか貴方のことを、かっちゃん……と、呼ばせて下さい。御姉君のように……」
「はっちゃん……僕こそ、嬉しいよ……すごく」
「とり……いえ、かっちゃん。……エヘヘ」
いつか僕は曲を創ろう。
出口の無い想いを吐き出すためじゃなく、
大好きな「はっちゃん」への想いを込めて、
姉さんが僕に遺してくれた、愛という≪宝物≫を謳おう。
姉さんのように、純粋で美しい愛は歌えないけれど……
はっちゃんならきっと、時々零れる不協和音ごと、受け取ってくれる。
「はっちゃん。」
翌日、皆守君と並んで廊下を歩いていた「はっちゃん」に、後ろから声をかけた。
満開の笑顔が、振り向く前から零れるのを見る。
「……かっちゃんッ」
嬉しそうに、少し照れ臭そうに僕を呼び、走り寄ってくる。
その後ろ、皆守君が面白くなさそうに、プイ、と顔を背けた。
皆守君がもしあの曲を聴いたら、共感してくれるのだろうか。
そして、自分自身を嫌悪するだろうか。
僕のように。
2005/12/20(火) Release.
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